とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

劇評『オレアナ』

2015-11-28 03:16:13 | 演劇
主役は電話?
 
 11月21日(土)渋谷パルコ劇場で「オレアナ」観劇。
デイヴィッド・マメット作、栗山民也演出。出演、田中哲司、志田未来。

 登場人物は大学の先生と女子学生。

 大学の先生はタイプのむずかしい言葉を使いたがる人だが、理性的で常識が通じる普通の先生である。一方女子学生は大学生としては少し出来が悪そうで、単位を落としそう。レポートは的を射たものではなく、その一部が劇中先生役によって読まれるが、中身がないことは明白。これでは単位をあげられない。誰が聞いてもあきらかだ。

 それでも女子学生は先生の言葉が難しすぎると非難する。確かに大学の先生は難しい言葉を使いたがる傾向がある。しかも、それが新語だったりすると理解するのは難しくなる。日本の場合でも同じである。もっとわかりやすい表現をすべきなのに新しい外来語を使いたがる。いい加減にしてほしい。しかし、かと言ってそれが女子学生が単位を落とす直接の原因とは思われない。

 大学の先生は会話の中でかなりの譲歩をしている。女子学生が取り乱すことのないように、後で問題にならないようにできるだけ言葉を選び説得する。最後には補講をおこなうことまで提案する。学校に対するクレームがあることを十分意識した対応であり、一昔前の理不尽な教師の横暴な態度とは明らかに違う。この作品は一昔前のアメリカの作品であるが、内容的には現代の日本の教育社会と似ている。

 女子学生と先生の会話はかみ合わず、次第に女子学生は自分がセクハラを受けているものと思い始める。
 
 実はこのあたりから私はわからなくなった。どう考えても私には大学の先生がクレームが起きないように気を使いながら対応しているように思われる。単純なセクハラ、パワハラといった問題にはなりえないと感じるのである。しかしながら、部分部分を取り上げるとセクハラ、パワハラに見えなくもない。だとすれば普通の会話でもそうなる危険性があるということである。普通の生活をしていても訴えられそうなそんな社会である。
 
 この芝居の解説を見てみると、どちらの立場に立つかによってまるっきり違う見え方がすると書いてあった。女子学生の立場に立つ見方も可能だと言うのである。しかし、私にはそれはできない。「普通の会話までもが、セクハラ、パワハラと言われる危険性があるという不条理な現代を描いた作品」という評価ならば理解できるが、この先生が女子学生にセクハラをしていたという見方はどうしてもできない。これは私が男だからという理由ではないように感じられる。

 もしかしたら、女子学生の罠だったのではないかと思った。この先生を憎んでいる女子高生が先生を破滅させようとした罠。そう思わせる部分もあるが、だとすると単純な復讐劇になってしまい、もの足りない。コミュニケーションがなりたたない不安定さ、気持ち悪さにこの劇の主眼がある。

 ここではっとした。もしかしたら、この劇の主役は電話だったのではないかと。
 
 劇中ふたりの会話をぶった切るかのように電話がなる。この電話が見ている我々にとってもイラつく原因である。話が途切れてしまうのである。人と人が話をしていて、途中で電話が入ってこられると、いやな感じになる。しかもそれが何度か続くと、イライラが募ってしまう。さらに最近は携帯電話になり、それが頻繁におこるようになった。女子学生もイラついたはずである。話が進みそうなときに必ず電話で分断される。前向きだった気持ちも、知らず知らずに後ろ向きなる。女子学生も先生にただ単位のお願いに来ただけだったのに、先生もそれに誠実に対応したかったのに、頻繁にかかる電話によってお互いにイライラがつのり、女子学生が先生に悪意を感じ始めた、私はこれが正解なのではないかと思い始めている。

 しかも、電話の内容がわかるようでわからない。微妙なところを行き来している。電話の中身を構成しようと試み、どうもうまく行かないまま現実の場面にもどされ、そちらもかみ合わない。観客は登場人物と同じようにイライラが募っていく。電話の内容がわからないことを最初は私の注意力が散漫であったためかと思っていたが、作者のねらいだったのではなかろうか。

 電話は現代における大きな発明である。特に携帯電話の時代になり、もしかしたら近年の一番大きな発明と言ってもいいのではないか。しかし、それはどこにでも潜入することができ、目に見えぬ糸をすべて切っていく。ウイルスみないな大変危険な存在だ。

 ネットワークという言葉があるが、昔ながらの人間のネットワークは電話による、あるいはインターネットによるネットワークに大きな影響を受けている。昔ながらのネットワークは崩壊する場合もある。これは社会の大きな変化であることは明らかだ。

 もちろん、これは私の見方であり、他にも多様な見方ができるであろう。また、演出の仕方で別の見方になるかもしれない。そのことを申し添えておく。
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