新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

「音読・暗記・暗唱」を繰り返して英文法を克服しよう

2022-10-30 08:06:16 | コラム
産経新聞が「シンデレラスマイル」と表記した:

 先ず強調しておくことは「如何なる国の言語でも最初に文法があって、後から話し方や書き方をそれに合わせたものではない」という点である。我々日本人は最初に日本語の文法を教えられてから、それに従って話せるようになった訳ではあるまい。

 私はこれまでに繰り返して「覚えるだけでも面倒な英文法を音読・暗記・暗唱で何とか克服した」と述べてきた。生き物である言葉を後から追いかけて、何とか規則を見つけ出して理屈っぽく科学のようにして解り難くしたのが英文法なのである。その解りにくい英文法を何とか自分の物にできた手段が、それこそ何方にとっても“believe it or not”だろう「音読・暗記・暗唱」だったのだ。

それは「繰り返して音読し暗記する間に自然に正しい文法の形が頭に入って、英語で何か書く場合でも、話そうとする場合にも、文法的に誤りであるか不正確な表現(言葉か熟語等)は出てこなくなった」のである。その間に正しい文法を学校で教えられ、その文法が後から追いかけてきて「なるほど。ここにはそういう原理・原則があったのか」と理解できたのだ。

 ここで「先に文法があった訳ではない」と証明できるだろう、アメリカ独特の冗談を紹介しよう。未だ野球が存在しなかった頃に、野球をあの覚えにくい細かい規則まで考え出した人がいたのだそうだ。その人物はスポーツ界の権威者にプリゼンテーションをして「こういう競技を広く普及させましょう」と訴えたのだそうだ。すると権威者が「そんな面倒な規則でがんじがらめにされた競技が受け入れられる訳がない」とにべもなく却下したという話だ。

現在、アメリカでも我が国でも野球はあれほど広く普及しているが、楽しげに野球をやっている子供たちは最初に野球のルールを教えられてから始めることはないだろう。プロ野球の選手でも細大漏らさずあの細かいルールを完全に覚えていない選手だっていると聞いている。

今では小学校の児童までに英語を教え始めているようだが、小難しい文法を優先的に教えてしまえば、児童や生徒たちに「英語嫌い」を早期に養成してしまう結果になるのではないのかと私は本気で心配している。

話を「シンデレラスマイル」に戻そう。これを英語にしてみれば、“Cinderella smile”となって「シンデレラが微笑む」の意味になってしまうので、英語本来の“smiling Cinderella”の「微笑みのシンデレラ」とは意味が違ってしまう。しかもシンデレラを主語にしてしまったのだから、smileの後に「3人称単数の“s”」を付けねばならないのだ。「音読・暗記・暗唱」が徹底されていれば、何も考えなくとも、この“s”が自然に口から出てくるはずだ。産経新聞ともあろう会社が、この文法の大原則を忘れたカタカナ表記をしたのは非常に遺憾に思った次第。

ここで問題にしたいことは「動詞に“in”を付けた進行形を形容詞に使った語法」で“smiling”が出てきているのだ。他の例を挙げてみれば「流れ星」という意味の“shooting star”なんていうのが浮かんできた。未だ未だあるので、He is a walking encyclopedia(dictionary.)と言えば「彼は生き字引のように物知りだ」となるが、walk dictionary では文法的にも誤りで意味を為さなくなるとご承知願いたい。

 また、“running expenses”は「経常費」事で、ここでも進行形でなければならない。維持費は“operating cost”であるが“running cost”でも良しとなっている説もようだ。

 結びに強調しておきたいことは「言葉が先にあって、後追いで出てきた文法の枠に縛られる前に、何とかして多くの例文を音読・暗記・暗唱を重ねて覚える事を優先しましょう。理屈はその後から追いかけても間に合った先例がここにあります」なのだ。

これまでに紹介した「音読・暗記・暗唱」を繰り返して、英語そのものを自分の物にした成功例」には何度か出会っているのだ。誤解なきよう申し上げておきたいことは「これは決して文法を無視した勉強法ではなく、学校の英語教育で教えられる文法には真剣に取り組まねばならないのである」という点だ。

