新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

8月12日 その2 我が国の学校教育ではどのような英語を教えているのか

2018-08-12 17:22:39 | コラム
音読できてはならない英文だ:

今回は久しぶりに英語の話題を採り上げたい。これと同じような内容は以前にも発表したことがあるが、ズバリと言えば「我が国の英語教育は何をしているのか」と論じたいと考えている。先ずは掲題の「音読できてはならない英文」の例をお示ししよう。

"Every years, I take vacation two months, you know. I go Europe with family, you know. Nowadays, children become big and go to school and cannot stay long, you know. So, we don’t go and wife complain and become angry."

これはこれまでに何度か採り上げたのでご記憶の向きもあると思うが、20年ほど前にJRだったかの車内で我らの同胞と英語を母国語としていない外国人との会話を聞くともなしに聞いていて「実に興味深い英語のような言葉の例だ」と思って覚えてしまったものである。喋っていたのはほぼ一方的に我が同胞で、言うなれば、悪い意味での「英語ペラペラ」の典型的な例だと思っている。この方はこのような文章をかなりの高速で話しておられたのだった。

試しにこの会話の英文を音読してみて頂きたい。文字の通りには読めない方は正しく英語の勉強をされた方だと言えると思う。一方では、この英文をすらすらと何の障害もなく音読できてしまったのであれば、それは「正しい英語とは何かを学び損なっていた」と判断しても良いかと思う。特に冒頭の”Every years”を文字通りに音読できてしまうようでは、非常に芳しくないのだ。言うなれば、英語の試験に良く出てくる”Correct errors, if any.”(文中の誤りを正せ)としても酷すぎる例文のようである。

思うに学校教育の英語でチャンと学び損なった方々には、このような英語擬きを早く話しているのを聞かれれば、「この人物は英語がペラペラなのだ」と思わせられたと思うのだ。そこで、我と思う方はこの文章の文法的誤りを正して、何を言いたいかをチャンとした英語で書き直してみて頂きたい。それは決して生易しい課題ではないと解るはずだ。

どの水準の英語力を目指すのか:

次に採り上げたいのは何を目指して英語を勉強するかだ。私は持論として「我が国では英語がペラペラになるようにと万人に押しつけるような教育は必要がない」と考えている。現に日常生活で英語を話さなければ困る事態に出会うか。オリンピックが来るかと言って、日本全国津々浦々まで英語だけしか話せない外国人が訪れるのかということだ。そんなことがあるはずがないのだ。また英語が話せないことを恥だと思わせるような議論も私は馬鹿なことだと考えている。

私が屡々採り上げる例だが「外国人に道を尋ねられて答えられずに恥ずかしい思いをした」という話を良く聞くが、私はW社をリタイヤーしてから24年も経つが、その間に英語で道を訊かれたことなど僅か3回しかないのだ。そんなことの為にわざわざ英語勉強する意味が何処にあるのかという問題である。話は変わるが、私は余程英語が解らないような顔でもしているらしいと嘆いているのだ。

私は英語を勉強しなくても良いとまでは言わない。だが、勉強するのであれば「何を、どの次元を目指していくのか」をはっきりとさせることが肝腎だ。例えば、「アメリカの一流企業に職を求めて支配階層乃至はアッパーミドルの連中と互角に渡り合うような次元を目指すのか、Ivy League級のアメリカの裕福な家庭から選ばれた学生が学ぶ大学で修士号をとって世界で活躍したいというのか」というようなことだ。いや、私は英語の原書を読みこなせるような読解力が付けば十分だという人もいるだろう。

何れの段階を目指すにしても忘れてはならないことは、ただ単に英語が読めるとか話せることしか教えて貰っていないか、自分で学んでこなかったというのでは、アメリカの支配階層の中に入っていくとか、一流の私立大学に入って何不自由なく過ごすには無理が生じるだろうということ。そういう理由は「私の経験してきた限りでは、我が国の学校教育では我が国とアメリカの間に厳然として存在する文化の違いを教えていないようだ」と思うからだ。

