新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

女子W杯代表ティームの問題点

2014-05-17 16:27:53 | コラム
選抜ティームは格下のベトナムに手こずった:

16日夜は後半にやっと3対0にしたところまでで安心できて寝てしまった。3年前にあれほど綺麗に纏まって、まるで長年一つのティームとしてやってきたのかと思わせられたほど全員が合っていた女子代表も、澤、宮間、川澄、大儀見、岩清水、福元、上尾野辺(当時は一本目ではなかったと記憶する)に二線目以下が加わったのでは、欠陥ばかりが目立って非常に頼りない印象だった。

敢えて問題児を挙げておけば、上尾野辺、菅沢、有沢辺りで彼等に球が集まっても何の役にも立たない状況が続き苛立たされた。佐々木監督も3年前のレギュラーから如何に速やかに世代交替すべきかに腐心しておられたのだろう。だが、残念ながら女子のサッカーにあれほど人気が出てなでしこリーグに参加するティームの数が増え選手も増加すれば、昨夜見た世代間の落差が生じたのも止むを得ないと思っている。

しかし、流石に佐々木監督で、昨夜のW杯制覇メンバーから鮫島、近賀、坂口、大野、安藤、丸山を先発から欠いた状態でも、W杯連続出場をほぼ確実にしたのだから、偉いものである。男子にすれば、長友、今野、山口辺りを落としているのと同じではないか。しかし、女子のサッカーは男子ほどの消極性がなく、「見事な」と皮肉を言いたくなるような自陣に向かっての展開をしないで細かく繋いでいける辺りが救いだ。

昨夜の試合を見て痛感したことは、「女子のサッカーが普及したためにリーグの人気が上がったのは良かったが、所属各ティームはリーグ戦で勝つか上位に上がるための「そのレベルで纏めよう」とする方向に走りがちになっている」と感じさせられた問題である。これは私が25年以上も前から指摘してきた高校の全国大会をトーナメント方式で開催するから「そのためにそのレベルに合わせた教え方の偏ってしまう」事と同じ現象(欠陥?)であると考えている。

しかも、これも長年の指摘だが、「高校では野球とサッカーで高野連と高体連に所属する学校の数がそれぞれ4,000を超えてしまえば、4,000人もの優れたコーチないしは監督が指導することが出来るのか」という問題にぶつかるのだ。女子の場合は3年間に急速に拡張し競技人口も増えれば、それに見合う経験と実績を備え且つ新局面に適した指導者が十分に間に合うのかと、私は疑っている。

しかも、現在の女子日本代表は前回の世界王者である。前人未到の最高峰だ。その選手たちに負けないような選手を、そこまでに到達しなかった指導者がどうやって教えろというのか。嘗てバレーボールで、元男子選手としてそれほど実績のなかった選手が女子代表の監督に就任した時に、代表的な選手の一人が「一寸、おっさん」と呼びかけたという噂を聞いたことがある。それほど難しいことだろうと私は思っている。

そのW杯優勝メンバーに新参の若手が加わったのだから、昨夜のように噛み合わない(短期間に完全に合わせてこられなかった)若手ないしは二線級が入ったのから、息が合わなかったのは仕方がなかったのだろう。だが、もう此処まで来たらそんな言い訳で済む場合ではない。しかし、私が見る問題点は「佐々木監督は自分で見て回って選んだ、第三者が育てた選手をも寄せ集めて指揮せねばならない立場にいること」だ。

私の長年の持論は「選抜ティームは、一定以上の期間、同じ指導者に十分に鍛えられた単独ティームに優るものではない」である。もっと簡単に言えば「寄せ集めでは単独ティームを凌げるものではない」のである。だが、昨夜の格下のベトナムが引いて守っていたためにあれほど手こずっているのでは、ここでは世代交替は先ず措いて、3年前の代表選手を糾合した方が良くはないかと思わずにはいられなかった。

それほど我が国のスポーツ界に蔓延るトーナメント方式による高校の全国大会には「勝って獲得する名誉」はあるが、小さく纏めてしまうという私が嫌う弊害を伴うのだ。それが顕著に表れているのがプロの野球で「1回の表、ノーアウトランナー一塁の場合は躊躇わずに二番バッターがバントで送る」試合運びだ。MLBのBaseballではあり得ない作戦だが、我が国の野球では常識だ。

ここまででは、昨夜の女子のサッカーを厳しく批判しすぎかも知れない。だが、これは同時にあのW杯制覇のメンバーが如何に優れているかをあらためて賛美することにもなると思う。昨夜私が酷評した程度のことしか出来なかった二線級の奮起を促したくて言うのだ。気にしないで奮励努力して貰いたいものだ。

