新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

4月28日 その2 外国で我が身の安全を守る方法

2021-04-28 09:09:30 | コラム
私の安全保障対策:

いきなり結論を言ってしまえば「外国では絶対に危険な場所には立ち入らないか、近寄らない事」になってしまう。だが、これでは身も蓋もないので、少し経験を交えて語って見ようと思う。

先ず手っ取り早いところでは「着る物にご注意」である。私が外国で採っていた身の安全保障策は衣類だった。昨日も一寸触れたが、アメリかではブランド物だろうと何だろうと、現地の価格と為替のお陰で、我が国で買うよりも遙かに割安で手に入るのだ。尤も、大きさの問題はあるが、概ねアメリカのSが我々にとってはMだと見ていて間違いではない。それだけではなく現地のセールの時期に当たれば、そこまで思い切るのかと驚くほど安くなっているので、更に格安で買いやすくなルのがアメリカ式セールだ。「アメリカを歩く時にはアメリカ物を着用して」なのである。

反対な事を言えば、私はアメリカでも何処ででも、町を歩いている日本人は直ちに見分けていた。それはこの「着ている物の問題」なのだ。言い方は悪いかも知れないが、我が同胞は海外を移動する際の「寛いだ普段着」の選択が野暮くさいし、細かい柄が入った地味な色の物を選んでおられる傾向があるからだ。対照的に白人たちは「無地で派手な色を好む」のである。区別しやすいのだ。故に、海外に出られる際には、この辺りに着目されると良いと思う。

そのアメリカ物(実際には、中国その他で作られた物ばかりだが)を着ている限り、現地人と看做されて窃盗団に襲われる危険性も、外国人と看做される確率が非常に低くなると思っていて良いだろう。私は20年以上ものアメリカ各地を渡り歩いていたが、一度も外国人と見られた事がなかったが、遺憾ながらチャイニーズアメリカンと見られた事は何度もあった。しかも、一言も英語を話していない状態での事。

話は変わるが、パック旅行でイタリアのフィレンツェの街中を歩いていた時の事。例のジプシー(今はRomanyと自称しているだそうだが)の子供たちの窃盗団が新聞紙で隠す方法で襲ってきたのだった。これは伝え聞いていた通りに、日本語で一喝して追い払う事が出来た。ここでの教訓は「矢張り群を為して行動するパック旅行団は、カモだと見られるようだ」という事。バルセロナでは俗に言う「ウエストポーチ」に身上ありったけを入れておられた高齢の女性が、自由行動になって数分でそのポーチを強奪された。「矢っ張りか」だった。

着衣という点ではこういう話がある。以前にイタリアに駐在した外務官僚が著した本に「兎角、危険だと見られているイタリアで安全を期そうと思えば、ローマでも何処でも日本から到着したと同時に市内の洋服屋に入って、現地の衣料品を調達して着替えるべし。悪者どもは着衣で判断するのだから、一目で日本人と解られるような服装は避ける事」と指摘しておられた。誠に以て尤もであると思う。私が海外でお洒落だと言われていたのは、実は安全策でもあったのである。換言すれば「如何にキャジュアル(カタカナ語は「カジュアル」だが)にお洒落をするかを身につけよ」である。

余談になるかも知れないが、海外では服装が問題だという例を挙げておこう。パリでのことだった。「セリーヌ」(Louis Ferdinand Celine)にブルックスブラザーズのジャンパーにチノパンで入ったら、店員に全く相手にされなかった。そこで、翌日にはラルフローレンのダブルブレストの濃紺のブレザー、チャコールグレーのパンツにアスコットマフラーの出で立ちで入って見たら、店員が即寄ってきて「何か御用は」と来た。これぞフランスであり、ヨーロッパだろうと痛感した。



私の小さな憂鬱

2021-04-28 08:21:22 | コラム
私は少し憂鬱な気分なのだ:

昨日、坂上忍が菅義偉総理大臣不信論を唱えた事を採り上げたが、私は何も坂上君に言って貰うまでもなく、最近の菅内閣と自民党の議員どものもたつき振りは、少しばかり気懸かりなのである。同時に、まさかとは思っているが、枝野幸男如きが(政権が近付いたかと?)ほくそ笑んでいるのではないかと、矢張りほんの少しばかり憂鬱になっているのだ。

その辺りについては畏メル友RS氏も「私も自民党にもっと褌を引き締めてもらいたいと願っています。」と指摘されていた。誠に尤もである。

私も言うなれば憂鬱にさせられている原因は、この一点に尽きると見ている。目に見える悪材料を挙げてみれば、総務省の接待問題や、河井克行夫妻、菅原一秀、三連敗の補欠選挙、ワクチン手配のとんでもない不手際、農水大臣の収賄等々の誰の目にも解る失態が多過ぎるのだ。そこに加えるに、オリンピックへの対処の生ぬるさも困った物ではないか。因みに、私の表現では「何でIOCの言いなりであり、バッハ会長如きに屈するのか。我が国の状況や立場を真っ向から主張すべし」である。

