2007年10月03日記載
新聞の価格が決して下がらないのは再販売価格維持が認められているからである。
それに噛み付いた慶応大学の教授がいた。国会内に設置された委員会で渡辺恒雄に「なぜ新聞には再販売価格維持が認められているのか?」と質問した。それに対し渡辺恒雄は「公共性があるからだ。」と答えた。「公共性とは具体的に言うとどういうことですか?」と慶大の教授は聞いた。ナベツネ(渡辺恒雄)は「国民の日常生活に必要不可欠なものだ。」と答えた。「それではトイレットペーパーと同じということですか?」と慶大の教授は聞いた。「そんな馬鹿な質問には答えられない!」と言ってナベツネはその議論を終わらせた。
この議論は一切の新聞で見ることは出来なかった。新聞が歩調を合わせて闇に葬ったのである。
私は慶大教授の質問は本質を突いた鋭い質問であると思う。「公共性」がナベツネの言う通りのものだとすると、再販売価格維持を認めていい製品・商品はいくらでもあることになる。エアコンに「公共性」はないだろうか?醤油に「公共性」はないだろうか?コップに「公共性」はないだろうか?携帯電話に「公共性」はないだろうか?歯ブラシに「公共性」はないだろうか?これらには再販売価格維持は認められていない。再販売価格をメーカーが一方的に決定したら価格拘束として摘発の対象となる。なぜ新聞は再販売価格を維持していいのか?合理的理由がさっぱり見当たらない。
新聞社が再販売価格維持を主張する時にもう一つ良く言うことは「新聞には文化性がある」ということである。新聞・書籍等以外で、再販売価格の維持が認められていない製品・商品には「文化性」がないということであろうか?酷く馬鹿にした話である。新聞社の奢りが透けて見える。
私は新聞の再販売価格維持は認めるべきではないと考えている。なぜと言って、再販売価格を維持させる理由がないからである。
しかし、このような意見が新聞に載ることはない。新聞社は足並みを揃えて、上記の慶大教授の主張を封殺した過去を持ち、同様の主張をする人間の意見を封殺する、恐ろしい位の言論統制を敷いているからである。言論機関が一つにまとまることほど恐ろしいものはない。
新聞の価格が決して下がらないのは再販売価格維持が認められているからである。
それに噛み付いた慶応大学の教授がいた。国会内に設置された委員会で渡辺恒雄に「なぜ新聞には再販売価格維持が認められているのか?」と質問した。それに対し渡辺恒雄は「公共性があるからだ。」と答えた。「公共性とは具体的に言うとどういうことですか?」と慶大の教授は聞いた。ナベツネ(渡辺恒雄)は「国民の日常生活に必要不可欠なものだ。」と答えた。「それではトイレットペーパーと同じということですか?」と慶大の教授は聞いた。「そんな馬鹿な質問には答えられない!」と言ってナベツネはその議論を終わらせた。
この議論は一切の新聞で見ることは出来なかった。新聞が歩調を合わせて闇に葬ったのである。
私は慶大教授の質問は本質を突いた鋭い質問であると思う。「公共性」がナベツネの言う通りのものだとすると、再販売価格維持を認めていい製品・商品はいくらでもあることになる。エアコンに「公共性」はないだろうか?醤油に「公共性」はないだろうか?コップに「公共性」はないだろうか?携帯電話に「公共性」はないだろうか?歯ブラシに「公共性」はないだろうか?これらには再販売価格維持は認められていない。再販売価格をメーカーが一方的に決定したら価格拘束として摘発の対象となる。なぜ新聞は再販売価格を維持していいのか?合理的理由がさっぱり見当たらない。
新聞社が再販売価格維持を主張する時にもう一つ良く言うことは「新聞には文化性がある」ということである。新聞・書籍等以外で、再販売価格の維持が認められていない製品・商品には「文化性」がないということであろうか?酷く馬鹿にした話である。新聞社の奢りが透けて見える。
私は新聞の再販売価格維持は認めるべきではないと考えている。なぜと言って、再販売価格を維持させる理由がないからである。
しかし、このような意見が新聞に載ることはない。新聞社は足並みを揃えて、上記の慶大教授の主張を封殺した過去を持ち、同様の主張をする人間の意見を封殺する、恐ろしい位の言論統制を敷いているからである。言論機関が一つにまとまることほど恐ろしいものはない。