サッカーと卓球から:
サッカー:
昨25日の男子の対メキシコのサッカーは色々な意味で興味深く見ていた。先ずは前半の早い時期に取った2点を守り切って勝ってくれたのは、誠に結構なことだった。私はメキシコがフランスを圧倒して勝った試合を少し見ていたので「これは難敵であるな」との印象だった。そのメキシコに対して後半は圧倒的にボールを支配されていながら、ポルトガル人だったかのレフェリーの我が方に厳しすぎるのではないかと思わせられた判定にも耐えて、2対1で勝ちきってくれたのは「良くやった」と褒めてあげたくなった。
最大限に褒めておきたい事がある。それは、前半6分だったかに右サイドにいた堂安が深く切り込んでゴールラインギリギリから斜め後ろに「クロスパス」(我々の時代では「センタリング」だが)を蹴り込んだ。これは正確にはパスなのだが、その行く先には誰もいなかったかのように見えた。だが、試合終了後に久保建英が語ったところでは、事前のスカウテイングでメキシコの守備陣形ではあそこが空くと解っていたので、堂安と事前に出来たらあそこを衝いてみようと相談してあったということ。
サッカーをやった経験がある方には解って貰えるだろうが、これは久保と堂安が示し合わせて「あの誰もいない一点でピタリと合わせられるようなパスを出して、走り込んだ久保が決める」というセンタリングが素晴らしいのだ。私はテレビの前で思わず「凄い。良いぞ良いぞ」と叫んでいた。更に解説しようと思えば、中にいる者にどのように合わせるかという意味では、理想的な展開だったのだ。
現在のサッカーはこの点が世界的に乱れているというか、出来ていないのである。中側にいる者たちが深く入りすぎているために、相手のデイフェンス陣と並んで静止している位置でセンタリングを受ける形になってしまうので、易々とデイフェンダーたちに守られてしまう場合が多すぎるのだ。
この点はは何時だったか木村和司が「現在のサッカーではFWが上がり過ぎるのは極めて宜しくない」と批判していた。一時代も二時代前ものサッカーをやっていた私は、極めて尤も指摘だと思って聞いた。しかし、久保建英の戦術眼はその上がりすぎを止めて、フットボール界の用語にある「リードを付けたパス」を使った辺りは「流石である」と褒めておきたい見事な先制点となった。
メキシコのサッカーには問題があったと見た。それは、同じ南アメリカでもブラジルのようなサッカーとは多少趣を異にしていて、彼らは先日の南アフリカと同様に一寸でも我が方のデイフェンスが後ろから触っただけでも地面に倒れ込んで悶えてみせるという、甚だ上品ではない試合振りだった。その擬態をレフェリーは問答無用で我が方の反則と採るだけに止まらず、酒井宏樹他2~3名にイエローカードを出してくれたのだった。「それは一寸あんまりじゃないですか」とテレビの前で叫んでいたような判定もあった。
我が方の2点目は左サイドを駆け上がってきた相馬だったかがセンタリングをしようとする際に競り合っていたデイフェンダーが、蹴り終わった後の無防備の相馬を倒したのをVARというビデオ判定に頼った結果で反則として、PKになったもの。後半にもゴールの方向に縦パスを追って走る堂安だったか久保だったかをディフェンダーが言わば手で突き飛ばす格好で倒し、一発レッドカードとしたのだった。私には厳しすぎる判定にも思えたが、言ってはならないことかも知れないが「埋め合わせ」なのかなとすら感じた。要するに、「メキシコのサッカーはフェアープレー」ではなかったのだった。
試合とは無関係な事を述べておこう。私は2000年に入った頃からは、流石に11人のサッカーをやらなくなっていた。昭和23年の福岡国体の高校の部で決勝戦で負けた者たちが集まって蹴球をやっていたものを、フットサルに切り替えていたので、ルールが変わっていたのを知らなかったのだ。
