気ままに 外歩き 町歩き 街道歩き

気ままに出かけて 写真に残る植物や風景etcを 備忘録として足跡に残しています。

青森県東津軽郡外ヶ浜町のマンホール蓋

2018-11-30 22:38:31 | マンホール蓋

外ヶ浜町は、2005年(平成17年)3月28日に東津軽郡の蟹田町、平舘村、三厩村の三町村が新設合併して生まれた町です。

外ヶ浜町は、青森県の北部、津軽半島の北東部に位置します。東は陸奥湾に面し、西は中山山脈を隔て五所川原市、北津軽郡中泊町、南は蓬田村、北は今別町に隣接しています。また、今別町をまたいで本半島最北端の三厩地区があり、津軽海峡を隔て北海道と相対します。
東西約27km、南北約25km、総面積229.92平方キロメータ、人口は平成 25年(2013年)5 月末時点で7千人強、世帯数は3千世帯強となっています。

津軽国定公園龍飛崎をはじめ、風光明媚な景観の観光資源や固有の伝統文化行事等を受け継ぎ、海と山と川の恵みとともに生きる町です。
地勢は、津軽半島中央部を南北に連なる中山山脈から、東側の海岸線に向けて流れる河川に沿って平地部が形成され、集落と耕地のほとんどは海岸線及び河川の流域に沿って位置しています。総面積の約89%が山林で、その多くは国有林で、農用地及び宅地の割合はわずかです。

町章は、外ヶ浜町の頭文字である「そ」をモチーフに、上が緑豊かな半島、下が青い海、中央の三本線は旧三町村(蟹田町、平舘村、三厩村)の力強い風をイメージしたものです。(平成17年3月28日制定)

町の花は「アジサイ」、町の木は「マツ」、町の鳥は「カモメ」です。(以上は、外ヶ浜町HPより)

私は外ヶ浜町と言えば、松前街道を歩いた時の記憶に残る風景、平舘灯台と日の出、高野崎、龍飛岬等です。
平舘灯台と日の出
(高野崎)
(龍飛埼灯台)
(龍飛崎)

町の概要はここまでにしてマンホール蓋に移ります。
始めは、合併前の三市町村から整理します。

最初は、旧東津軽郡蟹田町のデザインマンホール蓋からです。
蟹の輪郭をイメージ?する形で六等分した駒の中に、町の木「クロマツ」、町の花「タンポポ」、町の鳥「カモメ」を対に配列しています。 中央には、町名の蟹田の文字がローマ字で「KANITA(Aの横棒がありません)」と表示され、その横にピーナツ型の模様(何でしょうか?)が書かれています。
開閉部の違いで二種類見つけました。
 
次はハンドホール蓋です。
こちらも開閉部の違いで三種類見つけました。
  
こちらはプラスティック製の蓋です。
中央に蟹田町の町章があります。

上水道関係の仕切弁の蓋も見つけましたが、町をイメージできるデザインやマークが無い蓋でしたので、ここでは省略致します。

次は、東津軽郡平舘村のデザインマンホール蓋です。
中央に大きく旧平舘灯台(やぐら形)、左側に村の花「ハマナス」、右側に村の木「クロマツ」、空には村の鳥「ウミネコ」が二羽、遠景に下北半島が描かれています。左上方のハマナスとウミネコの間に村名の平舘の文字が「TAIRADATE」表示されています。

現在の灯台は
塔型(前出写真)なので、形態の違いが良く分かります。
平成17年4月1日から特定環境保全公共下水道として供用開始されたようです。
こちらは90cmサイズの親子蓋です。
 

こちらは120cm径サイズの蓋です。
 

次はハンドホール蓋です。

こちらは、中央に村章が入る毘沙門亀甲模様の蓋です。

こちらはプラスティック製の蓋です。

蟹田町同様、上水道関係の蓋も見つけましたが、町をイメージできるデザインやマークが無い蓋でしたので、ここでは省略致します。

次は、東津軽郡三厩村のデザインマンホール蓋です。
下部に村の花「アジサイ」、空には村の鳥「カモメ」、中央には「竜飛ウインドパーク」の風力発電所の風車と遠景に北海道がデザインされています。中央上部には村章が描かれています。
 (海側から見た風車)
平成18年4月1日から、特定環境保全公共下水道として供用開始されたようです。