繰り返して言うと「言葉が先にあって、文法という理論乃至は科学は後から追いかけてきたのであること」である。

なお、「シンデレラスマイル」と表記した産経新聞の記事が出たのは、2019年8月6日である、念の為。渋野日向子さんのことだった。

一寸どころではない微妙な話題を語る

2022-10-29 10:30:49 | コラム
日本国と日本人の存在感を高めるためには:

去る26日に「一寸微妙な話題を」として、「我が国及び日本人が世界では知られざる存在になっているのではないか」という点を取り上げてみた。その辺りについて、畏メル友RS氏からは「今後益々、日本人は珍しいと言われるようになりますね。」との見方も寄せられた。今日までに世界ではほんの20ヶ国、アメリカでは20州を歩いてきたが、「日本人か?」と尋ねられたことは希だった。

何年前のことだったか、上海の地下鉄の駅で青年に英語で“Are you a Japanese?”と尋ねられたことはあったが。そこで、今回は以下に述べていくように「何故、我が国と日本人は海外における存在感が希薄なのか」を考えて見ようと思う。結論ではないが「英語力の向上」は必要であるだろう。

私が残念だと思う例を挙げてみれば、報道で知る限りでは、我が国の前途有為であるべき若者たちは海外に留学したがらないとの傾向があるそうだ。また、現実にアメリカで駐在員の方たちと語り合った際に「我々は日本人だけて行動する癖があり、夜な夜なバーに行ってカラオケで歌っているのが楽しみ」のように冗談めかして言うとか「我が支店の問題点には英語が話せない者が多いこともある」などと自虐的なことをも聞かされていた。

このような事が起きている原因として考えられることは、英語力に問題があると思って聞いていた。そうなってしまう原因には、我が国の科学的な英語教育の問題もあるが、日本人が我が国とアメリカ等の外国との文化と思考体系の違いに馴れていないことを挙げておきたい。私はこれまでに何度もこの「文化の相違点」が相互に存在することを論じてきた。

この「異文化の壁」は実際に経験して見ない事には意識出来ないのだ。私は英語教育の過程の何処かでこの「異文化」をも教えておくべきだと指摘して来た。この他国の文化を理解できていないという点は、諸外国の人たちも例外ではないので、相互に違いを認識できていないままに無用なすれ違いや相克を起こしている例を、私は何度も見てきた。だからこそ、チャンと相異点を理解して認識し得た者が適時に後進を指導すべきなのではないか。

敢えて一口に英語の問題としておくが、外国に出て行こうと思えば、事前に英語の基礎を習得した上で、英語で「自分の思うところをキチンと表現できる」表現力の習得が肝要であろう。この点を英語の場合で言えば“I can speak English.”という程度ではなく“I know how to express myself in English.”の次元にまで高めておく必要がある。その点では、敢えて言うが「我が国の英語教育」だけでは到達し得ないという例を沢山見てきた。

一例を挙げてみよう。我が友のYM氏はスタンフォード、プリンストン、ペンシルベイニア等のアメリカの有力な私立大学のビジネススクールで教鞭を執ってきた。彼が言うには「社費でビジネススクールに派遣されてくる者たちには、英語力不十分な者が多い。彼らは英語での講義の他に討論が多い大学院の授業についてこられないという問題が生じる」と指摘していた。

この点は私がウエアーハウザー在職中に頻繁にセミナーやプリゼンテーションを経験してきたので「自分の意見を堂々と発表でき、尚且つ討論ができる能力の必要性」は十分に認識している。これ即ち“I know how to express myself in English.”の次元までに英語力を向上させておく必要があることを示しているのだ。満座の中で自分の意見を開陳できなければ「存在感」を示せなくなるのだ。自分の意見を発表できない者は存在していないと同様と看做される世界だ。

確かに、白人たちの世界というか、外国に出て行って存在感を示して定着することは、それほど容易ではないのだ。だが、外国には出て行ってみないことには「日本国と日本人ここにあり」と表現できないのだ。だから、出て行って試してみる必要もあるとは思う。

