私は米国との比較でしか言えないのだが、確かに忙しいと思う。教科指導以外の仕事が多く、家庭や社会が教員や学校に要求するところの「教師としてすべきこと」が多い。
その一方で、教員の権威、学校の権威は決して高くはない。何かあれば、家庭の突きあげばかりかマスコミを通して社会的糾弾を受ける。学校側に落ち度があればそれも致し方なしだが、生徒が校外で不始末しでかした分まで責任を取れとメディアの力でもってやられたら教員にかかわらず一個人など一たまりもなく潰されてしまう。
読売新聞の報道によれば、日教組の調査は日本の教員の「忙しさ」を示している、という。
繰り返しになるが、私は米国との比較でしか言えないのだが、この調査結果、一定の正しさを持っているのであろう。
ただ、惜しむらくは調査主が日教組ということだ。世評決して芳しくない教組による調査結果とあっては、なかなか世間の関心を集めることもできまい。調査の思惑を勘ぐってしまいたくもなる。世間の信用を得られないのも日教組の自業自得、不徳の致すところだ。教組に入っている教員自身、教組なんてと思って入っている人は結構いる。教組の強い学校では入らないとイジメに遭うから仕方なしに入る場合もあるという。知人の教師は教組やめてから数年間、職場では村八分状態だったそうだ。もっとも、その人の場合、教員としてのかくたらう力と名声があったから、職場のイジメに潰されることは無かったが。
繰り返しになるが、日本の教員の勤務時間、米国の比ではない。家庭や世間が求めるものも比ではない。一旦何かあったときの攻撃も比ではない。権限、権威の無さも比ではない。教員は世間ずれしていないとよく言われるが、あの勤務体系では、世間と触れ合う暇もない。
ただ、一点米国の教員より良い点がある。給与である。米国の教員とは比較にならぬほど給与が良い。米国の教員は薄給なのだ。あの給与水準で良い人材が集まるわけもない。従って日本の教員の給与は高すぎるとは言わないし、いたずらに引き下げれば、人材確保が難しくなる。米国のようになる。米国の教師個々の学力、能力は決して高くはない。むしろ低いというべきかもしれない。より良い人材を求めても、今の待遇では無理な話だ。
教育改革と言うのなら、いたずらに教員・学校叩きをしないことだ。過度に教員・学校に求めないことだ。学校に求め過ぎる=家庭の責任放棄でもある。教員も生身の人間だ。確かに教育という職務、一般企業の営利活動と同列には論ずべきではあるまい。医者とは違う意味で人の命を預かる、人を育てる仕事だ。そこにある種「聖職」的なイメージが生まれても決しておかしなことではあるまい。ただ、教員は神ではない。教員も我々と同じく悩み、過つ。家庭を持てば、我々と同じく家族と交わる時間も必要だ。教員になった以上、自己犠牲は当然、家庭も顧みるな、などと期待してはいけない。それは教員に対する人権、人格否定だ。
おかしな教員も多い。学級王国よろしく好き勝手を学内でほざく教員。生徒の人権、人格無視の教員。どう見ても人格欠損か、ビョーキの教員。
日教組は解体されねばなるまい。教員が自らの権利の保障を求めることは悪いことではないし、組合を組織することそのものを否定してはなるまい。教員も労働者である事実は否定できないのだ。ただし、組合が政治組織化、イデオロギー集団化することはあってはなるまい。それゆえに、そうなってしまった日教組は打倒されねばなるまい。
教員が自らの社会的地位の向上と待遇の改善を望むのであれば、教員の側からなすべきこともある。まずは日教組並びに全教を自ら否定し、解体せよ。
教員は過重負担に苦しんでいる。私も学校に通う子の親として、教師が肉体と精神を病むことなど望むはずもない。さもなくば、問題は我が子に降りかかってくることになるかもしれないのだ。我が子を思うなら、我々親は教員を思わねばならない。学校現場を思わねばならない。批判し、突きあげたところで、現場は行き場を見失い、今以上に混迷し、疲弊し、病むだけだ。学校は批評批判の対象である以前に、社会や家庭の支援の対象であるべきなのだ。
そうした観点からの教育改革の声もあるべきではと思う。
というと、大方、学校・教員に甘いとさんざんに批判されるのが常なのだが・・。
