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マンガ、アニメ、特撮の感想ブログです。

ハーレムメーカってなに?(´・ω・`)アニメ編(1)

2009年05月02日 | 思考の遊び(準備)
【ハーレムメイカー】

【ハーレムメーカってなに?(´・ω・`) マンガ編】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/b7e10022ba6d90a00817392c37221375
【ハーレムメーカーと恋愛原子核(ゲーム視点編)】
http://www.tsphinx.net/manken/hyen/hyen0294.html
【ハーレムメーカってなに?(´・ω・`) 考察編】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/ba6f91deca8d057ad42642651252343a

え~っと、かなり時間が経ってしまいましたが(汗)そろそろ取りかかりたいと思います(汗)まあ、既に「考察編」で→ルイさんが既に「ゲーム編」を書かれていますが、TVアニメ→OVA→ゲームの流れで、このハーレム構造消費は醸成されて来たかな?と僕は観ているので→と述べていますが、アニメ編はそういった位置づけで、ゲームの醸成に入る、ちょっと前の段階まで持って行きたいなと観ています。ただ、先に言っておくと、ちょっとどうも誤解を受けるようなんですが、これから時系列に沿って上げて行くアニメ作品群のほとんどを、僕は「ハーレムアニメ」と捉えていません。……と言うか、この文章、最後に「天地無用!」を上げて締めるつもりなんですが「天地無用!」をアニメにおけるハーレム構造、ハーレムメーカの出発点と位置づけて、他はあくまでそこに致るまでの道筋の話をしているんですよね。まあ、何か書き始めたら、予想外に色々思い出して“長い話”になっちゃってるんですけど…(汗)

■黎明的な話
まず、アニメ編を検証するにあたって……ちょっと上手くいえないのだけど、アニメの中で複数の女性キャラクターをレギュラーとして扱うように、なって来たのはいつ頃からだろう?と言う事を考えてみました。……まあ、もう少しつっこんだ説明をするとTVアニメの「鉄腕アトム」(1963年制作)のウランちゃん、「エイトマン」(1963年制作)のサチ子さんから、こっちTVアニメの黎明期において、多くの作品で女性キャラクターはたった1人の事がほとんどで、“紅一点制”というかそういう構図で作品は作られて来たワケです。だからTVにかじりつく少年たちは、ゲスト的に登場する女の子は別として、いつもレギュラーとしてその画面にいる“たった一人の女の子”に熱を上げてきたワケです。……今、現在のアニメはともすると女性キャラクターの方が多い事がザラになっていて、昔、ヒロインキャラというと、たった一人の“最大公約数的な可愛い子”という「記号」を持つだけのキャラだったのが、今はむしろ男性キャラの方が平凡で特徴が薄かったりしますね。(※ここらへん、細かく観て行くと作品ごとに作り込んでいるが観てとれるのですが、今は大意において割愛)こういった、ある種の“逆転状況”のシフト・ポイントはどこなんだろ?って話ですね。



まあ、これを単純に複数の女性キャラクターがレギュラー出演している作品で代表的なのは「魔法使いサリー」(1966年制作)あたりじゃね?って事になってくるとも思うんですが……今の話とは、かなり遠い話から始めていますね。…実を言うと、この頃の少女向けの作品は、たとえば「サリー」なら、よっちゃん、すみれちゃん、と言わば両極で可愛い方wはヒロイン「記号」が抜けていないような印象があります。先に注釈したように作品毎に分析すればそれは「読め」るようになりますので、あくまで印象と大まかな「流れ」においてですけどね。

たとえばこの頃に、ある“いじわるキャラ”がいるとして。それはいずれ時代が下って行くとともに「いじわる属性」という考え方に変化して、そのキャラは“属性”を付加された(当然、他の属性もトッピングされる)誰か、というキャラ構造に変化して行くわけですが、この頃はまだ「いじわるキャラ」という「記号」に個別の名前を与えているに過ぎない状態と言えたと観ています。まあ、つまり、すみれちゃんは確かに可愛い!ですけどwしかし、それはサリーと二人並べて両得な人気を獲得しようとか、そういう複雑な意図は無かったと思います。

