♦️290『自然と人間の歴史・世界篇』クラシック音楽(リスト)

2018-05-03 23:22:06 | Weblog

290『自然と人間の歴史・世界篇』クラシック音楽(リスト)

 フランツ・リスト(1811~1886)は、ハンガリーのライディングという村に生まれる。父は、貴族身分のエステルハージ侯爵の土地管理人を務めていた。その父の趣味は楽器を演奏することであったという。
 そんな父が、息子のリストが6歳の時、試しにピアノを教える。すると、リストが類稀な才能の持ち主であることがわかったという。8歳になる前のリストは、はやステージに立って演奏するのであった。そして迎えた1820年11月、リストがプレスブルクの演奏会に出場すると、貴族たちは大歓声でその労をねぎらい、年額600グルデンの奨学金を与える話になる。
 やがて、リストはウィーンに出ていく。ピアノの名手カルル・ツェルニーについて勉強する。1822年12月、腕に研きをかけたリストがウィーンで最初のピアノ演奏会を開くと、結果は大成功であった。12歳にして、檜舞台で拍手喝さいを浴びたのだ。さらに、リストの一家はバリへと移り、そこでもピアノの名手としての名声を得ていく。とはいえ、1827年に最大の後見役であった父が亡くなると、苦難の3年があったという。
 1830年7月になると、社会革命の砲声に促されるかのように、リストは音楽活動に邁進する。その後は、この分野で名だたる一人になっていく。当時のヨーロッパを股に掛け、ピアノ演奏会には聴衆がつめかけ、熱狂でムンムンの状況があったというから、驚きだ。この間、作曲も大いに手掛けるようになり、自身の音楽に幅をもたせていく。
 例えば、1847年にリストが発表したハンガリー狂詩曲は、テレキ伯爵に捧げられている。民族の雰囲気を真っ直ぐに伝える。巧みな鞭(むち)さばきで、かつての砂漠を駆け回る牧人たち。ハンリアン・ジプシーや農民たちの歌っていた歌が耳にあったのであろうか。幼い日をハンガリーの草原で過ごした思い出が、蘇っていたのであろうか。
 1849年には、ワイマールにいて、「慰め」を作曲する。1862~63年には、「三つの演奏会用練習曲」を作曲する。こちらは、「森のささやき」と「こびとの踊り」の二部から成っており、親しみやすい曲調だ。
 そんな彼には、義理堅い、人情に通じるところがあったらしい。例えば、1838年、故郷の国のブタペストのうち、低地のペストは大洪水に見舞われた。これを知ったリストは、多額の支援金を援助する。洪水の翌年に祖国を見舞ったリストは大歓迎をうけるのであった。
 他にもある。作曲や後進の指導などにも精出していく。音楽というものを、都会や貴族ばかりでなく、田舎や庶民にも普及させようと、色々と試みる。その中には、「交響詩」といって、曲想の説明を織り込んだ曲づくりを行う。これは、大衆を強く意識して音楽活動を行うものであり、現代音楽への流れをつくりだしていく先駆的な試みだといえよう。

(続く)

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