その一方で、教員の権威、学校の権威は決して高くはない。何かあれば、家庭の突きあげばかりかマスコミを通して社会的糾弾を受ける。学校側に落ち度があればそれも致し方なしだが、生徒が校外で不始末しでかした分まで責任を取れとメディアの力でもってやられたら教員にかかわらず一個人など一たまりもなく潰されてしまう。
読売新聞の報道によれば、日教組の調査は日本の教員の「忙しさ」を示している、という。
繰り返しになるが、私は米国との比較でしか言えないのだが、この調査結果、一定の正しさを持っているのであろう。
ただ、惜しむらくは調査主が日教組ということだ。世評決して芳しくない教組による調査結果とあっては、なかなか世間の関心を集めることもできまい。調査の思惑を勘ぐってしまいたくもなる。世間の信用を得られないのも日教組の自業自得、不徳の致すところだ。教組に入っている教員自身、教組なんてと思って入っている人は結構いる。教組の強い学校では入らないとイジメに遭うから仕方なしに入る場合もあるという。知人の教師は教組やめてから数年間、職場では村八分状態だったそうだ。もっとも、その人の場合、教員としてのかくたらう力と名声があったから、職場のイジメに潰されることは無かったが。
繰り返しになるが、日本の教員の勤務時間、米国の比ではない。家庭や世間が求めるものも比ではない。一旦何かあったときの攻撃も比ではない。権限、権威の無さも比ではない。教員は世間ずれしていないとよく言われるが、あの勤務体系では、世間と触れ合う暇もない。
ただ、一点米国の教員より良い点がある。給与である。米国の教員とは比較にならぬほど給与が良い。米国の教員は薄給なのだ。あの給与水準で良い人材が集まるわけもない。従って日本の教員の給与は高すぎるとは言わないし、いたずらに引き下げれば、人材確保が難しくなる。米国のようになる。米国の教師個々の学力、能力は決して高くはない。むしろ低いというべきかもしれない。より良い人材を求めても、今の待遇では無理な話だ。
教育改革と言うのなら、いたずらに教員・学校叩きをしないことだ。過度に教員・学校に求めないことだ。学校に求め過ぎる=家庭の責任放棄でもある。教員も生身の人間だ。確かに教育という職務、一般企業の営利活動と同列には論ずべきではあるまい。医者とは違う意味で人の命を預かる、人を育てる仕事だ。そこにある種「聖職」的なイメージが生まれても決しておかしなことではあるまい。ただ、教員は神ではない。教員も我々と同じく悩み、過つ。家庭を持てば、我々と同じく家族と交わる時間も必要だ。教員になった以上、自己犠牲は当然、家庭も顧みるな、などと期待してはいけない。それは教員に対する人権、人格否定だ。
おかしな教員も多い。学級王国よろしく好き勝手を学内でほざく教員。生徒の人権、人格無視の教員。どう見ても人格欠損か、ビョーキの教員。
日教組は解体されねばなるまい。教員が自らの権利の保障を求めることは悪いことではないし、組合を組織することそのものを否定してはなるまい。教員も労働者である事実は否定できないのだ。ただし、組合が政治組織化、イデオロギー集団化することはあってはなるまい。それゆえに、そうなってしまった日教組は打倒されねばなるまい。
教員が自らの社会的地位の向上と待遇の改善を望むのであれば、教員の側からなすべきこともある。まずは日教組並びに全教を自ら否定し、解体せよ。
教員は過重負担に苦しんでいる。私も学校に通う子の親として、教師が肉体と精神を病むことなど望むはずもない。さもなくば、問題は我が子に降りかかってくることになるかもしれないのだ。我が子を思うなら、我々親は教員を思わねばならない。学校現場を思わねばならない。批判し、突きあげたところで、現場は行き場を見失い、今以上に混迷し、疲弊し、病むだけだ。学校は批評批判の対象である以前に、社会や家庭の支援の対象であるべきなのだ。
そうした観点からの教育改革の声もあるべきではと思う。
というと、大方、学校・教員に甘いとさんざんに批判されるのが常なのだが・・。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます