今何処(今の話の何処が面白いのかというと…)
マンガ、アニメ、特撮の感想ブログです。




【絶対悪ってなに?(´・ω・`)悪の化身編】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/26fcde56a318ee8ac05975c93cde11b1

【絶対悪ってなに?(´・ω・`)善悪逆転編】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/a58f2370c3f40af6e878fcdc2c97b64a



続きです。前回記入する事は避けた事があります。「善悪逆転編」で臨界点的な位置付けとした「海のトリトン」(富野喜幸の世出)と「デビルマン」が登場した1972年。それに追う1973年に、もう一つ、その後の世の中に対して、ある重要な“悪”がセットされるんですね。五島勉の「ノストラダムスの大予言」シリーズの刊行がそれです。まあ、著書自体に善悪はないのは当然でしてw“予言”とは単なる“時限装置”なのですが、ここでは話の主旨から“悪”とカテゴライズしておきますw
…ノストラダムスの滅亡の予言については今さら解説する必要はないと思いますが、「1999年7の月に天より恐怖の大王が現われ」人類は滅亡する…というあれです。大ベストセラーとなったこの本も、先の「善悪逆転編」で述べたような「自分たちは“悪”かもしれない」と感じて行く世相の流れと、完全にリンクしたものだと思っています。ノストラダムスの予言自体は(破滅のそれ含めて)以前から日本にも伝えられていたようなのですが、この五島勉氏の著書がセンセーションとなったのは、氏の人々の不安を煽る書き口もその主因でしょうが、それよりも1973年のこの時期、という意味が大きい。

※これと同じ終末的な作品で、小松左京の「日本沈没」が大ヒットするのも1973年。執筆開始そのものは1964年という事と、メッセージそのものは終末への警鐘とは違った意味を持つ作品だと思うのですが、この時期に多くの人にウケた理由は、正に「大予言」と同じ要素のものであったと考えられます。

今となっては(予言がはずれた事もあり)、と学会の山本弘氏の指摘や、「MMR」がネタ本として消費されて行く流れに合わせて、すっかりネタ本として……それこそ最も槍玉に挙がるネタ本として扱われているんですが、当時はかなり夢中で読まれ、この本が1980年代以降の新興宗教(カルト)に人々が取り込まれて行く現象に少なからぬ影響を与えたと言う指摘はそんなに外れていないように思います。
それらの話を信じてしまった人たち、言わば“騙された人たち”を、無邪気だ、愚かだ、あるいは精神的に幼い…などと言って、“後の大人”が片付けるのは簡単ですが、僕はそんなに単純な話ではないと思っています。五島氏の文章が極めて誘導的である事に気が付いたとしても、1999年という予言が胡散臭かったとしても、当時……というか今もなんですが(汗)普通にこの世界を眺めていれば、普通にこの世界が破滅に向かっている事が感じられたはずなんですよね。

世界大戦を経験する事によって人間は国家総力戦というものと、核兵器という人類を滅亡させ得る事象を目の当たりにした。それまでは終末/人類の滅亡と言っても神か天使と言ったような超常現象……一度も見た事がないようなものを信じる必要があった。でも、核兵器は違います。特に日本では原爆の威力の恐ろしさは繰り返し繰り返しフィルムで流され、写真で展示され続けた。…そういった活動をする人は核兵器を廃絶するための活動であって、必ずしも人々の恐怖を煽る意図は無かったでしょう。でも、確実に多くの人々に恐怖を植え付けたんですよね。
別にこれは核兵器だけではなく、公害問題もそうで工業地帯の海からは奇形の魚が浮かび、川の色は変って死んだ魚が大量に流れてくる。森林は伐採され人間はもの凄い勢いで酸素工場を失って行く…。これら全て、人類が普遍的に邁進してきた“進歩”の果てに手に入れたものです。…進歩して行く事こそ正しい事だと思っていたのに、どうしてこんな事になってしまったのか?

