新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

8月24日 その2 何の功績があって叙勲したのだろう

2018-08-24 14:32:53 | コラム
後難を恐れて言うが:

菅井きんという女優(なのだろう)が亡くなったと、各テレビ局が一斉に追悼番組みたいなものを組んでいる。私にとってはそこまでは別に異論もない。何と言っても、テレビ局から見れば芸人というか役者は皆須く身内なのだから、お悔やみ申し上げても不思議はない。私がここで云々したいのはそんなことではない。テレビ報道のお陰で知り得たのだが、菅井さんは勲四等という勲章を貰っていたと聞いて「そういうものなのか?」と限りない違和感を覚えたのだった。

何も彼女に限ったことではないが、芸人(芸能人という言い方もあるようだが)や俗称テレビタレントたちはテレビ局や映画会社やプロダクション等々に役を振り当てられてテレビにも出られるし舞台にも上がれて、その芸(もしも真正な芸があればだが)を売って、観客に媚びを売って、観客を楽しませてなんぼの世界で生きてきた人たちである。少なくとも私は彼らの誰が出て欲しいと思ったこともなければ、テレビ局等々に「出して下さい。あの人の芸が見たいのです」などと訴えたことなど一度もない。でも、彼らは出てくる、対価を支払うほどの芸の力などなくても、だ。

毎年の叙勲の発表がある際に特に気をつけてみている訳でもないが、こういう芸人が勲章を貰って「嬉しかった」の「それに値するとは思っていなかった」などとしかつめらしく語っている報道に接するのだ。私は何故に賞勲局は芸人に勲章をだすのかと、85年も生きてきても一向に解らないのだ。何処かの議員がLGBTを「生産性がない」と言ったといって大いに物議を醸しているが、私は芸人や役者たちに如何なる顕著な生産性があって社会に貢献したかは未だに解らないのだ。

これまでに何度も触れてきたが、我がW社ジャパンは1980年代に日本の対アメリカの貿易黒字削減に貢献したとして通産大臣賞を授けられて、確か賞状と記念品として緑色の大きな花瓶も頂戴していた。言いたくはないが、芸人や役者さん方よりも遙かに我が国とアメリカの関係改善に努力して貢献したと自負している。当時は液体容器原紙、段ボール原紙、製紙用等の全てのパルプ、木材チップ、丸太、製材品、ベニヤ等の合板、OSB等の対日輸出の総額は全アメリカの会社の中でボーイング社に次いで第2位だったのである。

こと我が国対する貿易赤字となると、あれから30年以上も経った21世紀の現在、トランプ大統領は今頃になってあれやこれやと苦情を申し立てられ、高率の関税を課すの、FTAに移行すべきだ等の強硬姿勢で臨んでおられる。思うに、現在のアメリカのでは対日輸出に顕著な功績を挙げている企業が余程少ないと見える。しかも、遺憾ながら、我がW社は最早完全に紙パルプ部門から撤退したので、上記のような製品で赤字削減に貢献できる立場にはないのだ。

ここで声を大にして敢えて言っておきたいことは、嘗ては通産大臣に表彰して頂いた会社は如何に経営の実態が変わってしまったとはいえ、赤字削減に貢献した事実までが消滅した訳ではない。だが、トランプ政権下であれほど対日赤字を問題にされてもマスコミは言うに及ばず、産業界でも「嘗てウエアーハウザーと言う紙パルプ・林産物の大手メーカーがあって、対日輸出に懸命に努めアメリカの赤字削減に貢献した」などという声を聞いたこともない。だが、故菅井きんさんが叙勲したという報道は為されるが。

私はW社自身が叙勲した訳ではないので、恐らくマスコミでも産業界でもかかる事実があったと記憶している者がいないのだと思っている。だが、不思議なことにその後にウエアーハウザー・アジアとジャパンの社長を兼務し、在日アメリカ商工会議所の会頭を2期勤めたフランクリン氏は叙勲しているのだ。彼の前任者と彼の下で我々は一所懸命に対日輸出に努力したが、君臨すれども実務には携わらなかった人は叙勲していたのだった。

私は何も当時の日本人の社員を表彰せよの何のと言っているのではない。芸能人たちよりも対日輸出の第一戦に立って奮闘してきた我々日本人社員のことも忘れて欲しくないと言ってみたいのだ。そのように認識して頂ければ、日本という非常に難しい市場を相手にしてきた我々の苦労も少しは報われるというものだ。「これほど難しい市場向けの売り上げた伸びないのはアメリカ側の努力不足のせいだ」とトランプ大統領にご認識願いたいものだと、ご就任以来密かに願っているのだ。でも、無理な相談だろうな。


