実は、この問いに対する答えは以前にもう書いたことがあります。
ただし、そのときはこういう問いでした。
Q.人は死んだらどこへ行くのだと思いますか?
この問いに対して私は次のように答えました。
「A.どこへも行きません。天国へも地獄へも行きません。
骨や灰などの物質だけが残り、意識も心も消滅してしまうだろう、と私は考えています。」
その理由として以下のようにも述べました。
「私は、人間の意識や心は脳の働きにすぎないと考えていますので、
脳細胞が死に、脳みそが燃やされてしまえば、
意識や心は消失するだろうと単純に信じています。
これらのことは証明できないので、
もちろんBのように、意識や心が残ると考えたり信じたりすることも可能なのですが、
しかし、脳がなくても意識や心がありうるのだとすると、
そもそも人間に脳みそなんて必要なくなっちゃうんじゃないの、
と逆に考えてしまうので、どうしてもBの可能性は信じ切れないわけです。」
この中にすでにほとんど答えが書いてありましたね。
けっきょく心というのは脳の働きだと思うのです。
もちろんこのことは証明することはできません。
が、諸々の状況証拠から考えるに、やはり脳と心が無関係と考えることはできないと思うのです。
ただし、今回の質問は 「どこにあると思いますか」 ですので、
この問いにはどうやって答えたらいいかちょっと困ってしまいます。
働きとか機能って 「○○にある」 とはなかなか言いにくいからです。
さて、何と答えましょうか?
こんなふうにお答えしておきましょう。
A.心は脳の働き、脳の機能だと思います。
脳にあるという言い方をしていいかどうかはビミョーですが、
脳があるから心はあるのだと思います。
ただし、そのときはこういう問いでした。
Q.人は死んだらどこへ行くのだと思いますか?
この問いに対して私は次のように答えました。
「A.どこへも行きません。天国へも地獄へも行きません。
骨や灰などの物質だけが残り、意識も心も消滅してしまうだろう、と私は考えています。」
その理由として以下のようにも述べました。
「私は、人間の意識や心は脳の働きにすぎないと考えていますので、
脳細胞が死に、脳みそが燃やされてしまえば、
意識や心は消失するだろうと単純に信じています。
これらのことは証明できないので、
もちろんBのように、意識や心が残ると考えたり信じたりすることも可能なのですが、
しかし、脳がなくても意識や心がありうるのだとすると、
そもそも人間に脳みそなんて必要なくなっちゃうんじゃないの、
と逆に考えてしまうので、どうしてもBの可能性は信じ切れないわけです。」
この中にすでにほとんど答えが書いてありましたね。
けっきょく心というのは脳の働きだと思うのです。
もちろんこのことは証明することはできません。
が、諸々の状況証拠から考えるに、やはり脳と心が無関係と考えることはできないと思うのです。
ただし、今回の質問は 「どこにあると思いますか」 ですので、
この問いにはどうやって答えたらいいかちょっと困ってしまいます。
働きとか機能って 「○○にある」 とはなかなか言いにくいからです。
さて、何と答えましょうか?
こんなふうにお答えしておきましょう。
A.心は脳の働き、脳の機能だと思います。
脳にあるという言い方をしていいかどうかはビミョーですが、
脳があるから心はあるのだと思います。
元に戻るというのは無に帰るという意味だったのですね。
だったらよくわかりました。
本人は無に帰り、作品だけが残されて生きている人たちの解釈に委ねられるのですね。
ちゃんと繋がりましたし、私の考えとも近いのではないかと思いました。
ちなみに私は、人間が死後の世界というものを考えたくなってしまうのは、
ずっと慣れ親しんだ自分というものが存在しなくなってしまうということに耐えられない
「心の慣性の法則」 によるものだと説明しています。
「無」から「生を受け」、「命を次代に受け継ぎ」、また「無」に帰するのです。
「心が伝わる・」とは、事象を通してのみ 生きている人にのみ伝わり、その範囲で価値も継承するのであって「無」の世界には何も無い・(”世界”観もない)・
ただ、人は「この世に」生を受け 自我意識を持つようになると、「無」が、あまりに空しく、とても耐えられないので、いろんな・たとえば宗教観などが出てくるのだ、と考えるのです・・
突き詰めて言うなら「この世」はあるが、「あの世」はない。 これを虚無感というのだろう と・・
訂正情報もありがとうございました。
だいたい予想はつきましたが、ご本人に訂正していただけると安心です。
また、私の文章に対するお褒めの言葉も頂戴し、それもありがとうございました。
今後ともよろしくお願い申し上げます。
プリアーニさんのご主張は、人が死んだら作品の類いがいろいろと残るが、
それは生きている人の解釈に委ねられている、ということでよろしいでしょうか。
もしもそうだとすると、そのご主張には賛同いたしますが、
冒頭の 「生きてくる (生まれてくる?) 前の元に戻る」 ということの意味がよくわかりませんでした。
それって自分の作品が残ってそれを通して心が伝わるという話とは、
ちょっと毛色の違う話のような気がするのです。
その2つがどう繋がっているのかいないのかよくわかりませんでした。
補足説明をいただけると幸いです。
上から5行目「デジタルデーテー→デジタルデーター」に。 度々の訂正、大恐縮・・赤面の至り・・・
上から2行目「場新→場所」に、下から5行上、「エラニエル→エマニエル」に、お詫びして訂正・・
私の場合は会社には設計書、レイアウト/計算書/各種図面etc.. 作成した特許公報/係争を含む書類/デジタルデーテー。 今は My blog/コメント類、私のプロフィールに書いたように 残したいもの/伝えておきたい、と考えるものを。
後に残る人の感性と解読能力に頼るが、期待はせず自己得心の限定版。
先日の「橘高校~」 は私も受講している気分。「エラニエル~」は誰かのいうように”名文”だし、「♪ターララ~」はメロディーを文字で表した 名曲で知る人は即、心で名曲の文字を追ってみる・・
その他、「まさおさま」のいろいろに触れ感心したり、楽しんでいます。 ~感謝。