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とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

安冨歩著『原発危機と東大話法』を読みました。

2021-11-21 18:28:28 | 読書
 安冨歩著『原発危機と東大話法』を読みました。世間にはびこる詭弁を解説してくれる本です。なるほどと思わせることが多くありました。

 東大話法とは具体的には以下の通りです。

東大話法規則一覧
  1. 自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する。
  2. 自分の立場の都合のよいように相手の話を解釈する。
  3. 都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけ返事をする。
  4. 都合のよいことがない場合には、関係のない話をしてお茶を濁す。
  5. どんなにいい加減でつじつまの合わないことでも自信満々で話す。
  6. 自分の問題を隠すために、同種の問題を持つ人を、力いっぱい批判する。
  7. その場で自分が立派な人だと思われることを言う。
  8. 自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル貼りし、実体化して属性を勝手に設定し、解説する。
  9. 「誤解を恐れずに言えば」と言って、嘘をつく。
  10. スケープゴートを侮蔑することで、読者・聞き手を恫喝し、迎合的な態度を取らせる。
  11. 相手の知識が自分より低いと見たら、なりふり構わず、自信満々で難しそうな概念を持ち出す。
  12. 自分の議論を「公平」だと無根拠に断言する。
  13. 自分の立場に沿って、都合のよい話を集める。
  14. 羊頭狗肉。
  15. わけのわからない見せかけの自己批判によって、誠実さを演出する。
  16. わけのわからない理屈を使って相手をケムに巻き、自分の主張を正当化する。
  17. ああでもない、こうでもない、と自分がいろいろ知っていることを並べて、賢いところを見せる。
  18. ああでもない、こうでもない、と引っ張っておいて、自分の言いたいところに突然落とす。
  19. 全体のバランスを常に考えて発言せよ。
  20. 「もし◯◯◯であるとしたら、お詫びします」と言って、謝罪したフリで切り抜ける。

 以上のような詭弁を東大の教授がよくやってしまうというのです。これは私が興味が持っていた教育改革の問題でも同じでした。一部の改革論者が自分の思惑通りの方向に話をもっていくために、「東大話法」と同じような論理で説明していたのです。しかもそれは文部科学省という組織の中で守られているという印象でした。文部科学省の思惑にそった人材を文部科学省が招聘し、その立場にそった発言を「東大話法」で進めるのです。こんなやり方が許されるならば、どんな方向性でも進めることができます。これはたまったものではありません。

 さらには「東大」というブランドは、国家という立場に近づきやすいという社会的なシステムがあるように思われます。「東大」=官僚という結びつきがあるのです。筆者はそれを「立場」という言葉で説明します。

 筆者の論には納得することが多くあります。

 しかし、一方では筆者の言説も一方的で根拠が明確ではないと感じる所もあります。深く読まなければ正確な評価はしにくいというのが正直な感想です。

 今後、筆者の意見を参考に学者や官僚、政治家の言説を注意深く見ていきたいと感じさせられました。
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北川扶生子著『漱石文体見本帳』を読みました。

2021-09-13 07:51:32 | 読書
 北川扶生子氏の書いた『漱石文体見本帳』を読みました。とてもすばらしい本でした。
 
 私は今、近代文学の成立に興味を持っています。とくに「語り手」がどのように成立していったのかを考えようとしています。とは言え実際には忙しさでなかなか考える余裕がなく、ほとんど進んでいません。

 近代文学の成立に一番大きな貢献をしたのは、やはり何といっても夏目漱石です。夏目漱石は初期はさまざまな文体を駆使していました。漢文訓読調、戯作調、美文調など文体の見本市のようでした。しかしそれがいつの間にか落ち着いていき、いわゆる近代文学文体を発明します。漱石以降は、この漱石文体が主流になります。それは現在にまで続いていると言ってもいい。それほど漱石の文体は影響力があったことになります、

 その漱石文体は「近代」という時代と無縁ではありません。教養人の書く文体でもなく、庶民の話す語りの文体でもなく、誰もが受け入れられるような文体が要求されたのです。漱石はその文体を手に入れます。しかし、それは「自分を殺す」ことだったのです。

 この本に大きな刺激をもらいました。何度も読み返していきたい本です。
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青木栄一著『文部科学省』を読みました。

