くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

いじめ問題: そもそも、学校に・・・

2012年07月11日 | Weblog
多くを求めすぎなんじゃないのだろうか、日本人はというか日本の社会は?

いじめ問題は、一線を越えたら、公権力に預けてしまえば良いのでは? たとえば、恐喝なんてのは、疑いが生じた時点で、公権力にお預けで良いのでは? 学校が証拠の有無だとかそんなことをあれこれ詮索する必要はなしのでは? 

ちょっと古くなりますが、アメリカの子供向けアニメに「リセス」っていうのがあります。もう10年くらい前に放映していたものです。日本では今でもケーブルなんかでやっていると思います。

まあ、極端な描き方もしていますし、現実ではあり得ない漫画チックなやり取りも多々ありますけど、全体的に日本の学園ものとは違った雰囲気を見て取ることができますし、アメリカの学校現場の様子というものを反映もしています。

フィンスター先生や校長先生、あんな極端ではないですが、似たような先生、アメリカの学校にいなくもないです。いえ、います。フィンスター先生の私生活なんて、アメリカ人教師の「レベル」ってのをよくあらわしています。

彼女の規則、規則っていう態度、実は、アメリカの学校ってのは、校則違反には厳しいです。体罰のない分がそれで補われているように見受けられます。日本人からみたら、そこまでするか、ってこともありますから。アメリカの学校は自由で、というのは一面にしか過ぎません。くだらない校則や杓子定規な罰則適応ってのも当たり前の現象です。

それに、学校を社会と隔絶した場とは捉えていないので、公権力との距離は日本とは比べ物いならないくらい近いんです。学校も公権力に問題を委ねることに日本のような躊躇を見せません。というか、日本の場合、公権力に対して「アンチ」な思想や感情を持っている教員が多いのでは?昔、キム八っていう教師は、「官憲横暴!」なんて喚いていましたよね。子供ながらに「古めかしい言葉だなあ」なんて思っていましたけど、今でも背景としてのイデオロギー的残滓が、日本の教育現場には存在するのではないでしょうか。

家庭に対しても日本のように弱くはないです。もちろん、例外もあって学校の対応について「差別だ!」なんて騒がれると実に無力なんですけど。

あれもこれも学校任せ。そして、いざ問題がおこれば、学校をマスコミ含め総がかりで、場合によっては子供までもが加わって、叩きまくる。

これじゃあ、いじめなんて厄介な問題が発生しても、腰はひけてるは、十分に取り組むだけの余力も精神的にも肉体的にもない、ってことになりますよ、先生たちも。

なかには「事前に」とか「予兆を」なんていうバカもいますが、それいうんだったら、教師の動労環境を改善しろってことになりますよ。たとえば、少人数制だとか。っていうと、同じ教員仲間からも、特にOB連中から、「昔は」なんて批判が出てくる。昔なんか持ち出したところで、内外条件が昔とは違うんだからってことくらい分からんですかねえ・・・。

予防をいうのなら、個々の生徒に目が届きやすい、教師が目や気持ちを行き届かせる余裕をもてる環境を提供しなさいって、まずは! 教師も個人生活や家族があるんだから。「そんな覚悟で教員に」なんて精神論ぶってたら、そのうち教員のなり手がなくなりますよ。それで困るの結局誰ですか?
ホームスクーリングやりますか、仕事やめて? 

まあ、いじめなんて、ぶっちゃけなくなりません。大人の世界にもあるなないですか、日常茶飯事。それをさしおいて、学校だけで「いじめ撲滅」を避けんでも、むなしいだけです。大人に撲滅できないことが、生の感情をぶつけ合う傾向にある子供たちの世界でできるわけがない。

確実に起こるんです、いじめは。洋の東西を問わず。ならば、おきたときに、おこした相手に対して厳正に罰を与える、公権力を介入させてでも。

それだけのことだと思いますけど。
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