新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

社会資本の不充実か

2018-08-23 14:14:30 | コラム
我が国は先進国だったと思うが:

また今年の20番目という台風が襲ってきている。上陸しそうな四国に対しては避難の準備をしたらというような警告が出ている。私は恐らく20年以上も前から「何故、その地区の中学か小学校等の体育館が安全な避難場所に指定されるのか」との疑問を呈してきた。何故、これほど頻繁に台風や豪雨による水害が生じる国でまともな避難所が出来ていないのかという素朴な疑問である。自分が通っていた旧湘南中学の体育館などは戦前の建造物であるから、とても地震などに耐え得る構造ではなかったが、地方の学校の体育館とてそれ以上の建築物ではあるまいと思う。

我が国は世界の上位3位以内に入る経済大国であり、産業の面では世界でも最上位にある先進国だと信じている。それほどの大国である我が国で大中小の災害が発生する度に、だだっ広い学校の体育館内に避難してこられた方々を雑魚寝させ、恐らくそういう備えが出来ていないだろうと推察される手洗いだけでも不自由させている有様をテレビ報道等で見るにつけても「何故、かかる災害に備えてキチンとした設備を設けていなかったのか」と正直に言えば天下の奇観だと思っていた。

そこには勿論予算の問題もあっただろうし、行政機関による予算の縦割りというような条件の不備もあっただろう。だが、今となっては毎年のように襲ってくる災害である以上、各市町村はチャンとした手段を講じて予算を獲得するか、合理的に立てて然るべき場所に宿泊から何からキチンと整った建築物を用意するべきではないのかと、私はずっと考えてきた。そもそも学校の体育館などは避難所とすべく設計もされていなかっただろうし、宿泊施設ではないことはハナから明らかなのだ。

私は政治的失態だと思っている。それは先頃の西日本を襲った豪雨のような災害が毎年のようにあれば、復旧は復興だけで手一杯でとても避難所の建設までには予算も人手もないだろう。だが、台風だったら西日本では毎年必ずと言って良いほど襲来して来たのだった。そうと知っていれば、それに如何に対応するかくらいは首長かその地方から出ている国会議員が考えて置いてもバチは当たらなかったのではないかと思うのだ。それとも、「そんなことは票にならない」とでも言うのだろうか。恥ずかしい話だ。

話を変えよう。我が家の直ぐ隣に元はと言えば野球場だった新宿区営の多目的競技場がある。人工芝が敷き詰められている。但し。その公園内の何処を見てもチャンとしたロッカールームもシャワー室もないようだ。私はこういうところにはそういう設備があって当然だと思っている。その競技場をよく使っている少年野球の監督に聞けば「それはある事はあるが小規模で・・・」という話だった。野球場を作っただけで十分福利厚生に手を打ったとでも自己満足でもしているらしい。

その競技場は新宿区に登録したテイームであれば使用可能だそうだ。ある時、そこから試合を終えて出てきた韓国人の集団に「こんなに設備が行き届かないところで良く野球などする気になったな」と声をかけてみたことがあった。彼ら同士では韓国語で話していたので韓国人の集団だと解ったのだ。彼らの返事は「何を仰いますか。我が国にはこれほど設備が整った公共の野球場などありません。我々は新宿区には素晴らしい野球場があって凄いと思っています」だった。我が国はかの国よりは社会資本が充実しているのだと知った。

私はお陰様でアメリカでは製紙工場があるような地方都市に屡々出掛けていた。そのような田舎に行ってもその地区の高校には立派な芝生の運動場もあるし、多くの観客を収容できそうなスタンドまでが付いているフットボール場があるのが普通だ。あの国は土地が広くて値段も安いのだからそういう余裕があるのだろうという見方も成り立つだろう。だが、そもそも競技場には着替えも出来てシャワー室があるのが当たり前だろう。我が家の隣の競技場では野球だろうとサッカーだろうと、皆嬉々として(?)青空の下で着替えをしている有様だ。私はこれが先進国かと思って、何時も情けない思いで見ている。

予算の問題か、それともその施設を企画立案した者たちの非常識かと思わせる例に「野球やサッカーやラグビーの試合をして負傷者を担架に乗せて人海戦術の人力で移動させている社会資本の不充実と非常識振りを採り上げて非難したい」のだ。笑わせることに、2020のオリンピックでは野球に使うという横浜スタジアムでは救援投手を何と自動車に乗せて運んでくる。本末転倒でなければ何かを勘違いしているとしか言いようがない。オリンピックまでにはアメリカ並みの準備を整えろと言いたくなるのだ。

またもやアメリカの話だが、あの国のフットボールの競技場では負傷の性質で使い分けられるように設計されたカート(イヤ、自動車と言って良いだろう)が準備されていて、頸部なり脚なりを固定して医務室まで輸送できるようになっている。大体からして頭部を激しく打ったか打たれた者を直ぐ動かしてはならないのは常識だろう。しかも、聞くところでは、アメリカの競技場の医務室には外科医や整形外科医や脳外科医だけではなく、内科医も待っているそうだ。確かに外科的な負傷だけが発生する訳ではあるまいと思う。それに比べて我が国はと、私は情けなくもやるせない思いで見ている。

私はこういう差が出てくる背景には「日本とアメリカにおける予算の使い方に文化の違いがあるからだ」と認識している。彼らは「予算は使ってしまう為に立てたのであるから、使わないで残したことは手柄でも何でもない」と考えている。経験上言えるのだが、「彼らはここをもう少し予算を使ってもこうすればずっと良くなるのだ」と思えば、躊躇することなく使って最善の仕上がりに持って行こうとする。「一方の我が国では・・・」とまで言っておけば十分だろう。意味はお解り願えると思うが。

お解りでないだろう方の為に例を挙げておこう。W社で1980年代に我が国の全取引先に向かってある技術的なプレゼンテーションをしたことがあった。その際に総出で会場の設営をした。すると当時のマネージャーが「ノートも筆記用具も準備していないのは何事か。得意先の方々に我々の説明をお聞き頂くのに自前のノートと筆記用具を使えという気か。直ちに買いに行ってこい。我々はその為に予算を立てて出張してきたのだ。気持ち良くお聞き頂く為に万全の準備をするのが当然だ」と怒鳴り上げたのだった。直ちに買いに行って来た。

お見えになったお客様は「行き届いた準備には恐れ入った。流石にアメリカの大手メーカーである。やることが違う」とお褒め頂いた。私はこうやって「日本とアメリカの間に厳然として存在する文化の違いとは」を学んだのだった。ノートやボールポイントペンなどへの出費は大した金額ではないが、そこに予算をかけただけで評価されるとは余り考えていなかった。それが礼儀であるとも思っていなかった。これは単なる文化の違いだけの話か。