しかしながら、白人至上主義と言えば語弊があるだろうが、彼らの輪の中に入っていって違和感なく行動して存在感を見せるようになるのも容易なことではないと言える。だからと言って、出ていく者が少ないのでは何時まで経っても「知られざる日本」から脱却できないのではないのか。

私が19年在籍したウエアーハウザーのように(実は、今ではその存在も「嘗ては」と言わねばならないほど変化したが)日本市場を重視していたし、アメリカの全部の会社中で何年間も、対日輸出額が2位だった企業でも、本社機構にいた日本人は最大で3名だった。彼らは皆有名大学出身か大手商社から転進してきた優れ者たちだったが、何れも長続きはしなかった。外国企業に勤務することはこのように易しいことではないのだ。

ではあっても、外国人の世界の中に入って彼らの一人として彼らの言語と習慣を理解して共に行動してみない事には、彼らの文化も思考体系も理解できないのではないのか。更に言えば、一神教の信者たちの信仰とは如何なるものかも理解すべきだろう。彼らの思考体系の基になっているのが「神」即ち“God”であることの理解も容易ではないと思う。私はここまでの次元に到達する為には「留学」や「駐在員」の経験だけでは、間に合わないと危惧しているのだが。

ここまで言うようになった根拠は、私が方々で多くの我が国の企業の駐在員たちに「アメリカの会社とは」を語って見ると、大部分の人たちは(most if not allなどと言いますがね)「知らなかった!」と驚くのだ。即ち、外側からアメリカの会社と接していて、その実態というか中身を把握するまでに到達するのは至難の業だということ。私は永年内側にいて、見てそして経験してきたから言うのだ。

外国語(英語と言っても良いが)を介して外国人と接していうという点では、マスコミの駐在員の方々でも同じような域にあるのではないのか。私はただ単に英語が話せるという次元ではなく、彼らの文化と思考体系との違いを弁えて、彼らと腹蔵なく語り合えるようになっていないことには、真の意味での親密な間柄にはなり得ないと見ている。彼ら駐在員たちが機会を設けて、アメリカに於いてならば英語でアメリカ人たちに「日本の文化と思考体系のアメリカとの相違点」を進講して「日本とは」を理解させているのかと疑っている。

議論の本筋からは逸脱するかも知れないが、私は上司の副社長がマスコミを評して“They are not making the things happen."(意訳すれば「彼らは当事者ではない。伝聞を言っているだけ」)と断言していたことを取り上げたい。将にその通りだと思っている。その逆が“We are making the things happen.”で「我々が事を起こしている当事者だ」と言っているのだ。当事者を取材して、聞きにくいことまで聞いてこそ、実態が解るのではないのか。

何を言いたいのかと言えば「外務省の広報活動も大事だし、報道機関に頼ることも必要だろうが、世界に自分で出ていって『日本と日本人これにあり』と見せる必要があるだろう」なのだ。何時まで経っても「誰それさんがノーベル賞を受賞された」と「アカデミー賞を獲った」と外国に認められたことを嬉々として報道するのではなく、自分から諸外国に進出して存在感を示さないことには「日本って?」に終わるのだ。

その点では、私は大谷翔平君が立派だと評価できると見ている。少なくとも、彼はアメリカのMLBの中に入って活躍して広く知られた存在になり得て、アメリカ人のアナウンサーに片言の日本語を交えた中継放映させる存在になったのだから。


本日もNPBの日本シリーズ観戦記

2022-10-28 08:04:58 | コラム
もういい加減に野球の話題から離れたいのだが:

昨日まで何かに取り憑かれたかのように野球のことばかり取り上げてきて、些か疲れ気味だ。とは言うものの、昨夜も始めから終わりまで熱心に見ていたので、矢張り一言二言語って見ようと思うのだ。でも、この話題の方が岸田内閣の閣僚の旧名統一教会との関連の処理の不手際や、会計処理の報告書に故人の署名があった大臣のことを論うよりはマシだろうと思うのだ。