こちらは90cmサイズの親子蓋です。
 

次はハンドホール蓋です。

上水道関係の蓋は、村章の入った仕切弁を見つけました。

最後は、国道229号(階段国道)にあった雨水側溝の蓋です。

(階段国道)

それでは、最後に外ヶ浜町のマンホール蓋を整理します。
最初は、デザインマンホール蓋です。
こちらの蓋は、旧蟹田町のデザインマンホール蓋と同様ですが、中央は外ヶ浜町の町章が入っています。
開閉部の違いで二種類見つけました。
 

こちらは90cmサイズの親子蓋です。

こちらの蓋は、旧三厩村のデザインマンホール蓋と同様ですが、中央は外ヶ浜町の町章が入っています。

次はハンドホール蓋です。
中央に町章、周りを三等分し町の花「アジサイ」がデザインされています。

次は、中央に町章が入った規格模様の蓋です。
  

こちらはプラスティック製の蓋です。

最後に青森市の市章が入った蓋です。
こちらは、蟹田地区で見付けたコンクリート製のマンホール蓋です。

こちらは、平舘地区で見付けたJIS規格模様のマンホール蓋です。

外ヶ浜町の消防業務に関しては、青森市、平内町、外ヶ浜町、今別町、蓬田村の5市町村で構成する「青森地域広域事務組合」で運用されているようです。
そのような状況から、この二つの蓋は下水道の蓋ではなく、防火貯水槽の蓋なのかも知れません。

以上で外ヶ浜町のマンホール蓋の整理は終了です。








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青森県青森市を代表する二つのカラーマンホール蓋

2018-11-24 23:11:35 | ぶらり散策

4月下旬に旧奥州街道歩きに出かけ、三戸宿(青森県三戸町)から青森湊宿(青森市)まで無事完歩しました。

この街道歩きで、青森市内で見つけたご当地マンホール蓋と市内にある八重田浄化センターに展示されていたカラーマンホール蓋を紹介します。

こちらは、青森駅周辺で見つけたマンホール蓋です。8月に開催される青森市の「ねぶた祭り」の跳人と極彩色に彩られた巨大灯籠「ねぶた」がデザインされています。

こちらは、ノンカラー版です。

こちらは、八重田浄化センターに展示されている蓋です。
    

こちらは、極彩色に彩られた武者絵の顔の部分が大きくデザインされています。

こちらは、八重田浄化センターに展示されている蓋です。
    

こちらのマンホール蓋も、祭り良し、マンホール蓋のデザイン良しですね。


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旧奥州街道歩きを終えて 観光1日目 龍飛崎観光から五能線・深浦駅へ

2018-11-24 23:10:39 | 街道歩き

宇都宮宿で日光街道と別れ717.6km、日本橋から819.9km、延べ7年間にわたる旧奥州街道歩きは、昨日の三厩宿到着で予定通り無事完歩しました。
本来であれば、朝風呂に入り、のんびり朝食を採り、龍飛崎観光をゆっくり楽しめば良いのですが、相変わらず6時前に起床し旅支度を始めます。

今日の予定は、11時過ぎまで龍飛崎観光をし、11時30発のバスで三厩駅に出て、三厩駅から津軽線に乗り津軽二股駅で下車、奥津軽いまべつ駅から北海道新幹線に乗り新青森駅に向かい、五能線に乗り換え深浦駅まで移動する予定です。

観光ポイントは、龍飛崎観光と五能線で楽しむ景色といった所です。もっと色々な場所を観光したいのですが、上記の行動で深浦駅到着時間は16時37分、チェックインし夕食前に汗を流す事を考えるとギリギリの時間となってしまいます。

街道歩き同様に観光も基本歩きです。
そこで、時間を有効に使おうと朝食前に龍飛崎観光をする事にしました。

ところが、これまでの天候と変わって、外は小雨模様でおまけに風の岬「龍飛」の強風がお待ちかねのようです。
そこで、ポンチョを被り、ホテルの傘をお借りし、7時過ぎにホテルを
出たのですが、直ぐに傘が役に立たない事を思い知りました。

