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とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

1年前シリーズ「方言の喪失と挨拶」

2017-12-10 06:41:17 | 1年前シリーズ
 1年前シリーズ。

 昔、地域の村社会ではあまり「挨拶」らしい「挨拶」はなされていなかった。しかし、今日、地域のつながりは薄れていき、それと同時に「挨拶運動」が始まった。「挨拶」はいいことではあるが、その背景には人間同士のつながりが希薄になっていることがあるのではないかという話である。

 放送大学の「語用論」の授業をを受けて、挨拶目を向けることによって、対人関係の距離をどのように表現しているのかを考察し、ここ数十年の変化について考察した。今回は考察の3回目で最終回。

〈方言と挨拶について〉
 近年方言があまり使われなくなり、日常会話も標準語化してきている。学校に行くと子供たちは方言でしゃべるのがふつうであったが、現在はみな標準語で話す。もちろんイントネーションに方言が多少は残っているが、それほど大きなものではない。

 ここでひとつの可能性を述べる。方言が一般的に用いられる社会から標準語が用いられる社会への変化すう過程で、子供たち同士に距離感が生まれてきているのではないか。相対的にではあるが、昔のような地域のつながりが薄くなりつつあり、保育園、幼稚園、学校などのつながりが主流になりつつあり、より多くの人との交流をしなければならない時代に移り変わってきた。その結果、子供たち同士の距離感が相対的に広がり、挨拶が増えてきたのではないか。

〈まとめ〉
 日本はここ数十年の間に「村社会」から、東京中心の社会に、そして国際化に時代に大きく変化した。その間、テレビ、ラジオなどのマスメディアの発達、そしてインターネットによるSNSの発達など言語環境も同時に大きく変化した。その変化に伴い、言語活動や言語表現が変化していることが伺える。
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1年前シリーズ ブラックフライデー?

2017-11-28 16:44:30 | 1年前シリーズ
 1年前のブログを振り返るシリーズ。今年もやってきました「ブラックフライデー」。

 突然「ブラックフライデー」という言葉が出てきた。11月の第4木曜日の「感謝祭」の翌日、アメリカでの年末セールの始まりの日をそう呼ぶそうになったという。それが日本で突然始まったのだ。なんと節操のないことだろうか。

 最近になってハロウィンも日本にいつの間にか輸入され、そして「ブラックフライデー」である。キリスト教文化とはほとんど縁のなかったものが、突然輸入され、定着していく。こんなになんでもありでいいのだろうか。そもそも日本には感謝祭もない。それなのに「ブラックフライデー」だけが輸入されるのは、なんの脈絡もない。「年末大バーゲン」で十分ではないか。

 政府や経済界はこの「ブラックフライデー」はその後の買い控えにつながると否定的だ。そのかわり、毎月末の金曜日の仕事を早く終わらせるという「プレミアムフライデー」を創設するという。節操のない「ブラックフライデー」をまねをして、さらに節操のない消費刺激策を考える。こんな「思い付き」程度のことしかできない日本のトップって本当に大丈夫なのか。


 アメリカの真似をしてうまくいかなければ、思い付きの経済刺激策を考える。なんでもかんでもやってみて、うまくいけばいいが、うまくいかなければ、無駄な資本投資の山になる。冷静な判断をできる経済学者はいないから、何が正しいのかは結局はわからない。

 結果責任だけならば、理論なんて言葉はいらない。
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1年前シリーズ 流行語大賞?