私には勝って2勝2敗の同率に持ち込んだバッファローズを褒めるよりも、スワローズの方の幾つかの問題を指摘したいと思えたのだった。その最たるものが村上宗隆の不振であろう。何故そうなっているかは昨日に取り上げたが、その他に指摘したいことがある。それは、リーグ戦の最終試合の最終打席でホームランの56本目を打った凄さ、22歳にして3冠王になった立派な成績を、テレビや新聞が余りに過剰に褒め称えたことにあるのではと言いたいのだ。

私が今日までに繰り返して指摘した事がある。それは「テレビや新聞が過剰に賞賛し、持ち上げ、褒め称え、騒ぎ立てられた選手たちが、その褒め過ぎられたことで増長したとか、のぼせ上がった訳ではなくても、何故か調子を落とすとか、状態が悪化してしまった例が数多くあったこと」なのである。

私はこの持ち上げ過ぎと選手たちが不調に陥ったことは、彼ら選手たちが過剰に褒められた結果で増長した訳でもなく、不調とは何ら具体的な関連性はないと見てはいるが、このシリーズの村上のようにあれほど褒められると、何故か不調に陥ってしまうのだ。

第4戦でも昨夜の第5戦でも、村上は「ここで彼が単打でも打てば」という場面で悉く凡退していた。特に昨夜は私が未だ立ち直れていないと見ている山田哲人と共に好機で凡打か三振に終わっていた。山田などは「もしかして高津監督はバントさせるのではないか」と一瞬閃いたほど崩れている。あの村上の出来の悪さを見ていると、2本もホームランを打って見せて試合を決めた吉田正尚こそが、真の四番打者だと認識させてくれた。ここの違いが勝敗を分けた。

次なる高津監督の失敗は、山下輝新人投手の「引っ張り過ぎ」だ。私は新人を使うというから、さぞかし剛速球をこれでもかと投げ込む型かと思えば、何と出来損ないの石川雅規のようで、緩急織り交ぜて「外していく」型の投手だった。私は「これでは馴れられたら終わりで、精々3回までか」と見ていたが、高津監督は5回まで使って、吉田にホームランまで提供して3点取られてしまった。恐らく、3回で降ろせば、中継ぎが駒不足だったのだろう。この先発投手不足がスワローズの弱点だとは既に指摘してあった。

バッファローズの中島監督の作戦勝ちだったと思うが、その例を挙げてみよう。その最たるものが9回の裏にマクガフが先頭打者を歩かせたところで、バントに出た作戦だ。中島監督の狙いは兎に角1点を取って、最悪でも延長戦に持ち込むところにあると見た。この時点でアナウンサーは「吉田正尚まで回せば」と声を張り上げていたし、実際に回ってサヨナラホームランになった。

私はここでの高津作戦の問題点は、マクガフの不安定さにあったと思う。私は彼がタイガースの岩崎優の不安定さと同様で、ヒットを打たれるとか無用の四球を出しながら何とかゼロで逃げ切るような、危なっかしいクローザーだと見ている。それに加えて、昨夜は当たりそこないのゴロを捕ってから一塁に悪送球まで演じてバッファローズに不労所得の1点を与えて同点にしてしまった。マクガフには守備の拙さまであったとは知らなかった。弱点は「ここぞ」の場面で明らかになるのだ。

これで、明日からはめっきり寒くなった東京の室外の神宮球場で2試合をやることになった。私にはバッファローズの方がほんの少しだけ有利になったかにも見える。だが、山本由伸が使えるのかどうかと、仮令使えても何故かスワローズが相手となると切れ味が鈍るので、先発投手に誰を使うのかが問題だろう。この点はスワローズも同じではないのか。順番では小川だが、問題は何回まで保つかだ。バッファローズは宇田川と山崎颯太郎を温存できている。

となれば、矢張り村上と山田が与えられた任務を果たすかどうかだ。スワローズの更なる問題点はオスナではないのか。バッファローズの捕手たちは漸くオスナがアウトサイドの低目に真っ直ぐと曲がり球を投げておけば抑えきれると読み切れたようだから。この弱点はサンタナにもあるようだ。という次第で、未だ未だ私にはどちらが制覇するかは読めないし、閃きも来ていない。