ホテルを出て龍飛埼灯台に向け歩き始めました。まもなく右手に「津軽海峡冬景色歌謡碑」が見つかります。中央の赤いボタンを押すと「ごらんあれが竜飛岬 北のはずれと・・・」と石川さゆりの歌が流れます。

少し進むと「階段国道339号線」の下り口があります。観光パンフによれば、当時の関係者が現地を見ず指定してしまったとあり、上り口から362段あるそうです。

龍飛埼灯台は高台にあるので、風が吹くなか坂道を登って行きます。

灯台の先には、海上自衛隊のレーダー監視台が置かれているようです。

こちらは、龍飛埼の先端となる風景です。

こちらにも国土地理院の基本水準点があります。

灯台と反対側に移動するとレストハウス付近に「吉田松陰詩碑」があります。街道歩きでも吉田松陰にまつわる史跡がありましたが、幕末の津軽海峡は外国船の往来が多く、それを憂えた吉田松陰は、深い雪をかき分けて三厩まで赴いたようです。

他にも、大町桂月文学碑や詩碑、句碑なども建てられています。

また、トンネル工事で、じん肺になった労働者の苦しみを後世に伝え、被害の根絶を目指そうと建立された「トンネルじん肺根絶の碑」もあります。

その先に「龍見橋(たつみばし)」があり、渡ると龍飛裏海岸方向がきれいに見えます。
 

強風の中、1時間ほど龍飛埼を観光し、
8時過ぎにホテルに戻り朝食を頂きました。朝食後は、ホテルに荷物を預け「青函トンネル記念館」に足を延ばし観光します。

 

こちらは、青函トンネル構想から完成までを音と映像、それに資料パネル、立体モデルなどでわかりやすく展示公開しており、ケーブルカーで海面下140mまで下がると当時掘削に使われていた機械や器具が展示され見学する事が出来ます。

私達は、9時50分発のケーブルに乗り、坑道体験をして10時34分着のケーブルで戻りました。
     
見学を終えホテルに戻りますが、まだ時間が有るので少し階段国道を下りて見る事にしました。急傾斜の階段なので、降りるのは簡単ですが戻るのは大変です。バスの時間の関係で、途中で戻る事になりました。
こちらは帯島の風景です。義経が北海道に旅立つ際、帯を締め直したと言い伝えられる事から名付けられたそうです。

急な階段が続きます。

こちらは竜飛漁港方向の風景です。

この後、予定時刻のバスに乗車し三厩駅に向かいます。
車窓から見た「太宰治文学碑」です。残念ながら座席の都合で「龍飛館」は見逃してしまいました。この
龍飛館、今は観光案内所として生まれ変わりましたが旧奥谷旅館で、太宰治や棟方志功ゆかりの宿として知られています。太宰が友人N君と過ごした部屋は、当時の様子が再現されているそうです。
三厩駅には30分程で到着します。津軽線の発車時刻は12時43分、40分待ちなので駅付近を散策してみますが駅付近には店もなく、特別な見所もありませんが、一角にきれいな白樺林を見る事が出来ました。
 

これからは、電車の旅(乗り鉄)となります。
最初は津軽線です。

津軽二俣駅で乗換え、北海道新幹線に乗り換えます。新幹線の駅は前方の高架橋を渡りますが、待ち時間が40分弱あるので少し遅い昼食を採る事にしました。

津軽二俣尾駅に併設される「半島ぷらざアスクル」(道の駅いまべつ)で、のぼり旗で宣伝されているステーキ定食を美味しく頂きました。

新幹線は定刻を少し遅れて到着、新青森駅で五能線直通電車への乗り換え時間が8分しかないので不安になります。

新青森駅では、在来線ホームに急ぎ全席指定「リゾートしらかみ「橅」」に無事乗車しました。

紅葉の時期なので満席に近い乗車率かと思っていましたが、かなり余裕のある状況です。

日本海側は進行方向右側のはず、指定席は右側だったので指定席を購入した駅の駅員さんに感謝です。ところが、弘前駅で進行方向が逆転したので座席を進行方向に変えます。左手に岩木山がきれいに見えるのでラッキー、でも日本海の景色が良く見えないな~とガッカリしていると、川部駅で再度進行方向が逆転し新青森駅発車時の方向になりました。