私が気が付いた主な変更は「キックオフを必ず前に蹴り出さなくても良くなったようで、いきなり後ろ向きに蹴っていること」と「ゴールキックはペナルティー・エリアから一旦外に蹴り出すことだったものが、今ではエリア内でキッカーと誰かがパス交換をしていること」である。往年は「ゴールキーパーがファイブステップといって、ボールを持ったならば5歩しか歩けない」というのも無制限に変わっている。
我が代表が決勝トーナメントに勝ち上がっていくためには、兎に角残るフランス相手に最低引分けが必要なのだそうだ。だが、外野で勝手に「引分けでも良い」などと希望的観測を述べていると、碌な結果が出ないことが間々あるので、ここでは「是非とも勝ち点を9にして上がっていってくれ」というに止める。
ピンポンの男女混合ダブルス:
個人種目だが、敢えて触れ置こう。昨日の準々決勝戦のドイツのペアとの対戦での、伊藤美誠と水谷隼の試合振りが凄かった。最終セットで0対5と引き離され、更には6対10にまで追い込まれマッチポイントを握られてしまった。居合わせた二男とは完全に諦めモードだった。だが、まさかとは思ったが、何となく「伊藤と水谷はひっくり返してくれたら素晴らしいのだ。何とかなるかも知れない」と願っていた。そこから先の両名の気迫が物凄かった。兎に角追い付いてdeuce(「ジュース」はUK式で、アメリカでは「デユース」だ)に持ち込み、そこからでも何度かマッチポイントを取られるのだが、遂には勝ち抜いてくれたのだった。
張本勲式にすれば「大天晴れ」である。私は精神主義を毛嫌いする方だが、あの伊藤美誠と水谷隼の勝利を支えたものは、何ものにも屈しない強い強い精神力があったと思う。精神力は人並み外れた次元までに技術を磨いておなかないことには、会得しきれないものだと信じている。その点から見れば、あの二人は実に心身共に優れた運動選手(「アスリート」なんて言いたくない)だと幾ら褒めても褒め足りない人たちである。マスメディアは何故もっとあの勝利を称えないのか。
サッカー:
昨25日の男子の対メキシコのサッカーは色々な意味で興味深く見ていた。先ずは前半の早い時期に取った2点を守り切って勝ってくれたのは、誠に結構なことだった。私はメキシコがフランスを圧倒して勝った試合を少し見ていたので「これは難敵であるな」との印象だった。そのメキシコに対して後半は圧倒的にボールを支配されていながら、ポルトガル人だったかのレフェリーの我が方に厳しすぎるのではないかと思わせられた判定にも耐えて、2対1で勝ちきってくれたのは「良くやった」と褒めてあげたくなった。
最大限に褒めておきたい事がある。それは、前半6分だったかに右サイドにいた堂安が深く切り込んでゴールラインギリギリから斜め後ろに「クロスパス」(我々の時代では「センタリング」だが)を蹴り込んだ。これは正確にはパスなのだが、その行く先には誰もいなかったかのように見えた。だが、試合終了後に久保建英が語ったところでは、事前のスカウテイングでメキシコの守備陣形ではあそこが空くと解っていたので、堂安と事前に出来たらあそこを衝いてみようと相談してあったということ。
サッカーをやった経験がある方には解って貰えるだろうが、これは久保と堂安が示し合わせて「あの誰もいない一点でピタリと合わせられるようなパスを出して、走り込んだ久保が決める」というセンタリングが素晴らしいのだ。私はテレビの前で思わず「凄い。良いぞ良いぞ」と叫んでいた。更に解説しようと思えば、中にいる者にどのように合わせるかという意味では、理想的な展開だったのだ。
現在のサッカーはこの点が世界的に乱れているというか、出来ていないのである。中側にいる者たちが深く入りすぎているために、相手のデイフェンス陣と並んで静止している位置でセンタリングを受ける形になってしまうので、易々とデイフェンダーたちに守られてしまう場合が多すぎるのだ。
