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新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

フランシスコ教皇の逝去の報道に思う

2025-04-24 07:08:52 | コラム
何故我が国西欧の文化・文明が尊重されるのだろう:

真っ先に本稿で強調したい事を述べておくと「我が国は独自の文化と文明を持つ世界の一流の国家であるとの誇りを持って国内でも国外でも堂々と行動しよう」なのである。

先ず、フランシスコ教皇が逝去された事に心からなる哀悼の意を表しておこう。何分にも4年間カトリックのイエズス会によって運営されてきた大学の出身であるし、1999年にはバチカン市国のサンピエトロ大聖堂にも参詣の機会があったのだから。その際に、カトリック教徒ではない私でさえも聖堂内の余りにも荘厳と言うべきか圧倒的な雰囲気に涙が零れていたのだった。

そこで、本稿で私が論じたいのは「フランシスコ教皇が亡くなられた事に関して、我が国ではマスコミを始めとしてトランプ大統領の関税政策と同等かと思えたほど大きく扱われている事が良く理解できない」のである。その理由は「我が国は仏教国だったはずだし、国内のカトリックの信者の数は非常に少ないとも承知している」からだ。

そこで、念の為に改めて統計を調べてみた。矢張りと言うべきか何と言うべきか「我が国のカトリックの信者は1億2千万人の0.34%に止まっていた。一方では世界全体でのカトリック信者の数は、75億8千万人近い人口の中で13億4千万人強を占めていると判明した。

単純素朴な疑問は「何故、0.34%しか信者がいない我が国では重大なニュースの扱いになるのか」という事。仏教国であるのならば、例えば浄土宗の管長である大僧正が亡くなった場合に重大なニュースとして報道された事があったのかという疑問だ。私は浄土真宗の管長のお名前すら聞いたことがない。

そこで、何故このような状態になっているのかを、アメリカの知人たちにも照会して、キリスト教国の事情も併せて調べてみた。そこで見えてきた事の一つに「我が国における(というかマスコミに見える)抜き難い西欧の文化・文明への敬意の表明」があった。その敬意の対象にキリスト教というかカトリックへの憧憬にも似たものが感じられるのだ。

と言っている私も、1991年に初めてヨーロッパに行く機会を得て、ドイツ、フランス、イタリア、バチカン、スペイン等でカトリックの文化と文明の凄さと美しさを各地のドームに見て素直に圧倒されたのだった。京都や奈良に見る神社仏閣とは異なる歴史を痛感させられた。だが、この違いには優劣の差のような物はないと信じている。

そこで、私が感じている西欧の文化と文明への憧憬だが、白人たちの世界と対比して分析してみると下記のように思えるのだ。

ローマ教皇を「宗教を超えた道徳的権威」として敬意を表して扱っているのではないか。つまり、キリスト教国でもない日本でもマスコミにとっては教皇の動向は非常に重要なニュースの扱いになるようなのだ。アメリカ人からは「日本の大手メディアは欧米が重視している事柄は我々も重視すべきだとでも考えているのでは」と皮肉られた。

私には「我が国では無宗教だなどと言う人が大多数を占めていて、宗教の影響力が殆どないにもかかわらず、教皇が亡くなると世界的なニュースとして扱うメディアの国際感覚と報道価値の捉え方には、ヨーロッパとアメリカが世界の中心であるという認識があるからだ」と思えるのだ。

私は我が国のメディアは未だに白人と白人国崇拝ではないかと疑っている。このように見れば「アジア系は格下」のように卑下乃至は謙遜していないか、恰も赤沢大臣の「格下の格下」発言に見られたように。私は長年アメリカ人の中で過ごして、高い教養と知性を持つ者たち〔富裕層)は精々全体の5%以下で、後は浮かばれない中間以下の人たちだと見ている。何も「アメリカ人だから、EUの国の人だからと尊敬する必要があるのか」と言いたい。

外国人を尊敬し、彼等からも尊敬されるのは疑いもなく良い事であると思う。だが、同盟国であるアメリカに行っても「日本という国は中国の一部?」くらいの認識しかない人たちがそこいら中にいるのだ。自分の州から出たこともない人が多い非国際人が多い国なのだと認識してほしい。

私が強調したい事は「自分の国と自分に誇りと自信を持って行動しよう」なのだ。白人崇拝は忘れて「相互に尊敬し合い信頼し合う関係を構築することが先決問題だと自覚しよう」なのである。何時まで経っても「アメリカやヨーロッパで認められるとか、活躍して名を挙げた人を礼賛するのか。我が国は独自の文化と文明を持つ世界の一流の国家であるとの誇りを持て」とマスコミに注文を付けて終わる。


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