簡単な例を挙げておくと「彼らの思考体系は二進法であり、交渉事では一切の妥協を許さない」とか「彼らは論争と対立を怖れずに議論を吹っ掛けてくる」とか「これを言うことで失うものはないというような、一寸聞けば高飛車のような議論を平気で仕掛けてくる」辺りになるだろうか。これに馴れていないと「何という傲慢な奴らだ」と思ってしまうのである。それに彼らは感情的にならずに延々と議論をする神経を持っていることも忘れてはならないのだ。

次に重要なことは「我が国の学校教育の英語では単語や文法を重視するが、彼らの日常会話や報告書に中に使われている口語体、慣用句、スラング(slang=隠語、符丁)等の区別を教えていないこと」を指摘したい。それだから、知識階級の中で絶対に使ってはならないとされている「汚い言葉」(=swearword)とスラングの区別が付いていないのだ。汚い言葉を使ってはいけないという私の失敗例は繰り返して採り上げたので、ここでは敢えて省略する。

私は「英語で話す際には文法を正確に守り、中学校1~2年の教科書に出てくる程度の言葉を沢山使って、細部まで十分に伝えるように心がけ、発音を明瞭にして相手に聞き取って貰えるような速度で大きな声であるべき」と主張してきた。そして、「英語で話す際には頭の中のギアを英語に切り替えて、出来る限り頭の中で日本文を英訳するような作業は避けて、英語のみで考えるようになれば尚良い」とも言ってきた。だが、忘れてはならないことは、決して俗に言う「ペラペラ」を目指す必要などないということだ。

実は私は「ペラペラと聞くと、何となくただ単に早く話せるだけのことで、薄っぺらな内容を英語で話すこと」のように思えてならないのだ。決してそうなってはならず、格調高く重厚な英語を目指して貰いたいと思っている。

屡々「単語を並べてみたら通じた」であるとか「兎に角通じれば良いのではないか。どんな英語でも実際に役に立てば良いのではないか」といった主張をされる方に出会う。それはその方の主義主張であるから、私の持論とは違うからといって論争を挑む気にはなれない、通じたのだから。そういうことを言われる方は「文法などと固いことは抜きにして、実用性を重んじられたのだろう」から、私の出る幕はないと思う。しかし「文法だけは何とかお守り頂きたいのだ」と、ガリレオのようなことは言っておきたい。

私が問題にしたいのはこの英語(なのだろう)をどのように受け止められ、どのように評価されるかだと思う。実は、これでも通じていたのは間違いないのが問題だと思う。私は「この不正確な英語でも会話が成り立つので、そこで満足するか」または「より良い英語というか、さらに高いところを目指すのか」だと思う。お解りの方はおられるだろうが、明らかに文法は無視でワードで入力すると疑問ありとされてしまう箇所がいくらでもあるのだ。「でも、通じたのだったら、それで良いじゃないか」という結論を出した方はおられた。

更に重要なことは、一度こういう種類の英語で「通じる」と知ると安心してしまい、先ず正しいというか正確な英語の世界には戻れなくなる点だ。即ち「通じれば良いじゃないか」なのだ。これを本当の英語に戻す為には、当人がよほど意識して勉強し直すか、正しい英語とは如何なるものかを心得ている指導者に導いて貰うかであろう。

ある専門商社の海外部門担当の専務さんに冒頭の例文をご覧に入れたところ「貴方は私の海外出張に何時の間にかついてきていたのか。私の英語は将にこれなのだ」と笑って言われた。それだけではない。文法を厳しく教えているはずの我が国の学校教育を経てきた方々の多くは文法を無視したか忘れてしまった英語を話す方が多いのも事実だ。

