夏目漱石の初期短編「一夜」を読みました。これも『吾輩は猫である』が書かれていた時期に発表された作品です。とても短い小説なのですが、一読しただけでは訳がわかりません。いや再読しても訳がわかりませんでした。
夏目漱石自身が『吾輩は猫である』の中で次のように書いています。
(東風)「せんだっても私の友人で送籍(そうせき)と云う男が一夜という短篇をかきましたが、誰が読んでも朦朧として取り留めがつかないので、当人に逢って篤と主意のあるところを糺して見たのですが、当人もそんな事は知らないよと云って取り合わないのです。全くその辺が詩人の特色かと思います」
自分自身で取り留めがつかないと言っているくらいなのですから、わかりっこありません。ただしここにヒントがあったのも事実です。引用した部分は現代の詩について話をしている最中に東風が言ったものです。では漱石の考える「詩」とは何か。それは「写生文」だったのでしょう。
「写生文」とはできるだけ客観的に描写する技法だと考えられます。しかし当時の日本人には難しいことだったのだと考えられます。基本的に当時の日本語では語り手は客観的な立場に立ちにくかった。客観的な立場で書くのは報告文になります。これは漢文訓読調で書かれなければなりませんでした。言文一致の文体では客観的に書いた文章例がなかったのです。同時に、以前書いたのですが、日本語の文章では語り手は場の当事者になりやすい。だから英語などのヨーロッパ語ではできた客観的な描写が、日本語ではできにくかったのだと思われます。
しかし漱石は別の文章で次のように言っています。
写生文家の人事に対する態度は貴人が賤者を視るの態度ではない。賢者が愚者を視るの態度でもない。君子が小人を視るの態度でもない。男が女を視、女が男を視るの態度でもない。つまり大人が小供を視るの態度である。両親が児童に対するの態度である。
これを読む限り、客観的な書き方ではないことがわかります。漱石は語り手の主観を大切にしながら、対象にくっつきすぎず、親が子供を見守るように書くことを実践しようとしていたことがわかります。これが日本的な小説文体につながるのではないかと考えていたように思われるのです。
そういう意味で漱石の思考過程を考えるうえで貴重な作品なのかもしれません。