…ここにすっと入り込んで来たものの一つは「価値相対主義」の思想。そしてもう一つは「どうしてこうなったのか?……それは僕らはもうすぐ滅ぶからだよ」という終末思想です。核兵器、公害、自然破壊……これらの事象をこれ程一本線で結べる考え方を、僕はちょっと思いつかないw時限的な予言が胡散臭かったとしても、今、人類が自らを滅ぼす懸案を数多く抱えているという事自体は、客観的に判じる事が可能な「ファクト」だったんですよね。…今だって、そんなに状況変ってないとは思うんですけどね(汗)まあ、のど元過ぎれば何とやらで“人類さん”としても「滅びるにしても、そうでないにしても、まったりやってくしかないよね~?」みたいな心境なんでしょうかね?w

いずれにせよ、この時から1999年まで、物語の世界では、この“悪の時限装置”が様々な面で影を落とす事になります。70年代後半~90年代のバトルは“これ”との戦いが、かなり大きな支流となっていたはずです。戦争根絶や環境破壊阻止をお題目とする(とりあえず言ってみたレベル含む)悪の組織は乱立し、「愚かな人類は滅ぶべき存在なのだ!!」という“悪役”の叫びは、繰り返し繰り返し消費され、パターン・陳腐・うんざり、と言われるレベルまで持って行かれるのもこの時期ですし、「マクロス」で異星文明の巨大戦艦(マクロス)が降ってくるのは1999年、「北斗の拳」で核戦争が起こるのは199X年です。こういう符合レベルならもう数限りなくあるでしょう。


■「サイボーグ009」の天使編は何故未完なのか?



「善悪逆転編」で、ヒーロー(正義の味方)が戦いの果てに善悪逆転に遭遇するという展開の先駆け的な作品として「サイボーグ009」を取り上げましたが………では、その先の戦いには何が待っているか?という問いに対する答えも、また「サイボーグ009」が先駆けています。まあ、小見出しで答えは分かっているでしょうから、先に結論を言いますが、それは「天使との戦い」なんですよね。

「サイボーグ009」の「天使編」は、「ヨミ編」の後、1967年~1969年に連載された中編の戦いの中の最後の一本なんですが、黒い幽霊の“別の細胞”とも言うべき“悪”との戦いの果てに、009たちの最後の敵として現われたのが“天使”なんですよね。彼らは009の加速装置を無効化し、人の心を読み取り、サイボーグ戦士たちが機械の身体である事を即座に看破し、自らを人類の造物主と名乗って、実験のやり直し…つまり人類の消去を口にします。圧倒的な能力差を目の当たりにして戦意を失いかけるサイボーグ戦士たちは、それでも人間を守るために命を賭してでも、この天使たちに“抵抗”する道を選ぶ………………とここまでで、実は「天使編」は中断となってしまい、最終章とされたこの物語は、やがて再開すると石ノ森先生は謳われながら、遂にその結末は、お墓にまで持って行かれてしまいます(涙)(2008年息子さんが小説を発表しはじめましたが…さて)そういう、いわくのある一編です。

実は僕は最初「天使編」には違和感を感じていた人間なんですよね(汗)(まあ、その前に未来人との戦いもあるのですけど…)元々僕は009は人間の“悪の心”とこそ戦っているのだと思っていたので、その戦いの相手は人間に限られるべきじゃないか?と思い込んでいた所があって。……それが、なんで宇宙人が“最後の敵”なんだよ?と、そう思っていました。しかし、黒い幽霊の「人間こそが悪」という指摘を、よくよく考えて行くと、成る程と。この天使との戦いが、実はかなり必然的なものであった事が分かって来るんですよね。
今の話題に合わせた言い方をすると、つまりですね。「善悪が逆転」する事はどういう事かというと、自分たち(と人間)が“悪”という事になる話ですよね。そして純粋なヒーロー(正義の味方)の話をすればする程、“悪”は必ず倒される話を積み上げてきているワケですよね。…であるならば、自分ら(と人間)が“悪”である事を否定できないなら、今度、倒されるのは自分ら(と人間)の番で、これは必ずそうならなければならない。何故なら、ず~っと悪が必ず倒される話をしてきたから…。この論法に無理はありますか?という話でね。…そして、じゃあ、自分ら(人間)を倒す、別の“正義の味方”とは一体何か?というと……それがつまり“神”か“天使”となるワケですw

つまり「善悪逆転」の文脈上、“究極の敵”とは何者か?というとそれは“天使”だ!という事です。

この話の大元の“究極の悪役”かどうかは分かりませんけどね。……でも“究極の悪”とは「自分らを滅ぼす、最も正当な理由をもった唯一の解決法の事」という考え方はあるかもしれません。天使ってのはそういう存在ですわね。……これ完全に「デビルマン」の設定なんですがw豪ちゃんみたいに“やり過ぎない”形で、石ノ森先生って009に、最後の敵、究極の敵を与えようとして、一息でここまで結論出しているんですねえ…すげえwすげえよ!w



※天使の光輪を見た007は零れ落ちる涙を止める事ができず、その場に跪いてしまうんですよね。…単なる“強敵”じゃない。“本当に畏しい者”がやって来た事を知らせる良いシーンです。

……しかし、戦いを決意した所でこの物語の先を描けなくなってしまったワケです。理由は二つあると思っています。一つは、そのまま戦うとサイボーグ戦士たちが全滅する物語になる、からじゃないですかね。「サイボーグ009」たちの戦いは基本的に“人知れず”行われています。平和な社会で流星を見て「世界が平和でありますように」と願う少女のような人々の目の届かない何処か、で今日も人知れず悪と戦っている…そういう連中なんですが、それからすると「天使編」はそのまま戦えば、自らの命とひきかえに天使たちを退け、そしてサイボーグ戦士たちの戦いを知る者は誰もいなくなる(っていうかこういうパターンでもギルモア博士はちゃっかり生き残るだろうけどw)………まず、そんな物語がイメージされます。ヒーローが命を賭ければ、おそらく奇跡は起きるんですけどw………でも、それってどうなの?っていう事だと思うんですよね。その可能性が下地にある「誰がために戦う物語」とは言え、9人もいながら1人の欠員も許さなかった石ノ森先生が、それ(全滅)をするのは、たとえイメージしたとしても筆が止まるだろうと…まあ、想像ですがw

もう一つの理由は、今回の話題とリンクします。つまり、ですね……。

本質的に言うと“天使”って勝っちゃったらダメな存在なんですよね。

勝ったらダメなんですよw勝ってしまったら、それは“天使”じゃなくって“何か凄く強かった悪者”(過去形が重要)って事になってしまうwここで“善と悪”の戦いをする者が倒すべきなのは天使ではなくって、自分ら(と人間)が“悪”だという指摘であって、力で天使をねじ伏せても、この問いかけから逃れた事にはならないんです。無論、「んなもん知ったことか!!善だろうと悪だろうと!俺たちは生き残るんだよ!!」と返したのが、たとえば「トップをねらえ!」だったり「グレンラガン」だったりするワケで、僕は、そういうのも大大大好き!なんですが……んでもそれだと「わ~、なんて利己的な考えなんだ~、じゃ“悪”確定という事で(棒読み)」っていうかねw屁理屈に聞こえますか?wでも、倒すなら「それは違う」事を証明してからじゃないと、勝ったことにはならない…という考え方は分かるかと思います。

まあ、これを解答するプロット自体は既に古典的に扱われていて「神様に許してもらう、猶予の時間をもらう」ってパターンがありますよね。“ごく希な反証を取り上げて”(良い人間もいる事を見せて)それを拡大解釈して、神様に許してもらう…という形が多くとられているようです。このレベルのプロットなら石ノ森先生は余裕で描けると思うですが……多分、「天使編」は“ごく希な反証”に留まらない、もっと大きな何かを提示してそして幕を閉じたかったんだと思います。人の心にこそ“悪”はあるのだ!とした物語の最後に、でも“善”もまた人の心にこそあるのだ…という物語を描こうとして筆が止まった………と僕は想像しているんですよね。

