くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

「水戸黄門」、継続を望む声はあるけれど・・・

2011年10月17日 | Weblog
番組の質の低下は否めない。

その第一の原因は、黄門役の里見浩太郎にあると思う。時代劇俳優としてに里見にあれこれ言うつもりはない。が、やはりニンではないのだ。その点は石坂浩二にも言えることだが、二枚目の黄門にはいささか無理がある。というのも、やはり我々の世代には東野英次郎の「黄門さま」のイメージが強過ぎる。いや「黄門さま」イコール東野だったのだ。どうしてもそれに比べてしまうと、里見の黄門さまには、東野とはかけ離れ過ぎているし、何と言っても、東野のとき助さん役は里見。私個人のなかでも、助さん=里見なだけに・・・。いつぞやラジオで杉様もいっていたが、里見は見た目が若いだけに、まだ黄門さまをやるには早すぎるとも思う。いや、それ以前に、繰り返すが、ニンではないのだ。

第二の原因は、時代劇をそれらしくこなせる役者が少なくなってきたということだ。これは今に始まったことではなく、既に70年代からでもそうした傾向は始まっていたことは、時代劇専門チャンネルなんかを見ているとよくわかる。80年代でいえばサニー千葉の「影の軍団」シリーズ、あれはひどかった。私はあの非時代劇的な雰囲気の時代劇が嫌いで自分から見ようと思ったことはなかった。「仕事人」も最後の方はハメの外し過ぎだった。何年か前に播磨屋が大石を演じたことがあったが、あの時の播磨屋、周囲から浮きまくっていた。しかしそれは播磨屋が悪いのではなく、台本のヒドさに加え、共演陣のお粗末さによるものであり、「ああ、時代劇が従来のかたちの時代劇としてはもはや成り立たないのだ」と痛感したものだが、「水戸黄門」にも同じことが言えるのではないだろうか。

第三に、番組の作り自体、すなわち質自体が落ちているのだ。「落ちている」に語弊があるのであれば、「水戸黄門」の作風はすっかり変質してしまっているのだ。かつて水戸黄門と言えば、聞いただけで「水戸黄門」とわかるBGMがあったが、今はそれを使っていない。かわりに実に安直な音が流れるのみ。従来のスタイルに固執する必要はないし、むしろそれが番組をダメにしていく場合もたぶんにあるが、「らしさ」を損ね過ぎると市庁舎は離れていく。これは「らしさ」を失った老舗が顧客からそっぽを向かれるのと同じことだ。私からしてみれば、製作者側はそんな単純なことも分からないのだろいかとすら思う。もしかしたら、作り手に既に「熱意」みたいなものが損なわれてしまっているのかもしれない。だとすれば、無くなってしまっても仕方がないし、そうなってしまった方が良いのかもしれないとすら思うのだ。

第四に、物語のつまらなさだ。「水戸黄門」にはその他多くの時代劇同様、ワンパターンなお決まりがあり、そぬした制約のなかで毎回ストーリーを考えるのは容易ではあるまい。またそのワンパターンを損ねては、やはり「老舗の味」が損なわれるのと同様、客を失う結果となる。が、それにしても、近年の「水戸黄門」はひどい。晩年の「暴れん坊将軍」や「必殺シリーズ」もそうだったが、マンネリ以前にあまりにストーリー展開が平板で面白くないのだ。
こうした傾向は既に80年代から始まっていたと思うが、それ以前の時代劇はその点、もう少し工夫があった。松方弘樹のオヤジの浪人ものなんか、マンネリのようで実は毎度あれこれ工夫があり、面白かった。ただ、あの浪人者はやはり近衛という役者のキャラに負うところは確かに大きかったと思うのだが・・。その点、やはりキャラで視聴率を稼げる「大物」がいなくなったということなのだろうか?



子供の頃から、アニメと特撮、相撲以外には時代劇しか見ずに育った私にとって、時代劇が消えていくというのは
実に悲しいことであることは確かなのだが、質の低い時代劇をみたいとも思わない。「水戸黄門」を見ていると、時代劇の現状は自ら招いた結果という部分がかなり大きいように思えてならないのだ。時代劇を愛する者としては、ただただ何とかならないものかと思うのみである・・。ああ、時代劇・。











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