車窓から移り行く景色を眺め、電車旅を楽しんでいると千畳敷駅で15分停車のアナンスがあります。何でこんなところで停車するのかなーと思っていると、石畳のような岩の海岸が広大に続く千畳敷海岸の絶景を観光してもらうための趣向のようです。
それではと海岸線に向かうと絶景がまっていました。この辺りは、「日本の夕陽百選」に選ばれています
  
その後も、移り行く海岸線の美しさを楽しみながら電車旅は進みます。
    
深浦駅に16時37分到着、ここで上下線の待ち合わせをするようです。待ち合わせしていた電車は、リゾートしらかみ「くまげら」です。新青森駅から2時間40分強、私達の乗り鉄はここで終了です。

今日の宿泊は「深浦観光ホテル」、駅で待っている送迎車に乗車してホテルに向かいました。
残念ながら、この日は夕陽を見る事は出来ませんでした


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旧奥州街道歩き 平館宿~三厩宿 2018年秋・3日目(最終日)

2018-11-19 11:00:38 | 街道歩き

今日は街道歩き3日目、そして今回の街道歩きの最終日、さらに長かった旧奥州街道歩きの最終日となります。

今日も天候は味方してくれて好天、街道歩き最終日を祝ってくれているようです。
街道歩きの朝は早いです。江戸時代は、お江戸日本橋七つ(午前4時頃)立ち・・・とあるように、夜明け前に出発しているようです。そこまで早くありませんが5時30分頃に起床し準備を整え、6時30分頃に朝食を採り、7時頃出発するのが普通です。

準備を整え、宿の窓から海を眺めていると、空が白んできたのでご来光を拝もうと海辺に出かけました。下北半島から太陽が昇ります、旅の安全祈願など思いを込め合掌しました。  

今日の街道歩きは、スタートが平館宿、そして打ち止めはゴールとなる三厩宿です。
予定距離は26.8km、津軽線と再会できる今別宿までは21.8kmなので、ここまでは何としても頑張って歩くしかありません。                                   朝食を採り、予定通り7時過ぎに「ペンションだいば」を出発しました。松林と海岸に挟まれる旧280号線を進みます。昨日に比べ、風があり少し白波がたっているようです。  

しばらく進むと280号線と合流、その後今別宿に入る手前までほぼ280号線を歩くことになります。歩道と車道の区分けが無い場所もありますが、車の通行量が少ないので、のんびり海岸線を見ながら街道歩きを楽しむ事が出来ます。                                 そんな時、左前方に得体のしれない巨大なコンクリートむき出しの建造物が目に入りました。近くに来ても、案内板など正体が判るものは何もありません。

後日、調べて見ると通称「津軽の塔」、「津軽コンクリートタワー」と呼ばれる建物で、日本一巨大なコンクリート無線中継所跡(高さ89m、幅21m)です。1978年北海道と本州を結ぶ通信拠点として完成、同区間の光ファイバー化により2001年に運用停止となったそうです。現在、アンテナ部分は撤去され、塔部分のみが残されています。

朝の風が止んできたようです。現在地は平館弥蔵釜地区、遠景に北海道が見えるようになりました。 

平舘元宇田地区に入り、「三十番神」と書かれた白い鳥居が左手にみえます。これまでも、多くの神社がありましたが、海岸線に近い神社は高潮や津波などを避けるため、高台に社が作られているので参拝は見送り気味になってしまいます。

2~3分歩くと左手に日蓮宗の宇田山聞法寺(もんぽうじ)さんが在ります。安永8年(1779年)聞法院日照により創建されたお寺のようです。                           現在、本堂改築中だったので山門付近から参拝しました。右手の像は、平成15年(2003年)に建立された蓮華阿闍梨日持と船頭の蠣崎甚兵衛の銅像です。

日蓮の弟子となる日上人は、蝦夷(北海道)を目指し平舘村石崎に到着蝦夷(北海道)に船で渡る為にその海上安全願い、元宇田の守護神を祀る三十三番神堂に登り祈願をし、その頂上に記念の松を植え、石崎浜の蠣崎甚兵衛なる者を船案内の船頭とし、永仁4年(1296年)春穏やかな日、船出をし北海道に無事渡り着く事が出来ました。                              その時地元の漁夫に親切にして頂いた御礼に、海上安全大漁大祈願の為、海上に向かって法華経読誦し、しばらくしたら今迄見たこともない魚が大漁に浜辺に寄って来たので、地元の漁夫達が大いに喜んで、法華の偉い坊さんが授けてくれた魚だからと言って「ホッケ」と命名したと言う逸話があるようです。(ブログ「くぐる鳥居は鬼ばかり」引用) 

この辺りから、海岸線は砂浜から岩場に変わってきます。 

聞法寺さんから30分程進むと外ヶ浜町から今別町奥平部地区に入ります。 

しばらく進むと右側に岩谷観音堂の標識が見えたので参拝に向かいました。階段を下り、赤い鳥居をくぐって進むと、大きな岩の中に埋もれるように小さな社が窺えます。こちらは、津軽三十三観音の二十一番札所となっているようです。

 

その先に鬼泊トンネルがありトンネル内の歩道を進みます。もちろん、江戸時代の街道にはトンネルが無かったので、海岸際を歩いたか?迂回しトンネルの上の山道を歩いたのか? 

トンネルを抜けると左手に「だるま滝」と書かれた案内板が見えます。岩の形がダルマのように見える所から名付けられたようです。撮り方に難がある気がしますが、ダルマの形に見えるでしょうか? 

奥平部漁港の近くで稲荷神社を見つけましたが、こちらも何段もの階段を上らなければ参拝できないので通過です。

この間、平坦な道が続き歩き易かったのですが、この先は急こう配の坂道となっています。ちょっとした峠道の感じ、登って行くと道路工事中で、海岸側に迫った道を途中から切通しで内陸側に安全な道を新たに造っているようでした。

工事中の箇所からさらに上って行くと、これまで通過してきた地区やその奥には下北半島の素晴らしい景色を見る事が出来ます。ここは岬のようで、地図で確認すると弁天崎のようです。

下りに入り、途中で赤い実の付いたツル系の植物を見つけました。サルトリイバラの実でしょうか? 

下りきると赤根沢地区となります。街道沿いの左手に県の天然記念物に指定されている巨大な「赤石」の岩塊が置かれています。しかし、国道脇に岩塊が一つあるのはおかしいと思い、説明版を読んでみると少し奥に入った一帯約30aが指定場所のようです。

 

この場所は、古くから天然の酸化第二鉄(ベンガラ)の産地として有名で、藩政時代には顔料として採掘し役人を置いて管理させていたそうです。領内の神社仏閣の赤い塗料は、皆ここから供給されたもののようです。また、日光廟の赤塗りの原料は赤根沢産のものだ言われているそうです。

ここから20分程進むと、奇岩・怪岩がいたるところに突き出る、迫力ある景勝地「高野崎」に到着します。広場はキャンプ場、先端には高野崎灯台、灯台から岩場を結ぶ朱色の「潮騒橋」と「渚橋」は遠くからでも目に入って来ます。

  

時刻は11時過ぎ、食事処「高野崎」のラーメンと言う文字が目に入ります。昼食には少し早い時間ですが、昨日の教訓もありここで昼食を採る事にしました。注文したのは「煮干しラーメン」と「ほたてラーメン」、とても美味しかったです。                                      店のご主人に、街道歩きをしている事、青森県内では街道歩きの人と出会った事が無い事など話すと、時々街道歩きの人が店に立ち寄るとの事、そんな旅人に是非出会いたい!! 