何が言いたいかと言うと、究極の善悪の戦いの先を描こうとすると筆が止まっちゃうかもね?って事です。まあ、無理矢理オチをつけるのを良しとすれば描けない事はない!でしょうけど。…これは「デビルマン」でさえそうです。人類の全滅は描けたけど、その後に降臨して来た神々の軍団との戦いは描けていない。本当の最終戦争は描いていない。…まあ、正確には、その後の「バイオレンス・ジャック」も、どういう話かと言うと、不動明と飛鳥了の二大ツンデレがウロボロスな乳繰り合いをしていました!!(`・ω・´)>みたいな話になっててw豪ちゃん(この時は)神々の話なんか描こうとも思っていないと思うけどw…でも、なんであれ先が描かれなかった点においても「天使編」と同じと言えます。
1999年のワードに引っかけて、終末戦争、最終戦争を描こうとした作品はいくつかあると思うんですが…人気を博して必然的に“究極の戦い”を期待されてしまった作品は筆が止まり、結局、1999年という“天の時”を失して2000年以降になって……それでも何とな~く、肩肘張らないオチをつけたものや、今でもボツボツと続けているもの…がありますよね。そんな感じ?w


■「リアルロボット」という時代の終焉



この話は「善悪逆転論」から派生した「終末論/終末神話」の顛末を語ろうとしているのですが、もう一つの派生である「価値相対主義論」の方にも少しだけ触れておきたいと思います。この流れは「イデオン」に到達した後、富野由悠季監督が、主軸に継承されていったと思っています。「イデオン」、「イデオン」ゆうてますが「機動戦士ガンダム」(1979年制作)の影響が大きいのは言うまでもありません。……しかし「ガンダム」は“悪”と“悪役”の角度から見て行くと、特異点的なんですよね。基本的に「善悪の逆転」があるワケではないし、人類に対してかなり希望のある終わり方をしている。……ちなみに僕は読んでいないんですが、富野監督自身が書いた小説版「ガンダム」ではアムロは戦死するそうですね。…富野文脈からすると、確かにそっちの方なんですよね…(考)

とまれ、この「ガンダム」/「イデオン」の流れはリアルロボット路線という一時代を築き上げます。…今となっては80年代という一時代のみを席巻した現象に過ぎませんが、それ故、80年代を象徴している路線と言っても差し支えないように思います。……リアルロボットは本当にリアルなのか?とか、ここで使われている“リアル”とは一体何を指していたのか?とか、いろいろ再検証が必要なジャンルではありますが、一言で特徴を言えば「それまでの単純な、世界制覇を目論む悪の組織が毎週1体ずつ“やられメカ”を出撃させてくる話ではなくなった」事が挙げられるでしょう。そして当時のファンの誉め方として“善悪混然一体”というか「どちらが善でどちらが悪とは一概に言えない作劇」が持てはやされました。……………う~ん(汗)どうしても文章長くなってしまう(汗)ま、とにかく、かなり「価値相対主義」的に作られていたって事です。(個々の作品に対しては再検証の必要がありますが)

しかし、この世界もやがて崩壊の時を迎えます。「機動戦士Zガンダム」(1985年制作)がそれなんですが……長くなるので、詳しく語るのは止めておきます。「リアルロボット路線とは何だったのか?」という話はまた別の機会にできるといいですね。ただ、今、「機動戦士Zガンダム」で崩壊と説いて、反発する人も少なくないと思いますが……でもねえ………僕は当時、監督が「次の作品はスーパーロボットにする!」とか言い出して、それを無邪気に「お!いいぞ!やれやれ!w」とか思っていたワケですが……冷静に眺めてみて、主人公が最終回に発狂するラストで、その次の番組でいきなり「アニメじゃない!アニメじゃない!」などとメタフィクションなシャウトを始めたら、少なくともトミーの頭の中では“大崩壊的な何か”が起こっていたんじゃないか?と考える方が妥当だと思うワケですよ(´・ω・`)

