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『キュレーションの時代』~情報を如何に享受するか

2011年05月11日 | 思考の遊び(準備)
キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書)
佐々木 俊尚
筑摩書房


▼録音データ:物語三昧ラジオ~『キュレーションの時代』

先週、USTREAMのラジオでやったのですが、この時の放送のテキストとした『キュレーションの時代』について、ちょっと僕なりの理解を書き留めておこうと思います。基本的にはこの本はビジネスの所説になっているのですが、それを『受け手』というかサービスを享受する側の見方で語ろうと思います。(自分がそうだから)
具体的には本書を読んで僕が印象に残った言葉、『ビオトープ』と『セマンティックボーダー』について語りたいなと。

さて、要するに、この本を“享受側”として読むと、僕らコンシューマー(消費者)の“小さな趣味”、あるいは“趣味”とさえ言えないような“趣き”、“興味”のレベルのものを、ビジネスとして「上手いこと繋げてくれて、大きな楽しい消費に変えてくれたり」、「違った趣味、違った興味同士を繋げて、これまでと違った楽しみを与えてくれたり」するみたいだよ?……とかいう理解でいいんじゃないかと思っています。
これは単に企業がそのインフラを一方的に与えてくれるという意味だけではなくて、コンシューマー(消費者)側のアイデア一つで、様々な“繋がり方”を生み出し、その“繋がり方”だけで新たな価値や楽しみを生み出される状況が既にある。そして、これからも、より繋がりやすい環境は構築されて行くだろうという事かなと。

数年前に(もっと昔かな?)“ユビキタス”~何時でも何処でもネットに繋がる~なんて言葉が出てきて、これを実現して行くのがIT化の当面の最終目標として掲げられ、今もその志向は着々と進んでいるはずですが、この時に想定されたその価値は「何時でも何処でも情報の流通ができたら……便利なはず?」くらいだったと僕は思うんですが(…多分)、実際に情報…いや、情報に載ったその“価値”を流通させてみると、それが様々な形で繋がり交差するだけで、新しい“価値”を生み出す事が分かってきた。

■自分の持つ“ビオトープ”

そこで、この“価値”を得た情報に対する小さな興味(趣味)が存在する場所として“ビオトープ”という言葉がこの本では出てきます。本来『生息空間』と言ったような意味で「情報が求める人が存在している場所」との事ですが、(↓)以下のように語られています。
ところがインターネットの出現によって、この巨大で大ざっぱなピオトープはすっかり拡散してしまいました。マスメディア以外のピオトープが無数に広がってきてしまったからです。敢初はウェブサイトから。そして検索エンジンが普及して、検索キーワードという新たなピオトープが生まれ、そのビオトープに情報を誘導するための「検索連動型広告」が生まれてきました。さらにメールマガジンや掲示板なども湧き上がり、そして二○○○年代半ばごろからはプログやSNS、ツイッター、クチコミサイトなどのぼうだいな数のソーシャルメディアが参入してきました。

(中略)

しかもソーシャルメディアのビオトープは、固定化されない。あるときはツイッターの盛り上がりの中で突如として生成され、でもその盛り上がりが終わるのと同時にそのピオトープは消滅してしまい、次の瞬間にはどこかのプログのエントリーの中に現れ、そのプログを読んでいる人たちやブックマークしている人たちの間にビオトープが生成されているかもしれません。
つねにピオトープはアドホック(そのときどき)に生まれては消え、消えては生まれているのです。流れに浮かぶうたかたのようなものなのです。

(『キュレーションの時代』第一章 無数のビオトープが生まれている~より)

ある興味が群れている“場所”という表現になっているのですが、それをある固定化されたものとして捉えると、かなりイメージがズレる気がします。引用文でも書かれているようにビオトープは場所が必ずしも固定化されないし、また固定化した生息空間なら、これまでと同じような広告投下でも相応の効果が見込めるはずで、多分、固定化されている場所を探すのは、ここでは然程難しい問題とされていない。
まあ、それをある程度、固定化したり、一定の流れの制御を行うために“キュレーション”という言葉が出てきたのでしょうけど…。あくまで生息空間という言葉に沿うなら、ビオトープを探すのは、情報の海の海流に乗って来る魚群を探す作業に近い気もします。あるいは牛の群を追いかけるというかね。漁師、狩人ですねw牧畜したいのでしょうけどねえ……それはもっと先の話なんでしょうw

これに対し、享受側の話をすると、商品Aを売りたがっている商人がいたとして、“僕”はその商品Aを買いたい者だとします。この時、商人は“僕”がよく行く場所を探してもいいんですけどね……。より本質的には“僕”を探すべきなんだと思うんですよ。勿論、他の購入者を期待して場所を探す商人の考えは分かっていて言っていますけどね。場所に期待する考えが古くなっているからこの議論があるんじゃないの?…とも。
…いや、何が言いたいのかというと「ビオトープは、たった一人の空間にも存し得る」という事が言いたいのですよ(汗)もし、商人があくまで場所にこだわるなら、そのたった一人の潜在顧客(潜在ビオトープ)を、より大きなビオトープ~クラスタって事だと思いますが~に、どうやって、誘導するかを考えなくてはならないはずです。

まあ、ここらへんは僕の解釈が強いので、そこは注意して欲しいですが、ともかく、自分の中に様々な“趣味”や“嗜好”になる前の何かが生息している~無数のビオトープを持っている~イメージを持って、それが何かの繋がりやきっかけを得て、クラスタ(あるいはコミュニティ)の一部となったり、別の何かと化合したりして、新たな『愉楽しさ』、『面白さ』を生んで行くかもしれない…。そういうイメージをもって様々に繋がりを得て行くと、それだけで楽しいかもよ?享受側としてはそのくらいの感覚かな?と。