僕の感覚ではこういった少女向けアニメで明確なキャラクター性を出して来るのは「魔女っ子メグちゃん」(1974年制作)のメグとノンの登場を待つ事になると思います。これも、まあ「魔法のマコちゃん」(1970年制作)のマコちゃんと、富田トミ子はどうなの?どう違うの?って詰め寄られると「……まあ違うと思うよ?」としか言えないんですけど(汗)こういう話って次第に変化して行って「ここから完全に変った!」とは言えないもののポイントを何処に見出すか?って話なんで……ただ、多分、キャラデザが同じ荒木伸吾さんで「キューティー・ハニー」(1973年制作)っぽかった流れもあって“魔女っ子もの”に男ファンが群がりはじめるのは、この「メグちゃん」あたりからだと思います。ハッキリいって「メグちゃん」いろいろエロくてwまたメグとノンのキャラ付けはかなり複雑になっていて、単純に子供向けとは言えないよーな作風がありました(汗)…で、ここらへんから“魔女っ子もの”は連綿と続いて、後に「魔法のプリンセス・ミンキーモモ」(1982年制作)、「魔法の天使クリィーミィーマミ」(1983年制作)、「美少女戦士セーラームーン」(1992年制作)といった強烈に男ファンが群がる作品が作られて行く事になって……今、話そうとしている「ハーレム構造」の醸成の経緯を裏から支えたのは間違いないのですね。……ただし、表街道ではないかな?という気もするので(汗)話が長くなりましたが、このくらいに留めておきます。

…で、当時のキモオタどもが(`・ω・´)こういう少女向きの美少女キャラクターをこっそり楽しんでいるような状態の中で、少年向きアニメで、紅一点的なヒロイン記号を超えた女性キャラクターを出して来たのは、何だろう?と考えてみると…富野喜幸という人間が浮かんで来るんですよね。

■富野作品から観える女性キャラクター
富野監督も「海のトリトン」(1972年制作)の時は、旧来のアニメと同じくトリトン族の人魚ピピがいるだけですね。…まあ、ルカーがいるちゃいるけどw違うからw“女の子”じゃないからw…で「ザンボット3」(1977年制作)を手掛けるわけですけど、ここでメイン・ヒロインの神北恵子に優るドラマ性を持ったヒロイン・アキを出して来ますね。でも、ご存じの方はご存じと思いますが、まあアキの方は必ずしも美少女とは言い切れない…びみょ~なデザインをしていると思いますwこれは、まだ紅一点制、「ヒロイン記号」の力学が強い時代で、恵子以外に“可愛い”記号を受ける女性キャラクターがいる事を許さない力場が働いているからなんでしょうね。…これが「ダイターン3」(1978年制作)になるとビューティとレイカというダブル・ヒロインを持ち込むようになる。またヒーロー側とは別個に湖川友謙さんがデザインして特徴が良く出ている敵キャラ・コロスなんかも印象に残ります。

まあ、ロボットものでいうと、たとえば長浜忠夫監督なんかは敵側にもヒロイン(のような位置のキャラ)を置いたりしてはいるんですが、やはり極少ではあって………多分、名作劇場の演出なんかも手伝っていた富野監督としては、少年向けアニメは、ヒロインは一人か多くても二人じゃなきゃダメ的な風潮や、「ヒロイン記号」に堕してそれ以上の描き分けの低いキャラクターにガマンならなかったんじゃないかと思うんですよね。ドラマを描くなら、男と女の比率は半々で然るべきじゃないのか?と言うかね。(どっかのインビューでそんな事言ってないだろうか?)…で、それらの鬱積した想いが爆発したのが“この作品”じゃないのかなって思うんですよね……。長々と話して来ましたが、前項から探っている、ある種の“逆転状況”のシフト・ポイントって、実は「機動戦士ガンダム」(1979年制作)が起点じゃないの?って観ているワケですw



「ハーレム構造」の萌芽ポイントが「ガンダム」っていうのはちょっと反発がありそうな気がしないでもないんですが(汗)上述したように「作り手」自身はあくまでキャラクターの男女比率を半々に近づけるって志向だったと観ています。…ただ、従来の従来のロボット/少年向けアニメでは女性キャラクターが元々少なかったため、その施策は必然的に、従来と比して格段に女性キャラクター数が増える、という現象に落ち着きます。(まあ、実際は全体のキャラクター数自体が膨大になっているんですが)また、それぞれの女性キャラが魅力的に描かれていたために、それぞれのキャラに人気が付くという現象も引き起こしている作品だとは言えると思います。