菅首相がこの儘に内閣と党内を締め直さずに進めば、悪夢の民主党内閣の再来が実現しないという保証がないような気さえするのだ。想像するだけでも悲しくも恐ろしいことで憂鬱にさせられるのだ。私はこれらの問題点だと看做す事柄の多くは、菅内閣誕生以前に発生している事を考える時に、お気の毒ではあると思う時もある。だが、菅義偉氏は自ら名乗りを上げて総理大臣になられたのだから、仮令前任者の負の遺産であっても、甘んじて整理整頓に乗り出して貰いたいと希望するものだ。

私は二階幹事長も菅首相と同様のと言うか、同程度の危機感をお持ちだと信じたいのだ。この国難の時にあって幹事長のお役目は「何百人もいる議員どもにお国の危機感を十分に認識させ、彼らが毅然たる行動を取って、自分の國を守り自分たちの地位と身分の危うさを意識させるか」だと思うのだ。例えば、菅原一秀のような心ない行動が、彼ら自身が内閣と党と、ひいてはお国の危機を招きかねないのだ。菅首相に切に望む事は「私の小さな憂鬱を最悪でも、小さいままに止めておいて下さる事」なのだ。言いたくはないが、我々に問題点があれば、それは「自民党を選んだ事」なのである。


4月27日 その3 アメリカのお直し代は

2021-04-27 16:37:06 | コラム
シアトル市ではお直し代は無料だった:

先ほど採り上げたブルックスブラザーズでもバーバリーでも、1990年代は袖丈やズボンの裾上げ等のお直し代は無料だったし、ホテルへの配達も同様でした。直しを担当するテイラーは白人だったのです。

以上、ご参考までに。

4月27日 その2 24~26 cmの靴下を求めて

2021-04-27 09:33:31 | コラム
小足と小柄の悩み:

去る24日に地蔵通りの洋品店「マルジ」に探しに行った品物(最近常用されているカタカナ語では「アイテム」になってしまったが)の一つが、掲題の小さい靴下だった。私の足は靴でも靴下でもメーカーによって変わるが、23.5~24 cmが丁度良い大きさなのだ。ここに私の悩みがあって、近年は我が同胞の体格が著しく向上した結果で、靴下では25~27 cmが標準となってしまったようで、ユニクロでもドンキホーテでも無印良品でも、24 cmはお呼びではないのである。靴でも、24.5 cmが置いてあるのを見つければ「その時は買うべき時」なのだ。

その希少価値が出てきた24~26 cmで、しかも室内履きにしたいような靴下はマルジにでも行かない事には、滅多に手に入らないのだ。そこで、折角車があって仮令混雑する縁日であっても、地蔵通りに向かって行った次第だった。そして、運良く希望のサイズを入手できて目出度し目出度しだったのだ。この小さい靴と靴下を探し求めていて、何時も思い出す言い方に「馬鹿の大足、間抜けの小足、丁度良いのがくそたわけ」があった。自分が間抜けかどうかは知らないが、海外でも色々と経験したものだったので、この際回顧してみようと思う。

*5-1/2(5 and half)はサイズという名に値しない:
これは靴のサイズの話で、日本式に言えば23.5 cmになるだろうか。1976年にニュージャージー州のアトランテイックシテイーで靴のブランドであるジョンストン&マーフィーの店に一歩踏み込んだ瞬間に、店主が私の足下をジロっと見て「5 and halfは置いていない。何故ならば、その大きさはサイズの名に値しないからだ」と言い切ったのだった。軽蔑されたと解釈して非常に不愉快だったが、仕方なく外に出た。

*We don’t carry 38 extra short.:
これは1973年だったかのニューヨーク市での出来事。5番街だったと記憶するが、散歩中にぶらりと洋服店に入って回転するスーツのハンガーに触れていると、近寄ってきた店員に“We don’t carry 38 extra short.”と言われたのだった。これは「胸囲の狭い極小のサイズは置いていない」という意味で、矢張り馬鹿にされた感が濃厚な言い方。ところが、その店員が「ほら、ご覧」と回していると、何とそのサイズの気が利いたピンストライプで、濃い灰色(チャコールグレー)のスーツが出てきたのだった。そこで、彼は一転して平謝りで「是非ともお買い上げを」と迫ってきた。もとより、最初の無礼さに腹が立っていたので拒否した。後になって解ったことだが、この手の小さい物は先ず売れないので、見込み客を見つけた時即ち、何としても売り込む機会なのだった。

確かに、アメリカの東海岸では小さいサイズは先ず手に入らなかったが、西海岸であるワシントン州のシアトルに来ると、話は変わってきたのだった。デパートやブランド物の靴屋には23.5 cm相当の靴が置かれていたのだった。不思議に思って現地人や駐在員の方々に教えを乞うと、理由は簡単で「西海岸には中国人を始めとしてアジア系アメリカ人や移民が多いので、小さいサイズの需要があるのだ」と言うことだった。

