かぶとん 江戸・東京の歴史散歩&池上本門寺

池上本門寺をベースに江戸の歴史・文化の学びと都内散策をしています。

谷中・感應寺(感応寺)の歴史 略年表

2011-11-07 | 池上本門寺
谷中 感應寺(感応寺) (現在は護國山天王寺)
略年表
1274(文永11) 長耀山感応寺の開創。開山・日源、開基・関小次郎長耀(新堀の土豪)

1621(元和7)  日長(感応寺9世)入寺。
           ・徳川家の外護により伽藍整備に着手。
1643(寛永20) 梵鐘の鋳造。
1645(正保2)  五重塔、建立。
1648(正保5/慶安1) 第9世日長 『長耀山感應寺尊重院縁起』を著す。
1690(元禄3)  釈迦牟尼仏像の鋳造。
1691(元禄4)  不受不施・悲田派、幕府により邪宗門として禁ぜられる。
1698(元禄11) 第15世日遼は八丈島、第14世(隠居)日饒は三宅島に遠島となる。
           感応寺は東叡山お預け。天台宗に改宗して存続する。
          ・のち度々日蓮宗帰宗の訴えが出されるも、すべて不首尾に終る。
           ・法華信徒が去り、寺院の経営が厳しくなる。
           ・天台宗側は寺領増加の願いを出すも認められず。
1700(元禄13) 富突(富くじ)の興行願い、幕府より公認される。
1728(享保13) 富突禁止令が出るが、感応寺は興行を許可される。
        ・明和年間(1764~1772)初期、笠森お仙、江戸市中の評判となる。
1772(明和9)  明和の大火により、五重塔焼失する
1791(寛政3)  五重塔の再建なる。
1833(天保4)  家斉、法華寺・感応寺の日蓮宗復帰を命ず。
           輪王寺宮舜仁法親王、日蓮宗転宗を阻止する。
           長耀山感應寺尊重院の山号・寺号・院号、日蓮宗に返還される。
           輪王寺宮、「護国山天王寺」に改称する。
1842(天保13) 富突興行の禁止令。
1868(慶応4/明治元) 戊辰の役、上野戦争で本坊、五重塔以外は焼失する。
1874(明治7)  寺域の大半が、東京府に移管し谷中霊園となる。
1908(明治41) 五重塔 東京市に移管。
1957(昭和32) 五重塔 焼失。

そして雑司ヶ谷の鼠山 感応寺を絡めてみます。
1833(天保4)  大奥・お美代の方を中心に、感応寺の改宗(帰宗)運動がおきる。
        池上本門寺48世日萬、寺社奉行に改めて感応寺の帰宗願いを提出する。
          (谷中の感応寺、護国山天王寺に改称する。)
1834(天保5)  徳川幕府より再興(新寺建立)の沙汰が下される。
        本門寺の末寺として雑司ヶ谷の鼠山に開創。「長耀山感應寺」と称す。
1836(天保7)  感応寺本堂 1月、地祭(地鎮式)。12月、完成。
          ・11代家斉所縁の大名家の参詣、大奥女中の代参でおおいに賑わう。
1841(天保12)  ・大御所家斉没。家斉側近者ら罷免される。
           幕府より、感応寺の廃寺・取潰しの沙汰が出る。
           池上本門寺へ廃材引渡し。保管は鎌倉・比企谷妙本寺。
(一般略年表のため、敬称略しました。)

さらに、12代将軍家斉の時代、ということで。
1787(天明7)~1837(天保8) 将軍在位。(天明・寛政・享和・文化・文政・天保期
1837(天保8)4月 家斉、隠退して西の丸へ。世子家慶、本丸に入城。
         9月 家慶、第12代将軍宣下。
1841(天保12)閏1月 大御所家斉没(69)。大御所時代終わる。
       4月 家斉側近の林忠英、水野忠篤、美濃部茂育 罷免さる。
       5月 享保・寛政の制に復すことを告諭(天保の改革)老中首座・水野忠邦
 
〇日源 ? ~1315(正和4)年 駿河国。もと天台宗学頭智海法印。日蓮の弟子。     岩本山實相寺の二祖。碑文谷法華寺開山。威光山法明寺開山。
〇関小次郎長耀(道閑) 鎌倉期、新堀の土豪。日蓮に帰依。
    山の下、日暮里・関妙山善性寺も関小次郎長耀の開基(とも)
    縁者関善左衛門との関わり。今は半分、伝承の世界だが「関」妙山、そして
    感応寺は「長耀山」、状況証拠は揃っている。
この項、善性寺の檀家総代「根ぎし 芋坂 羽二重団子」澤野庄五郎さんのHP記事を見て。
〇1274(文永11)の開創のあと、江戸開府以前の記録がない。
〇第9世日長 法華寺(現円融寺)で得度。駿河の妙蔵寺(妙像寺)の住持の時に、お万の方(養樹院)、お加知の方(英勝院)が帰依する。この二人の推挙により、元和7年(1621)谷中感応寺の住持になる。
〇第14世日饒・第15世日遼
〇感応寺を日蓮宗に帰宗させる運動
日啓(中山法華経寺の子院・知泉院)、日尚、大奥女中・側室お美代の方(日啓娘、中野碩翁養女)、若年寄・林肥後守忠英、小納戸頭取・美濃部筑前守茂育、新番頭格・中野播磨守清茂(碩翁・石翁)らと感応寺を再び日蓮宗に改宗させる運動をおこす。
(それ以前に知泉院の御祈祷所・御用取扱所とする活動があり、後々事件沙汰となった)
〇お美代の方(日啓娘→日啓妹(?)、中野碩翁養女)内藤造酒允就相・子女(?)
    ? ~明治5年6月11日(1872.7.16) 専行院→真行院(?)。家斉側室。
「お美代の方」、要確認の事項。
基本はWikipediaに世話になっており、よく参考にさせてもらっている。が、すこし興味をもって確認していくと、すぐ元に近いところの説明文と違ってくるのが悩ましい。
池上本門寺側は、日啓娘ではなく日啓妹としている。専行院ではなく真行院となっている。
大奥女中・お美代の方には違いないが、なぜ家斉側室・お美代の方とはしないのか?
Wikiに、なんらかの意図があるのだろうか。加賀藩前田家12代斉泰の正室・溶姫、広島藩浅野家10代斉粛の正室・末姫の実母(もちろん実父は家斉)であるとしているのだが。
〇中野播磨守清茂(碩翁・石翁) 明和2年(1765)~天保13年5月12日(1842.6.20)
旗本。幕府の御納戸頭取、新番頭格。徳川家斉の側近。お美代の方の養父。
〇富突興行の禁止令 1842(天保13)年 その後の天王寺は?


参考 『見る・読む・調べる 江戸時代年表』 小学館
参考 『「がらくた置場」 by s_minaga 』さん 江戸名所図会>巻之5:長耀山感應寺
   「谷中天王寺の五重塔-天王寺五重塔跡出土遺物調査報告書」台東区教育委員会
   『天王寺(台東区) - Wikipedia 』



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