2017-11-17 21:30:01 | 1年前シリーズ
 1年前のブログを振り返るシリーズ

 最近は流行を追いかけるよりも、不易のものに魅力を覚えるようになってきた。とは言え、流行に左右されているのも事実ではある。


 『新語・流行語大賞』のノミネート30語が発表された。ノミネート30語は以下の通り。

 アスリートファースト/新しい判断/歩きスマホ/EU離脱/AI/おそ松さん/神ってる/君の名は。/くまモン頑張れ絵/ゲス不倫/斎藤さんだぞ/ジカ熱/シン・ゴジラ/SMAP解散/聖地巡礼/センテンススプリング/タカマツペア/都民ファースト/トランプ現象/パナマ文書/びっくりぽん/文春砲/PPAP/保育園落ちた日本死ね/(僕の)アモーレ/ポケモンGO/マイナス金利/民泊/盛り土/レガシー

 「流行語」という意味ではあまりピンと来ないのが私の感想だ。「流行語」とはみんながなんとなく使っているような言葉であり、社会的なキーワードとは違うものであろう。「EU離脱」とか、「SMAP解散」とか、確かにインパクトはある。しかし、「流行語」ではない。

 このなかで「流行語」と言えるのは「PPAP」ぐらいいかなと思う。最近の高校生はみんなで「ペンパイナッポーアッポーペン」と大合唱している。もちろんブームなのですぐに終わるとは思うが、これが「流行語」と言っていい。

 ただし、わたしの世代の人間はほとんど何がおもしろいのかわからない。流行についていけないという年になってしまったということを、悲しいと思う一方で、うれしいとも思っている。


 結局、去年は「神ってる」でした。が、本当に流行したんでしょうか。
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1年前シリーズ ラーメンの「スープ」と「汁」

2017-10-22 19:05:26 | 1年前シリーズ
 1年前のブログを振り返るシリーズ。山形県はラーメン消費量日本一なのだそうだ。夏でも冷たいラーメンを食べるからだと思われる。これが良いことなのか悪いことなのか分からないが、その分塩分取りすぎで成人病にかかりやすいのは明らかだ。
  
 東北人にとってのラーメンと東京で食べるラーメンは基本的に発想が違うという話。

 東京のラーメンの話が雑誌などで紹介される機会が多く食べてみたくなる。実際に食べてみると、確かにおいしいのかもしれないが何かピンとこない。そのピンとこないのが何なのかと考えてみるとスープの質が違うのだ。

 東北人にとってスープはスープというよりも「汁」である。味噌汁がわりに飲むものという発想がある。だからあまりドロドロしていない。しかし東京のラーメンは濃厚なスープという印象が強い。だから一口一口味わうものだ。理屈では理解できるおだが、自分の求めているものとは違うのだ。

 私たちの舌の記憶というのは意外にはっきりと残っているようである。日常的に食べているものならばなおさら微妙な違いでもはっきり分かる。「たかがラーメン」でありながら、ラーメンには明確な舌の記憶が残る。そこには自己証明的な要素まで生まれてくる。日本人が執着してしまうのはそういうことなのだろう。

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1年前シリーズ1年前シリーズ 「国語」はもういらない

2017-10-09 18:38:51 | 1年前シリーズ
 この3連休、これからの「国語」教育のためと思って、「言語技術」と呼ばれる分野の研修を受けていた。分析的に読み、書くにはどうすればいいかについて学んだ。屈辱的なほどこれまでの国語教育のいい加減さを感じてしまった。自分は何をこれまでしていたのだという後悔しかない。そういう嘆きを1年前にも書いていた。この1年でどれだけ自分は成長できたのであろうか。


 いわゆる「国語」教育について、昔から生徒から
「何を勉強していいのかわからない。」
と言われてきた。「国語」教師として
「そんなことはない。国語というのは~~」
と一応理屈をつけて説明はしてきたのだが、実は何を教えていいのかわからないというのが事実であった。もちろん指導書をよく読み、その教えるべき内容を知り、どう教えるかを考え、自分なりに努力してきてはいたのだが、本音のところではよくわかっていないのだ。

 最近になって従来の「国語」教育とかかわりの薄かった、言語学、英語学、哲学、教育学などの人たちが新たな「国語教育」を提言し始めている。外国での「国語」教育を参考にしながら、「母語」の言語技術能力を高める教育を目指しているのである。とても示唆的である。

 本来の「国語」というのは日本の今の「国語」教育とはかけ離れているものだと思う。日本語を「母語」とする人の言語技術の教育であるべきなのだ。新しい真の「国語」教育を実践していきたい。
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