新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

サッカー日本代表から英語論へ

2014-05-13 12:29:09 | コラム
監督には彼がやりたいサッカーがあるだろうし選手の好き嫌いがあるのでは:

昨日の日本代表の顔ぶれ発表は一応の関心を持ってテレビ中継を見てはいました。私の偽らざる期待は「予選リーグで一度でも勝てれば上出来だ」程度です。このように見ていれば、一度でも勝ってくれれば素直に喜べるでしょう。マスコミやテレビに登場する解説者風の者たちは期待を持たせるようなことを言わねばならぬ立場でしょうが、辛いだろうと勝手に考えております。

一部の解説者がブラジル出身のTulioが選ばれることを期待していましたが、この背景にはあのメンバーとなった場合の守備力に不安があったためではないかと疑っています。だが、あの監督はブラジル系ではないサッカーを目指していたので、Tulioを選ばなかったのではと思っています。また、監督にはどうしても好みがあるので、Tulioは合わなかったとも言えるかと。

因みに、未だに大久保を「サプライズ」としている向きが多いのはどうかと思うのです。私はこの表現を失礼だと決めつけましたが、産経でも三浦淳宏も「失礼だ」と指摘しています。

昨日はアクセス数がここにエントリを開始以来最大だったと思うのですが、錦織の批判とこのサッカーとスポーツ関連のみだけでは、多少残念な気がします。我が国であれほど日本代表のサッカーを熱心に支持する若い人たち(サポーターというのでしょうか)が多いのは、きっと愛国心の発露かと浅はかにも考えていました。だが、どうもあの連中の関心がサッカーに向いているのは、AKB48やモモクロに熱狂する連中と同じような気がしてなりません。

現に50歳台半ばの親しい友人は国立競技場にモモクロのライブを観に行く熱心なファンです。彼は自分の周囲の席には人品骨柄卑しからぬ中年の紳士が何人もいると言います。そうであれば、AKBに熱中する中年の紳士がいても不思議はないことになる気がします。これは「蓼食う虫も好き好き」という範疇でしょうし、他人様の趣味?に対して何か批判めいたことをいうべきではないと思っています。

ここで例によってここで英語の講釈をお許し願えば、「蓼食う虫も好き好き」は"There is no accounting for tastes."であり、"Different strokes for different folks."のようにもなるかと思っています。と言うと、上記の監督の好き嫌いの話しに戻ってくるのかも。

英語ですが、President誌の201 6.2号の特集では“「英語」の学び方”として「1ヶ月でTOEICで100点up」の副題が付いています。内容は非常に優れた対策かと思います。だが、長年言ってきたことですが、「学校教育でものになあなかった英語(Englishに非ず)を、我が国の英語力の誤った基準と化したTOEICで短期間に良い点を取って、海外に出たときにどれほど役に立つのか」と言いたい気がします。

私は「English圏内の人たちとの文化と思考体系の違いを本格的に弁えずに、TOEIC対策で鍛え上げた英語で意思を表しても、彼等との商談が思うように成立するとか、避け酌み交わして胸襟を開いて語り合う道具になるのかな」と言いたくなります。こういう対策の勉強も結構ですが、その前に「立派な基礎が築き上げられるような英語(またはEnglish)の教育をするのが先決問題だ」とあらためて主張します。

「私が主張するような基礎がないのに、会話だの外国との交流だのをしようとするのは、足し算と引き算が出来ていないのにかけ算と割り算をやろうというのに等しいのだ」と早く解って欲しいもの。