人手が不足して・・・

2014-05-17 08:38:13 | コラム
そこまでとは予測していなかったのは誰の不明?:

LCCはパイロット不足で減便せねばならぬ時代となり、すき家は¥1,350だったかの時給を払ってもアルバイトが集まらず多くの店舗を閉めたと報じられている。私はここまでの事態に至ると予測できなかった不明を恥じているのだが、果たして恥じるべきなのだろうか。

ここでまたぞろ昔の話しを思い出した次第だ。それは1960年代だったか、当時雇って頂いていた日本の会社の本社は有楽町の懐かしき三信ビルや日比谷劇場に近いところにあった。その周辺は急速に発展し、そこを走る高速道路の下には西銀座デパートやショッピングセンターが続々と開店し、綺麗な近代的で魅力的な小売店が急増したのだった。そこには当然だが若き乙女の販売員が数多く登場した。

その辺りを常に彷徨っていた我々若き精鋭の一人がポツンと言ったことは「これだけ小売店が増えるとどうしても若くて魅力がある美貌の女性が減るな」と、今ならば到底許されないとんでもない差別発言をしたのだった。「そう言われてみれば、デパートに獲られているな」と賛成する者もいた。即ち、後難を怖れずに解説すると、「小売店の急増を賄う働き手の数が足りないな」となる。

この解説でご納得頂いた向きには私が言わんとすることは「LCCもすき家も彼等が求める人材の供給が根本的に不足しているという事態を見誤っていたのだ」と、お解り頂けたと希望的に考えている。ゼンショーの社長は「若者が3Kを嫌っている」と語って大顰蹙を買った模様だが、私は何度か聞かされた「現在の若者には何をやっても良いから稼いでやろうとの意欲が欠けている」という方を信じたい。

即ち、車の所有欲がなく、免許を敢えて取りに行かず、新聞も定期購読せず、PCを持たずとも漫画喫茶等の利用で済ませられる等々のような高齢者には俄に理解できないような価値の基準を持っているようなのだ。中には高価なブランド品を身にまとう意欲など頭からないので、あの汚らしいジーンズにシャツの裾を外に出して着用して気にも止めないのだろう。

何時だったか、何処の局だったか5名の大学生に5万円与えて一日で使い切れと依頼した。すると彼等が最初にしたことはと言えば、コンビニに行ってカツ丼弁当だったかを買って曰く「今日は豪華な昼飯と行こう」と。結局使い切れなかった。不況下に育った彼等の「豪華」はこの程度のことだ。だから、すき家の何とか言う鍋形式の牛肉料理の準備が面倒だからとそこでのアルバイトを嫌ってしまうのらしい。

こういう流れをみて、何時まで経っても「今時の若者は・・・」等という陳腐な価値判断の基準で見ていると、時代を見誤る結果に終わるのではと、後期高齢者歴6年の私には見えてくるのだ。

集団的自衛権の行使

2014-05-17 08:04:01 | コラム
集団的自衛権の行使は国民を戦場に送るようなもの:

まさに「出ました」だった。これは17日朝のTBS「あさちゃん!サタデー」のエース的(札付きの)ゲスト・吉永みち子の発言である。毎日新聞の熱心な読者なのだろうと拝察する。安倍総理の記者会見を聞いてそう解釈する人は少数派だと思っていたが、この革新的評論家は総理の発言の裏に秘められた危険性を斯くの如くに見事に読み取ったのだろう。恐ろしいことは、罪なきいくらかの国民の方は「そうだったのか」と納得してしまうことだ。

産経では産経抄氏も認めるようにこの集団的自衛権の解釈を巡っては、同紙と朝日・毎日では180度の違いがある。朝日の発行部数未だに公称通りに800万部もあるのだったならば、大雑把な計算では国民の6%が吉永的解釈をしてしまうことになる。

一方の産経では17日に、古森義久のコラムで「米国にとって尖閣の防衛はまさに集団的自衛権の行使となる。米国にはその行使を求めその恩恵を喜びながら、時刻の同じ権利の行使を罪悪のように拒否するのは、欲張りの子供のよう」と言っているし、元スタンフォード大学研究員・ベン・セルフ氏は「全世界の主権国家がみな行使できる権利を日本だけには許さないということは国際社会のモンスターと見なす」と述べたとある。

全てのコインには両面があることだし、ここには言論の自由が保障されている我が国の有り難さが十二分に表れているのだ。しかし、狡猾な連中はこの自由を悪用して新聞記事を書きテレビで発言させるのだ。そこに着目した反日的テレビ局は吉永を重用して言いたいことを彼女の口を借りて言っているのだから、始末に困る。