とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

夏目漱石作「琴のそら音」を読みました。

2023-05-09 18:32:47 | 夏目漱石
夏目漱石の初期の短編「琴のそら音」を読みました。明治38年(1905年)5月に発表された小説です。これは『吾輩は猫である』の連載中です。初期の作品は登場人物が勝手に想像を大きくしていき大事のように思われるのにも関わらず、実はたいしたことがなかったという内容のものが多くあるのですが、これもそのうちの一つです。小山内薫の主宰する雑誌「七人」に掲載され、明治39年5月、『倫敦塔』、『幻影の盾』『趣味の遺伝』とともに『漾虚集』に収録され出版されました。この小説は小説としてはどうとらえていいのかわかりません。私が言うと失礼なのは承知で言いますが、決して優れた作品ではないと思います。しかし、この時期の夏目漱石がどういう意図で小説を書いていたのかを考える上でとても重要な作品だと思います。

語り手は「余」で、一人称小説です。「余」に内的焦点化がなされています。つまり「余」の内面の心理は描かれていますが、「余」以外の人物は「余」の視点から描かれるので心理はわかりません。

「余」は自分の家を持ち、婚約者の母親が選んだ迷信好きの婆さんに世話されて住んでいます。心理学者の友人のところで、出征している夫が持っていった鏡に妻の姿が映って、夫が問い合わせるとその日はインフルエンザにかかっていた妻が死んだその時だったという話を聞かされます。

ここで「鏡」が出てくることに注目です。『吾輩は猫である』にも、「幻影の盾」にも鏡が出てきます。「鏡」は漱石にとってどういう記号だったのでしょうか。考えてみる必要があります。

実は約者はインフルエンザにかかっていました。「余」は友人の部屋を出ると、夜道を帰ると雨は降り出し、葬式の一行にも出会います。なんだか不吉です。婆さんが迎えに出て、今夜は犬の遠吠えが違っていると言い張ります。不吉さが頂点に達します。不安な気持ちで翌朝早朝から、婚約者の家を訪ねます。すると婚約者の風邪はとっくに治っていたのです。チャンチャンと言ったところでしょうか。

漱石は『文学論』という文学書を書いています。書いたというよりも東大の講義録と言ったほうがいいのかもしれません。この中で有名な「F+f」というものがでます。Fは焦点的印象又は観念を意味し、fはこれに附着する情緒を意味します。漱石は初期にこのfの暴走を描こうとしていたのだと思われます。それはなぜなのか。今の私の探求テーマです。
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