冷静なる評論家としては、矢張り言っておこうと思うのだ

2022-10-27 08:35:45 | コラム
スワローズはジャイアンツの「二の舞」になってしまうか:

日本シリーズ第4戦の観戦記である。私はこれまでで最も見所があった試合だと評価した。その第一はバッファローズの中島監督が良く投げていた山岡を4回に塩見に三塁打を打たれたところで、アッサリと引っ込めて宇田川を出してきたことである。誰かが「三振を取りに来ました」と解説したのが印象的だった。私は「中島監督は1点勝負と見て、その虎の子の1点を守りきろうとする気か」と読んだ。

私は既に「もう何年も前のことだったか忘れたが、ジャイアンツがホークスの育成から育てた150km超の速球を軽々と投げる中継ぎの投手たちに捻られた事」を指摘してあった。即ち、パシフィックリーグには速球派の投手が多いのに対して、セントラルリーグはそうではない言わば技巧派が多いので、速球に不慣れなジャイアンツの高給取りの打者たちが対応出来なかったのと同じ現象がスワローズにも起きるのでは」ということ。その速球派の代表がバッファローズの育成上がりの宇田川であり、山崎颯太郎だった。余談だが、私は浅学非才にして「颯」と書いて「ソウ」と読むとは知らなかった。

宇田川は塩見の後の山崎を3―2から見え見えのフォークボールで三振に取り、続く復調したかに見える山田をフォークボール見送りの三振で危機を切り抜けてしまった。フォークボールに効果があったのは、速球が皆150km超だったからだろう。山崎颯太郎の速球も見事なもので、私は決して「状態が良い」とは見ていない村上に159kmを投げ込んで打ち取って見せた。「だから言ったじゃないか」なのだった。高津監督はこの事態を想定していただろうが、これから先の速球対策は容易ではあるまい。だが、彼らが出てくる度に如何に少ない回数であっても、好投する保証はない気もするが。

この試合はバッファローズの良い所ばかりが出ていたと見ていた。前日の解説者だった宮本慎也と藤川球児が共に「バッファローズの打者たちは迷いがあるようで、打ちに行くべき投球を見送るし、打つべきかどうかの迷いがあって結果的に凡打になってしまっている」と批判していた問題点が、この試合では程良く修正されていた、その所為かスワローズの投手のインサイド責めに遭って参っていた杉本が、綺麗なスゥイングで適時打を放って1点を取り、それを守り切ってしまった。

スワローズはMVPを狙っていると誰かが指摘していた塩見が当たっていて何度か好機を作ったが、肝心要の山田・村上・オスナの3名が速球派の投手に会って沈黙したので、1点差に泣いたのだった。私は問題が村上宗隆にあると思うのだ。彼はそもそも「ここぞ」という試合を決定するような機会には余り打っていないと思い込んでいる。この問題点は山田哲人にもある。

彼村上はシリーズでもホームランは打ったが、試合を決めるような場面ではなかった。また、55本を打った後からは何かが狂ってしまったようで、気負い込んでいるのか早打ちになっているし、打ちたいと狙っている投球を待っていられないような焦りが見える。昨夜も打てなかったのは技術的な問題よりも、3冠王の重圧と4番打者の責任感に負けてしまっているのではと見ている。3冠王であっても何でも、22歳の若者では経験も少ないし、未だ発展途上かも知れないのだ。

バッファローズは昨夜には勝つには勝ったが、安打数が少なかったし、吉田正尚がスワローズの投手たちに巧みに抑えられている。一昨夜、藤川球児が指摘していたように捕手たちの経験不足というか、配球には問題が残るようだ。我が国の野球では「捕手のリード」が常に取り沙汰されるが、ダルビッシュが指摘したようにMLBでは「気の毒になるほど言われない」そうだ。アメリカでは投手たちが「我こそは」とばかりに自分が持っている最高の球種を投げて打者と勝負するのだから、捕手のリードなど問題にならないと聞いている。昨夜でも宇田川も山崎の自分の最高の投球をしただけで、捕手のリードの手柄とは見えなかった。