実は、ここで昼食を採ったのが大正解だったのです。この後、三厩宿に入るまで食事を採る事が出来る店を見付ける事が出来ませんでした。

袰月海岸を右手に眺めながら進むと袰村元地区に入ります。こちらの地区には郵便局もあり、人家も多く、元網本だったという立派な家も見られます。郵便局の少し先、稲荷神社入口付近には「史跡 伊能忠敬止宿」と書かれた支柱が立てられています。

  

少し進むと、高木恭造の生誕 110年を記念する詩碑が建てられています。                         その先には、津軽三十三観音の二十一番札所で本尊に釈迦如来を祀る「袰月海雲洞釈迦堂」があります。このお堂の前の細い道が旧松前街道のようです。 

  

袰月漁港を右巻きに登って行くと鋳釜崎(いがまざき)に出ます。眺望が良く、休憩用の東屋や吉田松陰「東北遊日記」の碑も建てられています。

   

しばらく進むと大泊地区に入ります。途中、国道280号線と別れ海岸線方向に下って行くと大泊集落に入って行きます。集落を通過し、再び坂道を登ると三厩湾が一望できます。              そこからは、三厩湾を右手に見ながら進むと山崎地区に入ります中宇田川を渡り、緩い坂道を登って行くとY字路となり、左は280号線、右が旧道となります。

街道は右、道を下り、海岸線に沿った道を進むと今別海岸に到着します。

ここからは、左手に竜飛岬、右手に北海道が望めます。

その先の今別川にかかる今別橋を渡ると今別宿に入ります

時刻は13時30分過ぎ、三厩宿まで残り5km程、15時過ぎには到着出来そうです。         歩を進めると、左手に案内板が立てられている民家を見つけたので近づいて見ると、そこは太宰治の小説「津軽」に登場する「Mさん宅跡」のようです。                       太宰治が津軽を訪ねた昭和19年のようなので、当時津軽線は開業していなかったのでバスを利用したようです。 

少し進むと左手に始覚山本覚寺さんが見えます。                        案内板によると「明暦3年(1657年)、安長上人によって開かれた浄土宗の寺で、阿弥陀如来を本尊としています。当寺の第五世住職貞伝上人は、名僧の誉れ高く、地域の産業振興にも尽くした人物。漁師の生活を安じた貞伝上人が、境内の多門天堂に祈願し、経を書いた石を念仏読経とともに、海に投げいれ昆布を根付けさせたといわれ、当地方では、今別昆布は貞伝上人の賜わり物とされており、また、ただ取るだけでなく育てる漁業の先駆者ともいわれております。」 

境内には、今別大仏や青森県重要有形文化財に指定されている全国的にも珍しい青銅塔婆も建立されています。また、太宰治がこちらに立寄った時のエピソードが小説「津軽」書かれています。

こちらにも、大正11年に奉納されたペコちゃん風の狛犬が奉納されていました。  

狛犬は、向かって右が阿像、左が吽像が一般的な配置と思っていましたが、こちらは阿吽像が逆転して配置されています何か理由があるのだろうか? 

街道筋には、きれいな花や草木の実が見られます。                       ノブドウの実。

 

こちらはコトネアスターでしょうか。 

また、アジサイもキレイです

こちらはチコリでしょうか。

先に進むと真宗大谷派の高徳山正行寺さんが左手に見えます。天保3年(1683年)に釈浄閑律師によって開基した寺です。                                     境内には、推定樹齢300年以上と言われる「飛翔の松」(龍が南天に飛翔しているように見えることから)があります。 

しばらく進むと左手に「津軽浜名駅」が見えます。この辺りから津軽線と並行しての街道歩きとなります。また、海岸線にも近く、これまで歩いて来た大泊地区も遠く望めます。 

さらに15分程歩くと今別町浜名から外ヶ浜町三厩の町境となります。外ヶ浜町は、平成17年に蟹田町、平舘村、三厩村が合併して誕生した町ですが、三厩地区は今別町を挟んで蟹田地区・平館地区と飛び地となっています

町境から300m程進むと280号線との合流点となります。風力発電の翼を利用した大きな道路標識はとても見やすく三厩宿に入って行くことを意識させてくれます。

増川川にかかる「あすなろ大橋」の手前を左に入るのが旧道のようです。三厩漁港を右手に見て旧道を進みます。

外ヶ浜町役場支所を過ぎ、左側の高台を見るとお寺が見えます。義経寺です。旧奥州街道の終着としているお寺です。残りは600m程です。 

山門に到着しましたが、最後の試練が待っています。この石段は何段続くのか? 