*2足如何ですか:
これはシアトルのBallyの専門店でのこと。5-1/2の靴はは先ずあるまいと思って、気楽に眺めていた。すると、何と“Sale”と銘打った棚の中にそのサイズで濃紺の格好良いスリップオンの靴があったのだ。アメリカのセールである以上、先ず正価の半額以下だったし、為替レートの悪戯で我が国で買える普通の靴の値段以下になっていた。それでも「濃紺では」と迷っていると、店員に腕を捕まれて「滅多にない買い手を見つけたので、何とかお買い上げを」と迫られた。

彼は「濃紺でも他人はそこまで見ていないし、黒に見える」と口説いてきた。試着(試し履きか)するとピッタリだったし、午後3時を過ぎていて靴を買うには適した時刻だったので思い切ることにした。すると、彼は「一寸お待ちを」と言って引っ込んだかと思えば、茶色の同じサイズの靴を持ってきて「2足買って貰えれば、もう少し値引きする」というのだった。これは固持して1足だけにしたが、後になって「買っておけば良かった」と少し悔やんだ。こういう事情で、私は5-1/2の靴は全て良い値段でアメリカ、それもシアトルだけで買っていた。

また、スーツは買わなかったが(胸囲は合ってもズボンの胴回りが合わなかったので)ブレザーなどはブルックスブラザーズ(BB)で買っていた。アメリカ物は袖丈が長すぎたが、BBにはテイラーがいて、その日のうちに寸法を合わせて、ホテルに届けてくれるサービスがあったので便利だった。即ち、小足でも小柄でも西海岸に行けば何とかなっていたのだった。しかも、値段は経済的なのだったから言う事はなかった。カリフォルニア州のロデオドライブ(だったか)のBBのセールで買った3着$150の柄物のシャツも、サイズはピッタリだった。これでも「間抜けの小足」と言われるのだろうか。


「マウンテイング」とは

2021-04-27 08:02:58 | コラム
「マウンテイング」とは新発見のカタカタ語だった:

最新のPresident誌に掲載されている有志の座談会で、この「マウンテイング」という余り肯定的な意味で使われていない言葉が多用されていて、その大凡の意味を悟った。だが、念の為にとあらためて検索して確認できたので、敢えて紹介してみようと思う。

>引用開始
マウンティングとは、自分の方が相手よりも立場が上であること、また優位であることを示そうとする、行為や振る舞いのこと。特に、対人関係において、自分の優位性を示そうと自慢したり、相手を貶したりすることを指す。
<引用終わる

それではと、なお追及してみることにした。すると、英語の“mount”にはそう言う意味はなく、紛れもないカタカナ語だと知り得たのだった。感じ入ったことは「矢張り我が国には英語の単語の知識が豊富な方が多く、mountという単語をこのように応用して『マウンテイング』という概念を創り上げてしまったのだ」という点だった。私には到底到達できない創造力だと真面目に感心した。

敢えてお断りしておくと、今回はカタカナ語批判をしようと言うのではないということだ。それは、私は長い間のアメリカの会社暮らしで、彼らの「余所様に言って頂く前に、自分から言い出そうという思考体系に染まってしまっていた」という点だ。その表れが、何かといえば「アメリカ及び世界での有数の紙パルプ・林産物会社のミードとウエアーハウザーに通算で22年以上も勤務していたこと、往年(と、言わねばならないのが残念だが)は我が国有数の進学校だった湘南高校から、今では四大私立大学の一角を占めると評価して頂いている上智大学出身であることに触れている点」は、読者の方や世間様からすれば「マウンテイング野郎」と看做されているのではないかとの懸念である。

自分としてはマウンテイングをしてやろうという意図など毛頭なく、唯々自分が何者であるかを知って頂こうと思っていただけだった。だが、この「マウンテイング」の概念というか定義を知れば、私はその範疇に入る間抜けだったと言われても仕方がなかったと、反省しきりなのである。正直なところ「いやはや」との思いだ。

同時に感心したことは「何でも嫌がらせや職権乱用ややいじめの範疇に入る行為を全て『何とかハラスメント』に纏めてしまう概念と造語を創り出す力量の凄さ」である。この「マウンテイング」にしたところで、上述のような長文(?)の表現になる概念を、たった一言に纏めてしまったのは凄いと思う、正直なところ。何とかハラスメントも同様で、私が長い間の英語暮らしの間に一度くらい聞いたか使ったことがあったかと思う程度の固い単語の“harassment”を応用して「パワハラ」等々を創り上げてしまい、漢字の文化を追い払ってしまったのは凄いと驚嘆している。

話は違うかも知れないが、先ほどもテレビのニュースで飲み屋の社長が「マイナスイメージを与える」と言っていたのを聞いて、これを英語で表現して見よと言われたら「暫くお時間を頂戴して考えたい」と言っただろうと考えてしまった。二つの単語を使って「否定的な概念を思わせる」か「好ましくない印象を与える」とでも言えば良いかと言いたいようなことを表現してしまった。矢張り漢字の文化を避けて通ろうという傾向が著しいと思わざるを得ない。