コンピューター・ウイルス対策ソフトはここ暫くフリーのAVGを使っている。完璧な保護をするなら有料版にアップグレードしろとある。有料版のサイトに行くとこんなことが書いてある。
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今年の3月頃、友達に雑談メールで 「 けっこう前から今だけ!千円引きになってるよ 」 と送った。それから4ヶ月、今はまだ続いていた。当時と数字は変ってない。
今年の3月頃、友達に雑談メールで 「 けっこう前から今だけ!千円引きになってるよ 」 と送った。それから4ヶ月、今はまだ続いていた。当時と数字は変ってない。
山梨の別荘に住んでた頃、クライミングは週に2回くらいはやっていた。1回は外、もう1回はジムって感じだ。しかし佐久に来てから10数年は時々しかやってなかった。たまに続きそうかと思うと入院沙汰だの故障だので長期中断。ヨメもそれに引っ張られてやってない。
最後の長期中断の引き金になった因縁のルートがある。2008年に手首の故障の元となった場所だ。当時もあまりやってなかったのに山梨からクライミング仲間が来たってことでつい調子に乗って… 程々にすれば良かったのである。
また始めたきっかけはというと、故障もまぁまぁ治ったし、というより去年の春に近所のクライミングジムが閉鎖になるかもってことだった。何年も前に買った回数券がこんなに残ってるぞってことで慌てて消化に走った。幸い閉鎖にはならなかったけど諸般の事情でまた中断。それでも去年の7月からは定期的にジムに通い続けることが出来、丁度1年経った。
今から半年ほど前の晩秋頃、少しは登れるようになったのでボチボチ外の岩場に行ってみるかという気になった。因縁のルートに登った。本当はそのルートはやりたくなかったが、他のルートが塞がってたので仕方なくやることにした。でも密かに丁度良い腕試しと思った。しかし結果は全然歯が立たず敗退。主な敗因は指の皮がまだ薄かったのがだと思うけどかなりショックだった。幸い故障はしなかった。
そして今月初め、ヨメは小川山に行きたいと言った。でも俺は遠くてヤダから近所で登ろうと頼んだ。そして再びこの因縁のルートを登ることにした。リベンジってやつだ。ちなみにこの言葉はもう死語なのかな。
因縁のルート(5.11c)
この壁の登り方は①右手、②左手、③左手と伝えられている。②、③と左手が連続するけど間違いではない。でも俺はこのルートを一目見た時から①左手、A右手、③左手という手順で登っていた。②を使おうなんて全然思っていなかったのでこの登り方の話を聞いて驚いたくらいだ。後で聞いて伝承された登り方でやってみたけど②のホールドは全然使えなかった。
ところがこの日、②の小さなホールドが大きく見えた。使えそうに見えたのだ。丁度中島敦の名人伝の登場人物である紀昌(きしょう)の気分だった。紀昌は小さな虱(しらみ)を弓で射ようとした。日々修行してるうちに虱が馬くらいの大きさに見えるようになった。そのくらい大きく見えれば虱の心臓を射抜くなんてのは超簡単。
実際、①右手、②左手、③左手の手順でこの部分を登ることが出来た。しかしその日は湿度が高かったせいか更に上まで行ってから岩がヌルヌルしてきたので残念ながら完登は出来ずに途中で降りてきた。
岩の条件が良くなるのは秋か冬になるかもしれない。はっきり言えるのは、恐らくその頃にはこのオレサマは手や足で登るなんて域を遥かに超えているってことだ。多分この岩壁を一瞥しただけで完登。この技は名人伝にある不射之射(ふしゃのしゃ)、弓を射らずに遠方の鳥を落とすのと同じなのだ。名付けて不登之登。そしてこれがこのオサレマのクライミング・スタイルになるのだ。
最後の長期中断の引き金になった因縁のルートがある。2008年に手首の故障の元となった場所だ。当時もあまりやってなかったのに山梨からクライミング仲間が来たってことでつい調子に乗って… 程々にすれば良かったのである。
また始めたきっかけはというと、故障もまぁまぁ治ったし、というより去年の春に近所のクライミングジムが閉鎖になるかもってことだった。何年も前に買った回数券がこんなに残ってるぞってことで慌てて消化に走った。幸い閉鎖にはならなかったけど諸般の事情でまた中断。それでも去年の7月からは定期的にジムに通い続けることが出来、丁度1年経った。
今から半年ほど前の晩秋頃、少しは登れるようになったのでボチボチ外の岩場に行ってみるかという気になった。因縁のルートに登った。本当はそのルートはやりたくなかったが、他のルートが塞がってたので仕方なくやることにした。でも密かに丁度良い腕試しと思った。しかし結果は全然歯が立たず敗退。主な敗因は指の皮がまだ薄かったのがだと思うけどかなりショックだった。幸い故障はしなかった。
そして今月初め、ヨメは小川山に行きたいと言った。でも俺は遠くてヤダから近所で登ろうと頼んだ。そして再びこの因縁のルートを登ることにした。リベンジってやつだ。ちなみにこの言葉はもう死語なのかな。
この壁の登り方は①右手、②左手、③左手と伝えられている。②、③と左手が連続するけど間違いではない。でも俺はこのルートを一目見た時から①左手、A右手、③左手という手順で登っていた。②を使おうなんて全然思っていなかったのでこの登り方の話を聞いて驚いたくらいだ。後で聞いて伝承された登り方でやってみたけど②のホールドは全然使えなかった。
ところがこの日、②の小さなホールドが大きく見えた。使えそうに見えたのだ。丁度中島敦の名人伝の登場人物である紀昌(きしょう)の気分だった。紀昌は小さな虱(しらみ)を弓で射ようとした。日々修行してるうちに虱が馬くらいの大きさに見えるようになった。そのくらい大きく見えれば虱の心臓を射抜くなんてのは超簡単。
実際、①右手、②左手、③左手の手順でこの部分を登ることが出来た。しかしその日は湿度が高かったせいか更に上まで行ってから岩がヌルヌルしてきたので残念ながら完登は出来ずに途中で降りてきた。
岩の条件が良くなるのは秋か冬になるかもしれない。はっきり言えるのは、恐らくその頃にはこのオレサマは手や足で登るなんて域を遥かに超えているってことだ。多分この岩壁を一瞥しただけで完登。この技は名人伝にある不射之射(ふしゃのしゃ)、弓を射らずに遠方の鳥を落とすのと同じなのだ。名付けて不登之登。そしてこれがこのオサレマのクライミング・スタイルになるのだ。