今夜からはバッファローズの速球派中継ぎ投手対スワローズの打者の勝負が見所になると思っている。同時に、スワローズの山田と村上が何処まで対応できるかということでもある。当たっているオスナが打っていたのは全て高目で、低くアウトサイドに投げられると空振りばかりだった。

昨年大活躍でシリーズのMVPの中村悠平は、速球派ではない自分たちの投手陣のリードで手一杯なのか、全く打つ方に生彩がない。勝負とは怖い物で、彼にはチャンスが巡ってくる傾向があるし、バッファローズの杉本にも同様な現象が生じている。昨夜は一本打ったが、今夜はどうなるだろうか。村上は速球対策を考えたのだろうか。


10月26日 その2 一寸微妙な話題を取り上げてみよう

2022-10-26 15:13:41 | コラム
何故アメリカ人は我が国に関心がないのか:

つい先頃、小室圭氏のニューヨーク州の弁護士試験(bar exam)に合格の件で、アメリカの知人たちに照会したところ「知らなかった。アメリカのメデイアは殆ど日本関係の報道をしないので」という気落ちさせられるような答えが返ってきた。畏メル友のRS氏は「外務省の我が国が広く海外で認識されるような広報活動不足が主たる原因ではないか」と憤慨しておられた。

この点は私が何十年も前から取り上げてきたことで、外務省の全面的な責任問題か否かは別にして「我が国は何もアメリカ国内だけに限定しないでも、何処の国に行こうと『日本って何、何処にあるの』のように言われてしまうことは多い」のである。私はかかかる現象の責任は、海外に特派員とやらを出しておられる報道機関も負うべきではないかとも指摘して来た。

これまでにも何度か取り上げてきたことだが、故安倍晋三元総理が第一次内閣を総辞職されたときには、私は偶々“pleasure trip“でワシントン州シアトルにいた。その日のUSA TODAYがこの件を伝えた記事は、何と5~6cm四方のベタ記事だった。アメリカの重要な同盟国であるはずの日本の総理大臣が辞任しても、広く読まれていて地方紙ではないUSA TODAYでもこういう扱いだった。

また、私が敢えて確かめてみたところ、あれほど日本に頻繁に出張してきて、我が国の政治・経済・文化に馴染んでいたと思っていた我が社の元幹部たちでも「日米安保条約」があったなんて知らなかったのだ。

でも、アメリカでは州毎に法律があって独立国の如きだと承知していれば、驚くことでも憤慨することもないと思って受け止めた。各州に住む人たちは州内の日々の出来事には関心があるだけだし、州内から出るだけでも大仕事になる場合すらある。だから、何処にあるかも定かには知らない日本に関心がなくても、普通の現象だ。であれば、小室氏がbar examに合格した件などはニュースにはならなかったのだろう。

私は1970年夏に生まれて初めて海外出張をした際に、台北で台湾の内省人に「貴方の顔は世界中何処に行っても外省人で通用するだろう」と、妙な保証をされた。実際には全くその通りで、1972年からアメリカ本土に入ってみると何度も何度も中国人に見誤られたが、「日本人か」と指摘されたことは極めて希なのだった。

具体例を挙げてみよう。1975年1月にシアトルの有名なデパート、Nordstromの1階を三菱商事・シアトル支店に駐在していた従兄弟と2人で歩いていると、中2階にいた学齢前くらいの男児が大声で“Mammy! Look at that. Two Chinese are walking downstairs.”と叫んだのだった。母親は慌てて子供の口を塞いだが、衆人環視の中で中国人呼ばわりをされてしまった。

この経験をウエアーハウザー東京事務所に駐在していた日系人のJ氏に語ったところ「それは寧ろ光栄に思うべきかも知れない。と言うのは、アメリカ全土には無数とも言える華僑と中国系アメリカ人がいるのだ。だが、我々日系人は彼らと比べれば全く少数派(minorityで良いかも知れない)であり、その存在は広く認識されていない。だから、アメリカ人たちは東洋人を見れば中国人だと考えるのだ」と聞かせてくれた。