休み休み石段を登ります。三厩漁港から歩いて来た今別町が一望できます。

やっと仁王門に到着、時刻は15時45分過ぎでした。

義経伝説が残る龍馬山義経寺、津軽三十三観音第19番札所です。                 兄源頼朝に追われた義経は、岩手県平泉高館を後に蝦夷地に逃れようと、この地に辿り着きました。津軽海峡は風が吹き、浪が荒れ狂い渡る事が出来ません。そこで、海辺の大岩の上で所持していた観音像に渡海の祈願をしたところ、白髪の老人が現れ『三頭の龍馬』を授け、無事蝦夷の地に渡る事が出来たと言い伝えられています。

その後、寛文7年(1667年)この地を訪れた僧円空がこの観音像を発見し、自身で彫った観音像の胎内仏とし、観音像を安置するための草庵を結んだのが義経寺の始まりと言われているようです。

仁王門をくぐり、正面の観音堂に、旧奥州街道を無事に完歩できた旨とその感謝を込め参拝しました。その後、境内を散策し長かった街道歩に想いを巡らせました。 

左手に見える本堂です。右手に見えるのは弁財天堂です。                    こちらは明治35年に奉納された狛犬です。

                  本堂です。

こちらは、義経海浜公園方向の景色です。 

義経寺を下り、厩石の見学と松前街道終点の碑を見学します。                         義経伝説の続きとなりますが、義経が翌朝大岩を降りると岩穴には三頭の龍馬が繋がれ、海上は鏡のように静まっていて義経は無事に蝦夷が島に渡ることができたのです。
この三頭の龍馬が繋がれた岩が厩石です。そのような事から、この地を三馬屋(三厩村)と呼ぶようになったそうです。 

村名発祥の地碑。

こちらは、源義経龍神塔と静御前龍神塔です。

松前街道終点之碑。

今日の宿泊は、竜飛岬にある「ホテル龍飛」です。義経寺下のバス停から17時36分発のバスに乗車し30分弱、ホテル前で下車します。

まだ、バスの発車時刻まで1時間30分程あるので、義経寺から見えた海浜公園まで行って見ました。公園からは、甲岩(かぶといわ)が目の前に見えます。義経が安全祈願のために、大切な甲(かぶと)を沈めて海の神にささげたとされる大きな岩です。 

公園を散策しても時間が有るので、バス停近くで時間待ちできる店を探しますが見当たりません。そこで、三厩宿の街道筋をのんびり歩きバスの始発となる三厩駅まで歩く事にしました。

駅は、宿の中心から外れているようで、駅周辺は時間待ちできる場所が無いので、駅舎でバス発車時刻まで待つことになりました。

本日の予定歩行距離26.8km程、歩数計は前日宿泊した「ペンションだいば」を出てから「ホテル龍飛」到着まで45,000歩を示していました。

明日は完歩祝いで、龍飛観光した後、三厩駅から津軽二股駅に行き、奥津軽いまべつ駅で新幹線に乗り換え、新青森駅から五能線を楽しみ深浦駅で下車し夕日を見る予定です。



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私の住む狭山市はお茶と七夕です

2018-11-12 22:22:28 | ぶらり散策

私が住む埼玉県狭山市の名産は「狭山茶」、夏のお祭りと言えば「七夕」です。

これらの名産やお祭りがマンホール蓋にデザインされています。

こちらは昨年、背景色がお茶の緑色に模様替えしたカラーマンホール蓋で、デザインは市の花・鳥・木です。

ちなみに、以前のカラーマンホール蓋はこちらです。

市内在住の童絵作家、池原昭治さんが描いた茶摘み風景をデザインしたAR(拡張現実)マーカー付きのカラーマンホール蓋もあります。

こちらは、七夕を題材としたカラーマンホール蓋です。

狭山市のイメージキャラクター「七夕の妖精おりぴぃ」がデザインされている、AR(拡張現実)マーカー付きのカラーマンホール蓋もあります。

 

8月の第一週の土・日に開催される「入間川七夕まつり」、11月に開催される「さやま大茶会」にお出かけ下さい。

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