まあ、それはともかくとして、「Zガンダム」から「ガンダムZZ」(1986年制作)→「機甲戦記ドラグナー」(1987年制作)と行ってリアルロボット路線は一旦の終焉(実際には細々と続きますが…“時代”としては終わったと見てよいでしょう)を迎えるのですが、これに前後して、その後のアニメの展開に重要な作品がいくつか入ってきます。

【ハーレムメーカってなに?(´・ω・`)アニメ編(1)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/33a86bb2d819bc206b38f2a2bbfb73c7

【ハーレムメーカってなに?(´・ω・`)アニメ編(2)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/7ef745bfa4c40427dac927a46174bfe2

ここの「OVA時代の醸成」で取り上げている「プロジェクトA子」と「ガルフォース」の登場ですね。いずれも「Zガンダム」終了直後の1986年制作です。これからしばらくしてくると「萌え」という言葉が登場してきます。これ以前も「美少女萌え」的な文脈は存在していたのですが、ここらへんから「萌え」というものがはじめて、商品/テーマとして扱われるようになって来たと思います。また、もう一つの“路線”「聖闘士星矢」(1986年制作)、「鎧伝サムライトルーパー」(1988年制作)、「天空戦記シュラト」(1989年制作)の三連打があります。「美少年」の路線ですね。これも「キャプテン翼」なんかで、以前からあった文脈なんですが。この三連打ってのは、その後に与えた影響は大きかったと思います。僕はこれらの流れは「価値相対主義」から流れて来たものではないか?と観ていますが、今、その話を長々するのは止めておきます。ま、とにかく僕は「こう、つながるんじゃないか?」と思っているって事ですね。

この頃の「ガンダムシリーズ」という作品を、この時代の“善悪混然一体”=「価値相対主義」の象徴的な作品として観た場合、「最終回の無い物語」になっていたと思うんですよね。物理的に最終回が無いという意味ではなく最終回っぽくない…くらいの意味ですけどね。「1st」はともかくとして「Zガンダム」や「ガンダムZZ」が最終回としては、かなり不格好なものである事は観てもらえれば分かるかと思います。それは宇宙世紀という歴史に拠る性質とも言えるのですが…それを支えるそもそもの史観が「相対志向」であり、それを“闘うロボットもの”が志向した時、結果どうなったか?というと“分かりやすい悪”がいない…あるいは“悪”を生み出す人間の空気のようなものと戦うハメになっていて…「誰を倒せば話が終わるか分からないのに、何故か延々と戦っている物語」になってしまった…という面があると思います。

この為、「ガンダムシリーズ」の終止符を打つ!と銘打たれて「逆襲のシャア」(1988年制作)は制作されましたが、それはその言葉通り、「ガンダムシリーズ」の(カタルシスの有る)“最終回”をやるためのものだったと言るのではないでしょうか。何故なら、そこではアムロvsシャアという非常に分かりやすい対決に立返ると同時に、シャアは“分かりやすい悪”となって再登場しています。そしてシャアが採用した“悪”とは、衛星(アクシズ)落としによる人類粛正計画……正に、人類を悪とする“滅びの物語”なワケです。これらの構成は“善悪を判然とさせない物語”を、もう一度、“悪の物語”として説き直す事でダイナミックなドラマを再び手に入れようとしたように思われます。


…すっかり長くなってしまったので半分に割ります……orz(↓)こちらに続きます。

【絶対悪ってなに?(´・ω・`)悪の終焉編(2)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/95ba00d703b749add8ff08fcfee0a7e9



(その他)

【絶対悪ってなに?(´・ω・`)悪の化身編】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/26fcde56a318ee8ac05975c93cde11b1

【絶対悪ってなに?(´・ω・`)善悪逆転編】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/a58f2370c3f40af6e878fcdc2c97b64a


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