くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

昨今の教育現場なればこそ: 「いじめた側にも人権が」

2012年07月07日 | Weblog
「いじめた側にも人権があり、教育的配慮が必要と考えた。」

それはその通り。正論なんでしょう、見方によっては。ましてや、人間一人死に追いやった”くそガキ”とはいえ、まだ子供でもあります。

あえて、その部分にはかみつきません。「人権なんかない!」などとは決して申しますまい。

しかし、そのあとのくだりが非常に気になります。


「『自殺の練習』を問いただせば、当事者の生徒や保護者に『いじめを疑っているのか』と不信感を抱かれるかもしれない、との判断もあった」


ここが、いかにも今どきの教育現場の発想だなあと思います。

もっとも、本当の意味での教育現場は学校であり、教育委員会というのはその「現場」から見ると「現場知らず」なところがあるんです。でも、両者がまったく別物かといえば、そうではない。第三者、特に保護者なんかからみれば、一味同心なんです。で、実際にも、同じような思考・行動形態を見せるんです。

今回の一件がその好例です。

「いじめた側の人権」への配慮という意識、実際にあったんでしょうが、おそらく教育委員会的にはその部分よりも、「生徒や保護者の不信感」っていう部分が多き下端じゃないでしょうか。今の学校は、本当に、子供に対しても、保護者に対しても、腰がひけていますから。でも、引けば、相手は出ています。一部保護者の学校、教師への態度には実に目に余るものがあります。

でも、これはやはり「保身」なんです。批判されてしかるべきです。「生徒」とかいいながら、その生徒の前に実に情けない姿をさらしてしまいました、教育に携わる者として、大人として。あの人たちも、この親、あるいは孫のおじいちゃんだろうに。とても、彼らの背中を子供に見せられたものではありません。

まあ、一点弁護の余地があるとすれば、学校や教育委員会が「萎縮」してしまうのもわからなくもないんです。要は、マスコミ報道。これの餌食になったら、個人の生活、人生はおろか、家庭までやられてしまいますから。それも、彼らの「攻撃」は映像を駆使して執拗でしょう? そんな「攻撃」にほぼ無防備な人たちが萎縮して我が身を守るのに汲々とするのも、わからなくはないんです。

ええ、こういえば、ご批判もあるでしょう。

率直にいって、頭の良くない人たちだと思います。「人権」なんていえば、世間は反省の弁や自己批判を期待しているのに、錦の御旗を出して自己弁護に躍起になっているとかえって反発を生むのは当然です。予想できなかったんでしょうか。

あるいは、「人権」という語句に対する教育現場と世間の間隔のずれゆえなのかもしれません。とすれば、「やはり教師は世間知らず」なんていわれても仕方がない。実際にそうだし。

いずれにしても、今どきな教育関係者の今どきな発言・対応が、世間の間隔と齟齬をきたしているってことなんでしょうねえ。




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