多くのおかしな英語の表現の中でも、絶対にお薦めできないのが、“you know”の多用である。これは何度か指摘してきた問題点であり「これを会話の中に挟むことは、貴方が『有能』であることを示すことにはならない」のであるし、言って良いかの階層にあることを示したことにもなるのだ。私が1945年にGHQの秘書の方に英語で話すことを教え込まれた際に「如何に言葉に詰まっても“you know”と言ってはならない」と厳しく指導されたのだった。だが、アメリカからやってくる元はMLBの野球選手たちには、南米出身の連中も含めて、これを多用する者が多い。即ち、自分がそういう階層に属すると問わず語りしているのだ。

敢えて極端とも思える指摘をすれば、“you know”を多用するアメリカ人に出遭ったならば、その人物は「そういう程度の教養しか持ち合わせていない」と断定して、それ以後のお付き合いを避けても良いほどだ。

私は上記の英語まがいの語りの中で最も興味深く受け止めたのが“children become big”の一節だった。即ち、この話し手は明らかに「成長した」と言いたかったのだが、“grow”という単語をご存じなかったか、あるいはとっさに思い浮かばずに“become big”、即ち「大きくなった」の直訳で逃げたのかも知れない。善意で解釈すれば「異なった言い回しで話を進める表現力を備えておられた」かのようでもある。私は文章でも会話でも、このような異なった言い回しをすることができることは重要だと思っている。だが、これは同時に語彙の問題でもある。

貶してから褒めたような論旨の展開となったが、我が国の英語の使い手と言われている方の中にはこのような文法に問題があることが多いと、経験上から言えるのだ。私はこの辺りに、我が国の英語教育における「文法重視」の成果に疑問を呈したいのだ。この問題点は「カタカナ語のほとんどが文法の原則を忘れて、複数や過去や現在の使い方を欠いているものが多い」ことからも明らかだと考えている。

結論を言えば「通じれば良い」といった低次元の英語力で満足するか、「いや、私は飽くまでも文法等の原則を守った格調高い英語を目指して支配階層の仲間入りをする」と言われるのかは、人それぞれの好みで私が介入することではないと思っている。しかしながら、上記の例文のような英語はお勧めしたくないし、英語を母国語とする人たちに尊敬されることはないことだけは保証しておく。私はそうではなくなるように英語を教えるのが「英語教育に携わる方の義務」であると思っているのだ。しかし、中々そうはなっていない辺りが我が国の英語教育の泣き所ではないのか。


ヘリコプターが墜落した

2018-08-12 16:17:52 | コラム
誠に痛ましい事故:

群馬県の防災用ヘリコプターが墜落して9人もの犠牲者が出たと報じられている。心からお悔やみを申し上げたい。我が国ではこのような民間(と言って良いのかな)のヘリコプターの事故が比較的多いように思う。私は在職中に仕事でかなりの回数をW社所有のヘリコプターに乗る経験をしているが、危険だと感じたことなど一度もなかった。

それはさておいて、我が国のマスコミや反日勢力はアメリカのオスプレーが墜落はしないまでも何らかの事故を起こしたり不時着でもすれば「危険だ、危険だ」の大合唱で「直ちにアメリカ軍に厳重抗議せよ。かかる危険極まりない機材の我が国の中にある基地への配備を取り止めさせろ」と喚き立てる。だが、彼らは何故か今回のような事故が起きても「防災用と雖も危険なヘリコプターの配備を止めよ」とは言わない。それどころか、水害の際などには避難できない方々の為には出動させるのだ。

何と言う勝手極まりない論法だろうか。ヘリコプターを操縦される要員は長時間の訓練を経て任務についておられるのだろうし、人命を預かる仕事をされるのは大変な精神的且つ肉体的な負担になっていると思う。彼らはそういう点をどう考えているのだろうか。新聞社もテレビ局もヘリコプターを所有して報道に使っているではないか。あれは危険ではなくて、我が国を守っているオスプレーは危険だというのは矛盾ではないのかなどとつい考えてしまう。マスコミって余程変な奴らの集まりなのかん。