地元意識か感受性の問題か

2018-08-24 08:05:37 | コラム
金足農に見る地元意識の問題:

甲子園の野球で秋田県の金足農業高校が吉田輝星投手を酷使して(?)準優勝まで行ったことで、秋田全県どころか大袈裟に言えば日本中まで盛り上がってしまった。テレビ報道で見る限りでは秋田県民の盛り上がり方は極限にまで達しており、テレビの瞬間視聴率などは100%に達するのではないかとの観測すらあったほどだった。私は全ての秋田県民が金足農高の出身者でもあるまいに、あそこまで熱狂するとは矢張り地方の特性かと、やや冷めた目で眺めていた。

かく申す私は、そもそもは東京市小石川区の生まれであり昭和16年の開戦前に病弱だった私の転地療養と疎開を兼ねて、藤沢市鵠沼に短期的に移転したつもりだった。ところが、昭和20年の4月の空襲に遭って本宅が焼失する目に遭い、藤沢に定住の形になってしまった。結果的には私が昭和37年に日本の会社の頃に大阪支店に転勤となるまで21年間鵠沼に住むことになった。

当時の鵠沼というところは言わば別荘地帯のようなところで、純粋の地元民を除けば多くの東京等の都会からの転入者には地元意識は極めて希薄だった。かく申す我が一家もその例外ではなかったと思う。即ち、何れは小石川に帰るつもりだったのだから。地元で開業しておられた有名な小児科の先生は「鵠沼とは困ったところで、多くの住民は束子の果てまで日本橋の三越で買わねばと思い込んでおり、地元を尊重する気などまるでない」と言われたが、言い得て妙だと母親たちが感心していたのを覚えている。

だからという訳で、私だけの感受性の問題かも知れないが、甲子園の野球などには関心が薄く、県を代表して法政二高だの横浜高校が出場しても、特に応援しようとか言う意識は余りなかった。言うなれば「良くやっているじゃないか」程度にしか捉えていなかった。実は、昭和24年には学校内で軽く見ていた野球部が甲子園に出るとなって、その前年に国体で準優勝だった我々サッカー部は「ふーん。良かったじゃないか」程度の受け止め方で、積極的に応援しようとはほとんど考えていなかった。

それが野球部が一度勝ったと聞いて「良かったじゃないか」と受け止め、更に勝ち抜いて中西太を擁した高松一高まで破って遂には決勝戦まで行ったと知っても「大したもんだ。そこまで行けば十分だろう」と極めて冷静?に受け止めていた。また、私はその記念すべき決勝戦の日はGHQの秘書の方と先約があって東京に出掛けていて、如何なる結末になったかすらも知らず、帰りの電車の中で「湘南が勝った」と盛り上がっているので、漸く知り得たのだった。ここまで来れば感受性の問題もあるだろうが、自分の学校の他の運動部に対して冷たすぎたかと反省もしていた。

今ほどには甲子園の野球が大事になっていた時代ではなかったとは言え、あの大会で並み居る強豪校を押しのけて優勝したのは大変な偉業だとは後になって気が付いた。しかも、まさか野球部がその前年の我々の国体での準優勝を凌駕する成績を残すとは予想もしていなかったので彼らが偉いと思うと同時に、自分たちが見劣りするのではないかという言わば劣等感のようなものに苛まれていた。

だが、今になって思い出しても、かの法政二高や横浜高校に先んじて優勝したにも拘わらず、神奈川県民も藤沢市民もかなり冷静にこの偉業を受け止めていて、市民が彼らの帰還を総出で藤沢駅にまで出迎えたという記憶はない。あるいはあったのかも知れないが、少なくとも我々は行っていなかった。と言うよりは、藤沢市民も神奈川県民も湘南高校野球部が自分たちの代表選手たちとは感じていなかったのではないのかなと思うのだ。これは感受性の問題、それとも県民性の問題?私には未だに解らないのだ。

零れ話の部類だが、昨日日本ハムが東大法学部出身の宮台投手を初めて先発で使った。気の毒に甲子園にも行っていなかった宮台君は清宮幸太郎の陰に隠されて一向に話題にされなかった。結果としては敗戦投手にはならずに済んだが。私はこの湘南高校出身の左投げの投手がプロに行くことは絶対反対だった。彼の能力にも問題なしとはしないが、そもそも我が母校はプロ野球には向いていないのである。それは過去に佐々木信也と衆樹資宏(共に慶応大学出身)がいみじくも立証している。私は東大まで行ってから身を投じるべき世界ではないと思っている。