「何処に行っても中国人が多い」という現象は、何もアメリカに限ったことではない。1970年に台湾の後に回ったフィリピン(ズ)、シンガポール、香港では経済を握っているというか支配しているのは華僑であり、中国資本だった。それが今やアメリカでは韓国人が急増し、韓国系アメリカ人も多い。

簡単な例を挙げてみれば、アメリカの女子プロゴルフ界のトーナメントで成績が上位を占めているのは韓国の鍛え上げられた女子ゴルファーたちであるし、申智愛などは賞金女王にまでなっている。因みに、東京オリンピックで稲見萌寧と最後まで2位の座(銀メダルのこと)を争った強豪Lydia Ko(高寶璟)は韓国系ニュージーランド人である。

こういう事を論じるのならば、矢張り韓国人も取り上げねばなるまい。嘗てロスアンジェルスでアフリカ系アメリカ人とアメリカ系も含めた韓国人が銃撃戦まで展開して争ったことがあった。その原因の一つに挙げられていたのが、韓国系移民が勤勉で低次元の仕事も厭わないので、アフリカ系の職場を奪っていったことにあったとされた。ところが、2010年にLAの韓国人街のレストランで見た現象は「南アメリカからの移民たちが雑役夫として嬉々として働いていたこと」だった。

アメリカの有名私立大学4校のビジネススクールの教員を8年間勤めたYM氏は「成績の上位には中国からの留学生が多く、韓国人も増えている。その一方で我が国からは・・・」と述懐していた。その発言の裏の意味は「中国や韓国から来る院生たちは英語力が十分なので、討論会形式が多いアメリカのビジネススクールの授業にも対応できている。中国からの留学生は嘗てMBAを取得した後はアメリカに止まって就職していたが、今や帰国している」ということ。

この中国からの留学生が多く、アメリカ国内でMBAで就職していれば、中国人の存在が広くアメリカ国内で認識される訳だと思う。尤も、中国や韓国から多くの移民がアメリカに流れていく現象を「彼らは自分の国の為政者を信用していないので、アメリカやUKに機会を求めて出ていくのだし、下層にある労働者階級からも希望の国であり楽園だと聞くアメリカを目指していくのだ」と、説き聞かせる有識者もおられる。

この点を考えれば、と言うか、我が国と比較すれば「アメリカとは比べものにならないくらいほど平等で、貧富の格差が少ない我が国から、敢えてアメリカに機会を求めて出ていく必要があるのか」と言えるのだ。その他には「また、そういう事を言うのか」と言われそうなことで「我が国の英語教育で育った方々は『言葉の壁』に阻まれてしまうのだ」と指摘しても、強ち誤りでは無いと思っている。

現在の経済的な発展が停滞気味の我が国にあっては、国内に止まっていることが絶対的に得策かどうかは解らない。だが、国内に止まっている選択をする若者が多いのではないのかと思って見ている。アメリカの会社に20年以上も勤めた私が経験から言うことは「海外進出は、余程事前に『外国の会社とは』と『異文化の国とは』を十分に知り尽くしていないと、とんでもない向こう見ずだった」の結果に終わってしまうだろう。

終わりに、私が1972年にカナダのBC州ヴァンクーヴァーの表通りから外れたレストランでの経験談をあらためて紹介しておこう。そのうらぶれた食堂には「ライスカレーあり」との看板があったので、好奇心から入って見た。本当のインド系のカレーライスだった。

食べ終わって会計に行くと、レジにいた女性が“Are you a Chinese?”と訊くから“No.”と答えた。すると“Korean?”と言うから、これも当然“No, I am not.”だった。すると、彼女は突如日本語になって「なーに。貴方日本人だったの。珍しいわね。こんな裏通りに一人で入ってきて英語で注文したから、てっきり中国系のカナダ人かと思ったわよ。日本人が入ってきたのは本当に久しぶり」と言うのだった。これって褒められたのか、それとも日本人に対する自虐的な一言だったのか。