この点はは何時だったか木村和司が「現在のサッカーではFWが上がり過ぎるのは極めて宜しくない」と批判していた。一時代も二時代前ものサッカーをやっていた私は、極めて尤も指摘だと思って聞いた。しかし、久保建英の戦術眼はその上がりすぎを止めて、フットボール界の用語にある「リードを付けたパス」を使った辺りは「流石である」と褒めておきたい見事な先制点となった。
メキシコのサッカーには問題があったと見た。それは、同じ南アメリカでもブラジルのようなサッカーとは多少趣を異にしていて、彼らは先日の南アフリカと同様に一寸でも我が方のデイフェンスが後ろから触っただけでも地面に倒れ込んで悶えてみせるという、甚だ上品ではない試合振りだった。その擬態をレフェリーは問答無用で我が方の反則と採るだけに止まらず、酒井宏樹他2~3名にイエローカードを出してくれたのだった。「それは一寸あんまりじゃないですか」とテレビの前で叫んでいたような判定もあった。
我が方の2点目は左サイドを駆け上がってきた相馬だったかがセンタリングをしようとする際に競り合っていたデイフェンダーが、蹴り終わった後の無防備の相馬を倒したのをVARというビデオ判定に頼った結果で反則として、PKになったもの。後半にもゴールの方向に縦パスを追って走る堂安だったか久保だったかをディフェンダーが言わば手で突き飛ばす格好で倒し、一発レッドカードとしたのだった。私には厳しすぎる判定にも思えたが、言ってはならないことかも知れないが「埋め合わせ」なのかなとすら感じた。要するに、「メキシコのサッカーはフェアープレー」ではなかったのだった。
試合とは無関係な事を述べておこう。私は2000年に入った頃からは、流石に11人のサッカーをやらなくなっていた。昭和23年の福岡国体の高校の部で決勝戦で負けた者たちが集まって蹴球をやっていたものを、フットサルに切り替えていたので、ルールが変わっていたのを知らなかったのだ。
私が気が付いた主な変更は「キックオフを必ず前に蹴り出さなくても良くなったようで、いきなり後ろ向きに蹴っていること」と「ゴールキックはペナルティー・エリアから一旦外に蹴り出すことだったものが、今ではエリア内でキッカーと誰かがパス交換をしていること」である。往年は「ゴールキーパーがファイブステップといって、ボールを持ったならば5歩しか歩けない」というのも無制限に変わっている。
我が代表が決勝トーナメントに勝ち上がっていくためには、兎に角残るフランス相手に最低引分けが必要なのだそうだ。だが、外野で勝手に「引分けでも良い」などと希望的観測を述べていると、碌な結果が出ないことが間々あるので、ここでは「是非とも勝ち点を9にして上がっていってくれ」というに止める。
ピンポンの男女混合ダブルス:
個人種目だが、敢えて触れ置こう。昨日の準々決勝戦のドイツのペアとの対戦での、伊藤美誠と水谷隼の試合振りが凄かった。最終セットで0対5と引き離され、更には6対10にまで追い込まれマッチポイントを握られてしまった。居合わせた二男とは完全に諦めモードだった。だが、まさかとは思ったが、何となく「伊藤と水谷はひっくり返してくれたら素晴らしいのだ。何とかなるかも知れない」と願っていた。そこから先の両名の気迫が物凄かった。兎に角追い付いてdeuce(「ジュース」はUK式で、アメリカでは「デユース」だ)に持ち込み、そこからでも何度かマッチポイントを取られるのだが、遂には勝ち抜いてくれたのだった。
張本勲式にすれば「大天晴れ」である。私は精神主義を毛嫌いする方だが、あの伊藤美誠と水谷隼の勝利を支えたものは、何ものにも屈しない強い強い精神力があったと思う。精神力は人並み外れた次元までに技術を磨いておなかないことには、会得しきれないものだと信じている。その点から見れば、あの二人は実に心身共に優れた運動選手(「アスリート」なんて言いたくない)だと幾ら褒めても褒め足りない人たちである。マスメディアは何故もっとあの勝利を称えないのか。