これは以前、海燕さんが出していた『ノーボーダー』の議論に繋がるものだと思っています。

▼Something Orange:「オタク」も「一般人」も死んだあとに。
・文化、オタクという枠組みでは定義しきれない「名前のない集団」が生まれつつあるのかもしれない

 「名前のない集団」、か。じっさいにそんなものが生まれつつあるのかどうか、それは疑問の多いところだが、少なくとも従来の「オタク」という概念では捉えきれない個人が存在するようになってきていることはたしかだと思う。

あの時、僕は、昔から居る“ボーダーレス”(を目指す)人間と、『ノーボーダー』の人間を上手く分ける事ができなかった。…というのは僕がボーダーを設けない話をすると、それはかなり決意的行為というか、多分に自己修身的な話になってしまいw(汗)どうしても一芸の深さ(?)を目指すような話になってしまったんですよね(汗)

しかし、この話を踏まえた上でなら、少し別の仮説を立てられる気がしています。(↑)上の記事は去年のものですが、それよりも以前、情報とそれに付随する価値の流通が膨大になり始めた頃から、情報の繋がりと交差を楽しむような層が既に生まれていたのではないか?という話ですね。先ほど“化合”という言葉を使いましたが「化合を楽しむ」という言い方でもいいかもしれませんね。
これは一つの情報に対する造詣が深いか浅いかは、ほとんど関係ない。繋がりと交差による化合~創出~を楽しむのですから、そもそものベクトルが違う。それを無意識有意識に楽しむ層が出てきていたのではないか?…と。

これは従来の一つのジャンルや作品を嗜好する側からはかなり見えづらいはず。「化合を楽しむ」者にとって、ジャンルや作品はマテリアルに過ぎないので、そもそもの執着がないからです。それは一見軽いボーダーレスに観えて、従来の「好きなものを広げ増やす楽しさ」とは、全くの別物と言えます。(そっちに派生する事はあるでしょうが)
…そういうビオトープがあったとして、これまでの視点では、あまりに広く、薄いビオトープだった為に、ビオトープとして認識されなかった……と、考えるとビオトープという物がどういう物かも観えてくる気がします。

んんん…(困)なんか大仰な話になっていますが(汗)この話そのまま……って事もないでしょうが、ある種の示唆にはなっているじゃないかと思います。まあ、これも今後、練って行きましょう。ぼちぼちと(´・ω・`;)

■“セマンティックボーダー”について

さて、ここからセマンティックボーダーについて語ろうと……思いましたが、ビオトープの話で、えらく予定を超えて時間と文字数が掛かってきたので適当に切り上げます。(`・ω・´)

まあ、セマンティックボーダーとは、その言語やジャンル(?)が持つ“意味の壁”という事で、これは“価値の壁”~固定観念~のように解すると分かりやすいかもしれません。ちょっと乱暴なくくりですけどね。観念を固定する事の有用性が分かれば、それ程差異はないかな?とも。そして本書ではこのセマンティックボーダーが頻繁に書き換わる事を重要視しています。
セマンティックボーダーが書き換わるというのは「価値の創出」の一番分かりやすい成果であり、先ほど述べた「化合」の一番分かりやすい成果でもあります。

何だか良く解らない「名前のない集団」に『ノーボーダー』と名付け、規定する。…これが正にキュレーションなんですが、これによってセマンティックボーダーが書き換わる……というよりこの場合は新たに生まれる…のかな?そして、それによって対象のビオトープが顕在化するなり、新たなビオトープが生まれるなりする。それら価値の創出と化合と変遷を元に情報が巡る。
私たちの世界の膨大な情報のノイズの海から、それぞれの小さなピオトープに適した情報は、無数のキュレーターたちによってフィルタリングされていきます。それらの情報にはコンテキストが付与され、そのコンテキストがキュレーターによって人それぞれであるがゆえに、「何が有用な情報なのか」というセマンティックボーダーはゆらいでいきます。その「ゆらぎ」こそが、セレンディピティの源泉となる。

(『キュレーションの時代』第四章 キュレーションの時代~より)

“セレンディピティ”というのは…「何かを探しているときに、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉」と……ううんw愉しそうだなあwこれらをどうビジネスに活かすか……は、正直、僕は興味ありません(仕事以外)。しかし、「どう愉楽しむか?」には興味があります。単に情報の流通の場としても“ここ”は有用なので、そのまま使ってゆくだろう。それならば、ここで起こる事に楽しく接す事ができるといいですよね。
まあ、具体的(?)に言うと本書の想定に沿って考えるなら「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」を愉楽しむ事になるんじゃないでしょうか?(´・ω・`)(←ドヤ顔)

ちょっと、まとめ的に思うのは、個人個人の“個性”というモノがビオトープのマテリアルとしても、キュレーションとしても非常に有用なんじゃないかという気はしています。…それが大きな力を得るというつもりはないんですけどね。その小さな一つ一つには、様々な価値の創出の可能性が眠っているだろうと。
…いや、僕は個性とか「個性を伸ばす」みたいな話、あまり好きじゃないんですけどね(汗)日本の社会環境から鑑みて、それで抑圧されたり磨り潰されたりする個性なら、元から大した個性じゃないんじゃないの?……って思ってしまう人なので(´・ω・`)
でも、まあ、この情報空間は、一律規律の軍人が必要な空間ではないのでwそこに在る人は、その人それぞれの個性を個性のままに顕せばよく、それが混沌たる無数のビオトープの創出と、セマンティックボーダーとなっている言葉の意味を書き換え、ゆらぎを生み、その流通、循環に貢献するなら、そんな悪くない空間じゃないかなという気もします。


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