新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

4月29日 その2 外来語の借用は有害である

2021-04-29 11:34:20 | コラム
勿論というか、カタカナ語の批判でもある:

私はカタカナ語即ち外来語とまでは決めつけないが、この種類の言葉を何の考えもなく無定見に濫用(乱用でも良いだろう)する事が「国語での思考力乃至は表現力を貧弱にしている」としか思えないのだ。だからこそ「カタカナ語を排斥する」のである。そこで思い出す事がある。それは1991年に生涯でたった一度訪れたパリで、K船社パリ事務所のフランス人の秘書が言った事だ。それは、私から「フランスでは法律で外来語の使用を禁じていたと記憶するが、それの影響はあるのか」と質問した際の彼女の答えだった。

ここで、少し本筋から離れるが、「フランスには英語を話せない人が多い。それはアメリカを嫌っているからだ」という俗説があると承知していたが、彼女は実に綺麗な英語で話していたし、凱旋門の近くのホテルでも従業員(カタカナ語にすれば「スタッフ」だが)全員がごく普通に英語を話していたので、この説はフェイク(がせ)であると確認出来た。

そこで外来語禁止の件だが、彼女はいともアッサリと「愚かな決定である」と斬って捨て、その根拠を「フランス語は英語と比較すると言葉の数が10分の1ほど(正確な記憶はないが)なので、思う事を表現しようと思えば外来語を借用せざるを得ないのだ」と解説してくれた。この信念が正しいか否かは別にして、そこまで言い切るだけの見識を持っているのが素晴らしいと思って拝聴した。言いたくはないが、現在の我が国の傾向のように、何の理論も考えもなしに英単語をカタカナにして使っているのとは訳が違う気がして残念だった。

今朝ほども近々中国の代表テイームと試合をする予定の我が国のヴァレーボールの女子代表テイームの若手のホープと紹介された黒後さんが「中国はオリンピックをイメージしてやってくるでしょう」と語ったのを聞いた。そこで感じた事は、彼女が使った「イメージ」とは如何なる意味になるのかを考え込まされてしまった点だった。同時に「何故イメージを使うのか」と正直なところ、情けなくなった。そこで、イメージを解釈してみようと思うに至った。

先ず思い浮かんだのは「オリンピックで対戦すれば、どのような戦法で行くべきかを想定してくるだろう」だった。次は「日本代表とオリンピックで対戦する場合に備えて、絶好のスカウティングの機会としてくるだろう」だった。更に単純化して(カタカナ語ならば「シンプル」というのが出てくるか)考えれば「オリンピックで試合をすれば、どのような雰囲気かの経験の場にしよう」辺りになるかも知れない。黒後さんはここまでの事をチャンと国語で述べて欲しいのだ。

私が危険だと怖れる事は上記のように幾つも解釈が出来て、事細かに述べるべき事柄を、たった一言のカタカナ語の「イメージ」で表してしまえば、本来の国語での表現力が育たないという懸念なのである。もっと具体的に別の観点から言えば、英語の単語の“image”にはそれほどの含蓄はないという点だ。ジーニアス英和には「イメージ、印象、表象;観念、概念」とあるだけだ。表音文字の英語にはそれほど深い意味はないのである。論旨は飛躍するだろうが「多数の単語の意味ばかりを覚えさせるから、漢字の熟語と同じように広い意味があると誤解するのだ」という問題だ。

外来語の借用の問題点を、一昨日採り上げた「マウンテイング」にも見出すのだ。私の語彙には確かに“mount”はあったが、使った記憶も誰かアメリカ人が使ったのを聞いた記憶もなかった。使用された例ではカナダの何処かで見かけた“mounted police (officer)”即ち「騎馬警官」で、「馬に乗る」か「~の上に乗る」という意味だとは承知していた。この「マウンテイング」に接して、初めてジーニアス英和をひいてみた。「人が山などに登る、はしごなどを上がる、馬・自転車などに乗る(ride)」とあった。“ride”なら使った事はあったがという程度。

私が浅学非才だったのか、単語の知識重視の教育が優れているのかは良く解らないが、“mount”を記憶していて「マウンテイング」を創造してしまう単語力には敬意を表したくなる。だが、英単語を借用した為に、一昨日検索して知り得たような意味をカタカナ語の一言で表す事が良い事なのかどうかは、遺憾ながら評価は出来ないのだ。それだけではなく、国語力の成長にとっては好ましい事とはとても思えないのだ。

