何故、我が国の大学では英語での論文の発表が少ないのか:
この問題にズバリと明快に答えられる方はそう多くないと思っている。それは「native speakerの学者(査読者でも良いか)に評価して貰え、合格点を取れる英語の文章を書くのは、我が国の学校教育で英語を学んだ方にとっては至難の業になっているから」なのである。
先ず、その難しさの手っ取り早い例を挙げてみよう。私が昭和26年(1951年)に上智大学に入学して、教授である何人かの神父様に「試験の答案は何語で書いても宜しい」と言われた。ところが、サッカー部の上級生に「絶対に英語で書いてはいけない。日本語で漢字を沢山使って書きなさい」と教えられた。英語の答案がダメな理由は「ドイツ人等々の外国人の神父様たちは英語に文法的誤りや言葉の誤用があれば直ちに減点するから」だった。
では、何故日本語の答案が良いのかと言えば「神父様たちの日本語の能力は君等の想像以上に高いが、事が漢字となると流石に十分な語彙がないので、減点することがなく通ってしまうから」であるそうだった。この英語の答案で失敗をした同級生はかなりの数いたのだった。ここでの教訓は「母国語ではない言語では、幾ら勉強してもnative speakerか、それに準ずる人たちには通用しないので、十分に注意すること」だった。
この正反対(「真逆」?)を考えて見れば解ることで、如何に日本語で会話が達者な外国人でも、厳格に審査する査読者から合格点を貰えるほどの人が少ないだろうということ。「外国語での読み書きがnative speakerに劣らない水準に達している人がどれほどいるか」だとご理解願いたい。ウエアーハウザーに在職中の私は周囲に大学院のマスターが何人もいたので、解らないときは「聞くは一時の恥」で、幾らでも質問ができたし、誤りがあれば指摘して貰えるという好条件があった。
英語を母国語している人たちの中にいれば解ることは「日本語とは根本的に発想が違う英語では『そういう表現の仕方があったのか』と嘆息させられる慣用句や口語体があるし、ビジネスの世界で使う公用語の語法等があるので、我が国の学校教育で習い覚えた英語などは通用しないし、ましてやTOEICで高得点だったという程度では追い付かないのだろうと、経験上も認識している。
その難しさは、既に何度か述べたことで、アメリカのその学界の最高権威である学術誌に、某大学のST教授が権威者である教授に勧められて無記名で国籍も知らされない形で投稿された論文は、3人の査読者に「内容は合格だが、話法の時制の一致と定冠詞と不定冠詞の使い方に誤りがあるので訂正の上再提出を」との条件付きで返ってきた事が雄弁に物語っている。多少お手伝いをした私は承知していたとでも、その厳格さに他人である私でさえ震え上がる思いだった。
尤も、私が周囲にいる知識階級の者たちに訊いても「定冠詞と不定冠詞を誤りなく使うのは至難の業」と聞かされていたし、高校の頃には「文法の神」と偽称していた私だが、アメリカ人たちに「英語で何が面倒か」と尋ねられて「時制の一致」と躊躇なく答えたものだった。だが、その裏には「彼らに通じるような正確な言葉遣いができているかどうかは常に不安で、何か突拍子もない珍妙な言葉で表現してしまってはいないか」と何時も不安だった。
上記のような厳格さは、我が国の学界にも企業社会にもあることだと思う。だが、事は英語で母国語の人たちに評価されるような論文を書くことは、かなり難しいことではないのだろうか。私には仮令重荷であっても、英語の論文を数多く発表する必要があるか否かは解らない。と同時に言えることは、UKの“Times Higher Education”のランキングに一喜一憂する必要はないと考えている。あれは白人の世界における彼らのための評価なのだから。極論だが、だからOxfordが最上位に来ているのだ。
とは言って見たが、矢張り英語を母国語にしている人たちの世界にも通用するような英語力を養う必要はあるだろう。その大目的の為には、現在の我が国の英語教育では到底そこまでの水準には容易に到達しないだろう。改善の必要がある。但し、万人がそういう高度な次元の英語力を養う必要はないと断言する。