主人公のアムロの女性キャラへの関わり方の多さも、従来の作品群からは一線を画すものがあります。また、これも特徴的なんですが、アムロはその関わった女性の誰とも上手く言っていないんですよね。セイラさん含め、僕はものの見事に全員に(積極的にせよ、消極的にせよ)ふられたと思っている。これって「マンガ編」での、マンガにおけるハーレム構造の基点(ゼロ・ポイント)的なものとして「男おいどん」(作・松本零士 1971年 -1973年)を僕は上げているんですが、それに近いものを感じさせます。「寅さん」的とも言えるのかもしれないですけど……アムロも大山昇太も、女の人といい雰囲気にはなるんですけど、そこから最後までは、どうにも行けないというw時代なんですかねえ?…モテる状況があったとしても「そんなに上手い話はないよ!」って最後は引き戻されるような力場を感じます。(ここは考察の対象として面白そうですね)

ただ、それ故に、僕が話したい「ハーレム構造」の基点は感じるんですよね。たとえば既に「ハーレムアニメ」と位置づけている「天地無用!」の分析をする時、天地ってキャラは「モテる男がモテるままに複数の女性にモテてる」って話ではなくって、基本ベースは「モテない男が何故かモテている」だろうと思うんですよね。設定的にモテる理由が付加されて行くとしても、基本(出発点)はまず、そこだろうと観ています。アムロやおいどんのように最後にはふられてしまう男キャラが、次第に変化して“ここ”まで来ている…と。そういう感じの「読み方」の話をしているんですよね。

ただ、富野監督の感覚自体は、あくまで「ドラマとして男も女も平等に出すしキャラクターも練り込む」という意図以上のものはなかった……と思います。…まあ、この人その後、半分韜晦した事ばっか言うんですけどwその後の「イデオン」、「ザブングル」、「ダンバイン」などの作品を観る限り、たとえば「ザブングル」ではギャブレット・ギャブレーとか、グレタ・カラスとか“魅力的なおばちゃん”を出しているし、「ダンバイン」にしてもシーラのような美少女を出す一方で、ガラリアとかジェリルなんかは美女というより“女傑感”の方が強いキャラですね。少なくとも「美少女を沢山出してウケよう!」なんて感覚でなかった事は間違いないと思います。この富野監督の感覚自体は、その後もさほど変化していないと思うんですが、サンライズのロボットアニメとして、次の変化が起こり始めるのが、この作品かなと…。



「重戦機エルガイム」(1984制作)ですね。既にアニメの「うる星やつら」(1981年制作)がスタートしており(かつ一番脂が乗っていた時期で)“おたく”と言う言葉は既に生まれ、マンガ、アニメ、共にラブコメブームのただ中にある時期の作品で「エルガイム」もその影響をかなり感じさせます。ダブル・ヒロインという意味では「ザブングル」と同じ形式なんですが、ファンネリア・アムとガウ・ハ・レッシィの、主人公のダバへの迫り方は、「ダンバイン」以前のヒロインたちとは一線を画しており、後の「天地無用!」的とさえ言える気がします。というか、まあ、ここらへんのスラップスティックな芝居は「うる星やつら」が醸成していったんですけどね。

これが「機動戦士Zガンダム」(1985年制作)にはいると、主人公・カミーユ・ビダンの息するようなモテぶりに「もう、これがハーレムアニメの走りでいいんじゃね?」という気分になるんですが、そこはぐっとこらえるとしてw「エルガイム」から、こっち、かなり富野監督が後進を意識した作品になっているようなのですが、それらの総論的な話は置いておくとして、今の文脈から女性キャラクターの扱いの変化にのみ言及すると“美女美少女”がいるというのは、カミーユの回りに留まるものではなく、アムロにはベルトーチカ、ジェリドにはマウアー、クワトロにはハマーン(?)という具合に「必ず華を添える」という感覚が強くなり、「エルガイム」の頃はかろうじていた“魅力的なおばちゃん”キャラはなりをひそめ、“美女美少女”がひしめき合う作品となっていますね。


文字数制限にかかってしまったので、ここで一旦切ります(汗)(↓)(2)に続きます。

http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/7ef745bfa4c40427dac927a46174bfe2

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