いや、もっと明確に言えば「外来語の借用と、カタカナ語の濫用は国語での思考力と表現力を阻害しているし、英語のように『この点を言わないというか、ここまで言わなくとも、先方様が察してくれる』という事が絶対ない言語を学ぶ時に、悪い影響を及ぼすだけだ」と断言する。これまでに何度も指摘した事で「英語の単語と熟語は、漢字の熟語のように広範囲の意味は表さない」のである。更に言えば、このようなカタカナ語を乱発しているから、何時まで経っても我が国民の英語力が進歩せず「通じなかった」と言って嘆くことになるのだ。

矢張り「世の英語教師たちよ、その教え方の至らなさを深刻に反省せよ」という事だし「もうそろそろ、外来語の無定見な借用を止めねばならない」と悟るべき時だ。

高田純次の「じゅん散歩」

2021-04-29 09:02:06 | コラム
高田純次が東京の変化を教えてくれる:

「じゅん散歩」はテレ朝の午前9時55分だったかからの番組。高田純次が東京都内の各地を歩き回って、彼独得の悪ふざけの軽口で本人は洒落のめしている積リだろう番組である。家内などは高田の悪ふざけを嫌って見ようともしないが、私は東京都内の想像もつかないような激変の様子が分かるので、結構楽しんで見るようにしている。また、この時刻が丁度ブログの更新を終えた頃になるので、気分転換にもなるのだ。

最早、都内の方々に出掛ける用事もなくなったし、悪い事にCOVID-19の感染の危険度が増す一方の時期になってしまった事もあって外出を控えているので、永年慣れ親しんできた「東京」の変化の様子にすっかり疎くなった。偶に車かバスででも出掛ける機会があると、行く先々で「ここが俺の知っているあの街だったか」と「取り残された感」に大袈裟に言えば苛まれるのだった。

例えば、今年になってから安全策で出向かないようにしている馴染みの理髪店がある京橋地区などは、1972年から2年半も出勤していたMeadの事務所があった場所なのだが、ビルの谷間のようになってしまって取っつきにくいのだ。地下鉄銀座線の京橋駅から地上に出て、どの方向を目指せば明治屋があるのか、うどんすきで有名な「美々卯」が何処だったかも解らずに呆然となってしまった。昨年末に墓参の後に息子に大手町を通過して貰った時にも、そこが大手町だった事すら解らなかった。

そういう具合であるから、高田純次が駄洒落を言いながら歩き回ってくれる都内各所の風景(光景)は常に新鮮な驚きなのだ。京橋から日本橋にかけての新しい高層建築の林立(乱立でも良いか)などは、未だ動けるうちでCOVID-19感染の危険さえなければ、是非行って見たいなと思わずにはいられないのだ。そこを高田純次がヘラヘラと軽口を叩きながら歩いてくれるのは、有り難い事だとも言えるのだ。だが、あれほど高層建築が急激に増えてしまえば、何時の日にか東京都区内全体が地盤沈下して、海抜ゼロメートル以下になってしまうのではないかと心配したりもしている。

また、東京に生まれて永年の勤務地が東京であっても、ついぞ行く機会がなかった名所旧跡も高田純次が訪れてくれるので、「なるほど、そういう物だったか」と知る機会があるのも有り難いのだ。先日は、渋谷区の我が国最大のイスラム教のモスク「東京ジャーミイ(トルコ文化センター)」を訪問していたので、イスラム教独得の華麗な建築を見る事が出来た。何年前だったかスペインをパック旅行した際に、かの「フェネラリフェ」を見ているので、妙に懐かしく感じたものだった。

一昨日からは都内ではないが、川崎市に出掛けて、向ヶ丘遊園と登戸駅周辺の壮大な都市再開発計画の現状と計画を見せてくれていた。この辺りは義理の妹の嫁ぎ先があったので、20年ほど前に訪れただけだったので、その変化というか再開発に驚かされたのだった。という具合で、身の安全を期して何処かの知事さんが主張される「ステイホーム」に執着していても、彼のお陰で世の中の変化に辛うじてついていけるのが結構な事なので、多少の悪ふざけを黙認する事にして「じゅん散歩」を見るようにしている。