くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

こんにゃくゼリー問題

2007年06月16日 | Weblog
子供を亡くした親の気持ち、正直言って、理解できるなんて偉そうなこと言う気はこれっぽっちもない。

私も二児の親であり、我が子をそれこそ目に入れても痛くないほどかわいいからこそ、我が子に万が一のことがあれば、気も狂わんばかりに嘆き悲しむであろいうことが容易に想像できる。ただそれは想像でしかないのだ。人には経験せねばわからぬ喜びや悲しく、苦しみというものがある。親になった時の喜び、そして親として子供の成長を見守る喜び。ただ私の親としての喜びは父親としてのものではなく、母親の子を授かり産んだときの気持ちとなると想像はできても、それ以上に理解することはできない。つまりそれが想像の域を超えたものだれば、共感することはできない。子を亡くした親の気持ちとて同じことが言えると思う。想像はできても、共感となると、そこにはどうしようもない限界がある。

その限界を言い訳にするつもりもないし、批判を覚悟のうえであえて言うが、こんにゃくゼリーで我が子を亡くしたご両親、訴訟はおかしいのじゃないのか?

子供を亡くした悲しみを、その原因をどこかに見出しそこにぶつけたいという気持ちかもしれないが、このご両親の言い分が通れば、この世の中、おちおちとものを売るという行為もできなくなる。ものを売るということは、PL法なんてのもあるように、社会的法的責任を伴うのは当然だ。その自覚や覚悟もなくものを売って金もうけをしようなど、世の中をなめているとしか言いようがない。ただ、その責任も問い詰め過ぎれば、世の中おっかなくて何もできなくなる。

あの製品を流通させるべきではなかった、と件の両親は言うが、そのような言い分はこの世のすべてのとまでは言わないがかなりの商品にも当てはまってしまうのではないのか?他のさまざまな商品にも何らかの、もしかしたら予測不能な危険性が潜んでいるかもしれない。普段は危険性のないものが運悪く生じた特殊な状況下において危険性をはらむ可能性もあるのだ。もしこの両親のこの言い分がまかり通るのであれば、例えば、サ●ウの切りもちなんて、もしあれを喉に詰まらせて年寄りなんかが死んだとしたら、「こんな製品は流通させるべきではなかった」と会社を提訴することもできることにもなりかねない。森●キャラメルを喉につまらせてもしかりだ。

こうした危険性を回避し、商品を流通させようとすれば、例えば食料品ならば、すべての人間が、どのような状況でも危険なく食することのできるものを造るしかないが、そんな万能商品てあり得るのだろうか? キャラメルを例にとっても、あらゆる条件の人間が口にしても喉に詰まらないキャラメルって、米粒だい? それとも諸年齢、諸条件に対応させて、多様なサイズのキャラメルをつくる? それとも喉つまりしないように液状化? 液状化でもおかしなとこりに入ってしまえば、それが原因で・・・って危険性は残る。それとも商品としてのキャラメルというものを社会から消し去る?

ありとあらゆる危険性に取り囲まれている、というのが我々が生きる社会の現実なのだ。そしてすべての危険性を取り除くことは不可能なのだ。可能な限りの危険性を取り除こうとする努力は重要だが、それがすべての危険性の排除を保証するものではないことも現実だ。安全性をめぐる責任追及もその点をのみこんだものでなければなるまい。さもなくば、我々の生活や社会は機能不全に陥るだけだ。

私からしてみると、こんにゃくゼリー事故の問題は、製品そのものあるよりも、それを食した側、食させた側にあるのではないだろうか? この両親の場合は施設に預けてあった子供がそこで出されたゼリーで死亡したというケース。であるならば、問われるべき責任は施設側の安全管理責任ではないのか?

我が子を亡くした悲憤をどこかにぶつけたい気もちがわからぬでもないが、あっちもこっちも蹴り飛ばすというのは関心しない。それをしても亡くなった子供は帰ってはこない。かりに訴訟に勝ったとして、両親のもとに残るのはいくばくかの金と虚しさ、そして消えぬ寂しさと悲しみに違いない。そして世の中がより窮屈でストレスフルなものになるだけだ。

このケースに限っては、訴訟などよしたがいい・・。
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