2021-05-09 18:32:14 | 読書
 東北大学の青木栄一准教授が著した『文部科学省』を読みました。文部科学省を客観的に分析し、近年の様々な文部行政のトピックについてわかりやすく解説しています。特に教育改革の失敗についての記述はわかりやすく分析されており、今後の指針となるものであろうと思われます。

 日本の教育行政は明らかに失敗続きです。こんなに失敗するくらいならば文部科学省なんかなければいいのにと思うくらいです。

 近年の教育改革の失敗も文部科学省のどこがわるかったのかが分析され、解説されています。文部科学省の職員にも同情すべき点はあります。予算は削減され、職員の数も増えない中、上からの圧力が強く、翻弄されてしまっているのは明らかです。しかし、そういうときこそ、教育行政の責任官庁としてしっかりと働いてもらわなければならないのです。

 ただし、そもそもの問題として日本は教育予算が少なすぎです。文部科学省という組織の問題よりも、根本的な教育というものへの日本人の意識を変えていくほうが重要な問題なのではないでしょうか。

 江戸時代より日本は教育がさかんな国でした。民間が教育を引っ張ってきたわけです。その伝統にあぐらをかいて、文部行政がおろそかになったというのが、私の見立てです。だからこれまでは伝統的な教育土台があり、文部科学省が何をしても、(何もしなくても)うまくいっていた、と見るべきではないでしょうか。

 しかし、これからの時代もそれでうまくいくのか、本気で考えなければなりません。
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難波博孝著『母語教育という思想』を読みました。

2021-04-17 08:04:16 | 読書
 難波博孝氏の『母語教育という思想』を読みました。国語教育へのたくさんの示唆を与えてくれる本です。

 筆者は批判的な視点から、現状の国語教育の科学的な分析をしています。その分析結果をもとに新たな国語教育への提言を行っています。賛同するところが多くありますし、気付かされることも多くあります。有益な書です。

 国語教育は伝統の上にあぐらをかいています。「国語嫌い」の生徒は多くいます。それは「国語」によって何を学んでいるのかがわからないからです。国語のテストも何を問われているのかがわからないのです。

 先日、生徒と雑談している時、生徒が次のように言いました。

「入試で出てくる問題文は初めて見る文章だ。それなのに授業で教科書の文章を詳しく解説されても何の意味があるのかわからない。」

 わたしも高校生のころ同じように思っていました。私が高校生の時から40年もたっているのに、国語教育は何の改善もなされていないのです。本来ならば時代に合った国語教育に変化しなければならないはずなのに、何の変化もない。これが日本の母語教育の現実なのです。

 国語教師の劣化もはげしい。これでは母語としての日本語は滅びる。今のうちに国語教育の改革が必要なです。そのためにすぐにでも動きははじめなければいけません。

 『母語教育という思想』では有益な提言がなされています。それをもとに新たな「国語教育」を今すぐにでも始める必要があります。
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夏目漱石作『二百十日』を読みました。

2021-03-22 17:55:15 | 読書

 夏目漱石の『二百十日』を読みました。江戸時代の戯作のような作品で、ほとんどが会話でできています。正直言ってどう評価すべきなのかがわかりません。

 阿蘇山に登る、2人の青年、圭さんと碌さんの2人の会話体で終始する小説です。ビールや半熟卵を知らない宿の女とのやり取りや、阿蘇山に上る道中が、まるで戯曲のようにほとんど会話だけで進んでいきます。2人は阿蘇の各地を巡ったあと、いよいよ阿蘇山に登ろうとするが、二百十日の嵐に出くわし道に迷い、目的を果たせぬまま宿場に舞い戻ってしまいます。翌朝2人は、いつか華族や金持ちを打ち倒すことと、阿蘇山への再挑戦を誓います。

 夏目漱石の作品の中では異色のものであり、決しておもしろいとは言えない作品ですが、初期の漱石がさまざまな実験をしているがわかります。こういう実験をしながら漱石は自分の文体を作り上げたのだろうと思います。そして漱石の文体はその後の日本の小説の文体になっていきます。その意味で日本文学史上において貴重な作品と言えます。

 江戸時代の戯作の最後がいつのまにか、近代小説になっているという発明です。

 成功しているのか、失敗しているのかと問われれば失敗ということになるかもしれませんが、戯作から小説への過程という見方もできるかもしれません。

 今のところどう評価していいのかわかりませんが、とにかく書いておかないと忘れてしまうので、書き残しておきます。
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