新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

時の流れの恐ろしさ

2018-01-12 13:19:37 | コラム
リタイヤーしてから早くも24年:

気が付けば今年の1月末で、19年間お世話になったW社からリタイヤーして満24年になってしまうのだった。勤務していた間よりもリタイヤーした後の方が5年も長いとは、やや感無量的でもある。同時に、時の流れの速さと恐ろしさを痛感させられている。

2000年4月にリタイヤー後6年も経ったのでと、カリフォルニア州経由でワシントン州のW社の本社と工場を訪れた頃には、現在のようなアメリカの紙パルプ産業界の再編成は進んではいなかった。だが、最初に訪れたサンフランシスコのハイヤットリージェンホテルでは、フロントデスクに Video checkout の看板が出ていたのを見て「何のことか」と疑問には感じていた。

それは部屋に入ってから解ったことで、室内のテレビをつけると画面にその時刻までのこの部屋に泊まっているお客の勘定の明細が出てくるシステムだった。そして、チェックアウトする日の朝にその画面を見て間違いなければ、テレビのリモコンで承認すればチェックアウトが完了する仕組みだった。そこで、明細書と領収証を必要とするならば、フロントデスクの看板のところに行けば一式が貰えるのだった。

なお、アメリカのホテルではチェックインの時点でクレデイットカードの番号を登録させられているから、あらためてサインをする必要はないのである。その際に感じたことは、こういう仕掛けで徐々に紙を使わない方向に世の中が向いていくのかなという点だった。現に、当時のテレビのCMには「詳細は~.m(ドットコム)へ」という形が極めて多く、印刷(紙)媒体衰退の芽が出来たなと思わせてくれたのだった。

ところが、2005年になるとアメリカ最大級の上質紙(一般の方には模造紙と言えば解りやすいだろうコピー用紙のような白い紙)のメーカーだったW社が印刷用紙の将来に見切りをつけて、その事業部をスピンオフ(分離独立させる)してしまったのだった。そして、2007年には世界最大の製紙会社であるInternational Paper(IP)は経営体質転換と称する一大事業再編成を敢行し、それこそ世界最大級だった塗工印刷紙(アート紙のような光沢がある紙)の事業部門を惜しげもなく売却してしまったのである。

この結果でアメリカの上位3社のうちの2社が印刷用紙の将来性に見切りをつけていたことが明らかになってきたのだった。換言すれば、W社とIPの上位2社はIT化(乃至はICT化)が止めどなく進んでいき、印刷媒体には最早将来性無しと判断したことが明らかだった。如何に二進法的に物事を判断するのが彼らの特徴であっても、今から11年も前に決めつけていた辺りは、恐ろしいことだと思わざるを得ないのだ。

この後暫くして、アメリカでは印刷媒体としての新聞(言うまでもないかも知れないが、新聞用紙に印刷した新聞)が目に見えて衰退し、21世紀に入る頃には1年365日間に紙に印刷した新聞を発行する新聞社が激減して、土・日曜日はWeb版に移行していった。その結果として新聞用紙の需要は10年間に60%以上も減少し、新聞用紙を主体としてき大手メーカー数社が続々と Chapter 11 (我が国の民事再生法)の適用を申請する結果になってしまった。

この20数年間の変化を私自身に当て嵌めて回顧すると、私が1972年に最初に転進したMead社は当時はアメリカの紙パルプ林産物業界で上位10社に入る印刷と事務用紙の大手メーカーだったのだが、時代の流れからか高級板紙(白い厚紙をご想像願えば解る)の大手メーカーのWestVacoと合併してMeadWestvacoとなった後で、印刷と事務用紙部門を分離して遂には歴史あるMeadの社名が消えてしまう状態になってしまった。

また、私が新卒で採用して頂いた旧国策パルプ工業(現日本製紙)の販売部門だったH社も日本製紙の販売部門の子会社に統合されて、両社共に社名と共に消えてしまった。即ち、我が国の紙パルプ産業界でも、アメリカほど劇的な業界再編成が進んでいたわけでもないが、時代の変化は昭和30年代には夢想だにできなかった変化をメーカーと流通部門に生じさせていたのだった。

アメリカでの紙パルプ林産物産業界の整理統合は止まるところを知らず、世界最大即ちアメリカ最大のIPは、20世紀中にアメリカには新規の設備投資をせずと断言して新規投資は全て将来張っての可能性がある中国や南米の諸国に限定すると表明した。今やIPがアメリカ国内で生産しているのは恐らく需要が底堅い段ボール原紙と函くらいのものだろう。

我がW社と言えば、2008年だったかに紙パルプ部門の最大の事業だった段ボール部門を売却してから次々に紙パルプ事業から撤退していき、一昨年の9月末を以て完全に撤退を終えてしまった。即ち、1900年法人組織にした時の木材製品とその後に設けた不動産事業だけの会社に戻ってしまったのだった。誠に思い切りが良いと言うのか、時の流れ、即ち止まるところを知らぬICT化の勢いに逆らわないとの姿勢を示したのか、時の流れの恐ろしさを見せてくれた。

私の長年の持論は「アメリカで起きた波は何時の日か必ず太平洋を渡って我が国に影響をもたらすものだ」なのだが、18年1月の時点ではアメリカで生じたような劇的な変化はもたらしていない。だが、ICT化だけではなくIOTだのAIなどは着々と我が国に根付きつつある。業界に課されるであろう問題点は「米国の大手メーカーのように先手を打って事業の再編成を敢行するのか、流れが襲ってきてから波乗り板でも準備して対応して乗り切っていくのか」ではないだろうか。