新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

7月20日 その2 英語の話

2021-07-20 10:02:14 | コラム
久しぶりに英語関連のことを語って見よう:

産経新聞の7月14日の投稿欄に、私の興味を惹くものがあった。だが、他の話題を優先したことと私の英語論は一般受けしないという恐れがあったので、漸く本日取り上げる余裕が出てきた。この投稿を批判する意図などは毛頭なく、その中の論点の一部に我が国の英語教育の問題点を見出したという、投稿された方の意図とは寧ろ無縁の話になると思う。

その投稿は「英語学習で思う人の偉大さ」と題された横浜在住の方のものだった。「偉大さ」と言われる点についてはある程度は尤もだと思うので、その辺りを先ず引用してみよう。

>引用開始
母国語は自然と覚えられるが、外国語はそうはいかない。単語を覚え、文法を理解し、論理的に文章の構造や文脈を捉えることができなければ正解には至らない。極めて緻密な作業である。母国語は無意識のうちにこうした作業をしているのだと考えると人間の頭脳の偉大さに改めて気づかされる。
<引用終わる

極めて尤もな主張であり、特に私が勝手に太字にした部分などは「その通り」と諸手を挙げて賛成される方は、正直に言えば甚だ遺憾ながら、多いと思うのだ。私はここを読んで「なるほど、このように英語を理解し認識して(理解させられ、認識させられて)おられる方が多いのだろうな」とあらためて認識した次第だった。

私はここに「このような英語の勉強法は非常に論理的であり、且つまた非常に科学的である。このように恰も数学のように筋道を立てて語学を教えるのが我が国の『科学としての英語』の教育の仕方である。その為に多くの方が嘆かれたように、実用性を乏しくしてしまう最大の原因なのである」と敢えて断言したいのだ。私の勉強法はと言えば、これまでに繰り返して述べてきたように、この太字の部分のどれにも該当しない「音読・暗記・暗唱」だけだったのだから。

この投稿にあったような方法で英語で文章を構成してみようとすると、如何なる形になるかを、一寸卑近すぎる例を挙げてみよう。それはテレビに登場するタレントというか芸人たちが街に出る企画でのことだ。偶々白人に出会って「何処の国から来ましたか」と尋ねなければならなくなる場面が出てくる。ところが、言葉にならないのだ。実は、これは意外な難問なのだ。先ずは「何処から」が出てこないのだ。勿論“where”という単語は出てくるが、これでは「何処の国」にはならない。記憶している例では“Where country?”が出てきて「これでは違う」とは解るのだ。

次が「来ましたか?」で苦しむのだった。これが疑問文なのだとは意識しているようなので“come”は出てくるが、どうやって疑問文にすべきかが思い浮かばないのだ。確か“Where country you come?”辺りまでの作文はできた。私が指摘したいことは「先ず言いたい事を日本語で思い浮かべる」から始まって「習い覚えていなかった単語を思い浮かべて、何処に当て嵌めるかを模索する」のだ。次に文法の縛りを思い出して「疑問文にするには」に辿り着くのだった。それが“Where country 云々”となったらしい。見事に「科学の縛り」に遭って、身動きが取れなかったのだ。

実は、正直に言って私は“What country did you come from?”か“Which country have you come from?”の何れが良いのかが解らないのだ。現実的には、英語の世界ではこのような個人的なことの質問は避けるべきなので、こういう質問をしたことがないのだ。もしも訊かねばならなくなれば“May I ask you what country you have come from?”と丁寧に言わねばなるまいと思う。“Where did you come from?”と言ってしまえば、単に「何処から来ましたか」と尋ねているだけなので「ホテルから来た」と言われてしまうかも知れないのだ。

この「何処から来たか」で2005年だったかにカナダのバンクーバー空港で、思いがけない混乱に出会ったことがあった。その時はナイアガラ瀑布にパック旅行で行く途中で、乗り継ぎ便を待つ間、空港内の売店を冷やかしていたのだった。そこの女性店員と話をしていると「何処から来たのか」と尋ねられたので「たった今成田から来たばかりだ」と答えると不満げな顔で、もう一度“Where did you come from?”と来たので「だから、さっきから成田から来たと言ったじゃないか」と言い返した。

すると、そうじゃない“I’m asking you from which province of Canada you have come.”だと言うのだった。ここから先は自慢話と取られても仕方がないが、彼女は私が話している英語がアメリカのアクセントではないので、てっきり日系かアジア系のカナダ人だと思ったので、カナダの何処の州から来たのかと訊いたのだと言うのだ。だから”Where did you come from?“という質問になったのだそうだ。即ち、「何処の国」とは尋ねていなかったのだ。だが、私は日本人だと解っていると思い込んで「成田から」と言ってのだった。

細かい点を挙げておくと、カナダでは「州」をprovinceと称することと、英連邦系であるので、陸続きのアメリカを嫌う傾向があるのだ。だから、私のアクセントをアメリカ風ではないと勝手に判断して「カナダのどの州から来たのか」と尋ねたのだった。意外に思われる方はおられるだろうが、カナダとアメリカは貿易取引は多いが、余り親密とは言えないようなのだ。

そうそう、投稿の件に戻るが、私は日本語を学んだことはないが、気が付けばチャンと生まれ育った山の手の言葉になっていたのだった。それが偉大なのかどうかは全く解らないが、非常に良くできている言葉の学習法だとは思う。


小山田圭吾問題

2021-07-20 07:37:09 | コラム
日本語もろくに解っていない人物だった:

当方は不勉強にしてこういう人物の存在すらも知らなかったし、ましてやオリンピックの開会式の音楽の担当を依頼されていたなど知る訳もなかった。この問題の詳細を知り得たのは、昨19日のバイキングモアとやらで坂上忍が言うなれば激高していたので、初めて知り得たのだった。坂上以外でも参加していたヒロミ、アンミカ、野々村真、高橋真麻全員がその問題となった音楽関係の雑誌の小山田圭吾のインタビュー記事を読んであり、辞めさせるべきだという強硬な意見で一致していた。

私はその小山田なる者の存在すらも知らなかったので、何らかの論評する材料も持ち合わせもなかった。だが、その者がTwitterに掲載した謝罪文を読んで「これでは駄目だ」と判断する材料を得たのだった。即ち、小山田はその障害児を虐待した時期を「学生時代」と表現していた。しかし、バイキングモアで内容を聞く限りでは、中学から高校にかけての蛮行のようだったのだ。ここで言葉に一際うるさい方の私は「学生時代」に引っかかったのだった。それは正確を期すれば「学生時代」とは正しくは「大学在学中」の意味であり、高校時代は「生徒」であるべきだからだ。

この類いの言葉の誤用は、テレビに登場するタレントや芸人どもが屡々犯していることなのである。この程度の基本的な言葉の使い分けも出来ていない者が、事もあろうにオリンピックの開会式の音楽を担当するとは論外であるとまでは言わないがと、その場では考えた。だが、何れにせよ間違いなく不適格であると思った。そこで、早速検索をかけてみれば、私には何らの関心もなかった小沢健二(何故かこの人物が「オザケン」と呼ばれているのは知っていた)たちと組んで、その手の音楽をやっている者だと初めて知り得た。高校までの学歴をも知り得た。

ここでバイキングモアに戻れば、坂上は何度も何度も「小山田なる者の経歴とその音楽関係の雑誌でのインタビュー記事のことくらいは、一寸その気になって調べれば解ること。それを怠った組織委員会は何をやっていたのか」と憤って見せた。私も尤もであるとは思った。だが、武藤敏郎事務総長は小山田を擁護して、そのまま任務を継続させる(マスコミどもは何故「続投」などという野球用語を使うのか。「留任」という言葉を知らないのか!)とまで言ってしまった。

私は武藤氏の世間知らずの点や、組織委員会の調査不足(身体検査か)は幾ら責められても仕方がないだろうとは考えている。だが、武藤氏は苟も大蔵省で位人臣を極めて事務次官だったお方である。そんな偉い方が私だって知りもしなかったあの種の音楽を手がけている者が推薦(ノミネートじゃないよ)されてきても、過去の不品行のことや、それを検索でもして調査せよと指令される訳がないだろうと、ほんの少しだけ同情した。マスコミに総出で森喜朗氏が辞任に追い込まれて以来、この委員会はやること為すことが冴えていない。

そこで、本20日は例によって朝は4時に起きて、テレビのニュースを見れば「小山田圭吾はTwitterで辞任を表明」とあった。昨日のバイキングモアでは坂上忍は「Twitterなどででなく、本人が出てきて記者会見なり何なりで説明すべき事は語るべきだ」と、矢張り厳しく追及していた。この点も尤もだと思う。だが、小山田はまたしてもSNS利用だった。今更言っても詮無いことだが、アホなマスコミに騒がせないようにして、森氏に留任して頂いてあれば、今日の失態は防げたような気がするのは誤りかな。