最近、親として心痛む出来事が多い。
今に始まった話ではないが、幼児虐待の数々、秋田の二児殺害、そして今週に入ってシュレッダー事件に愛媛今治での中1自殺等。
上にあげなかったなかにも気になるのが、奈良に始まり、今週もあった再婚家庭での子供の放火事件。奈良のケースでは、父子の関係が大きく取り沙汰されてきたが、筆者は、それよりも事件の背後にあるより大きな要因は継母の存在ではなかったのか、と事件当時もそして今も考えている。「なさぬ仲」によってつくりだされたものが一因ではなかったのかと。そして血肉分けた父親が子供たちを救ってやることができなかったからではないかと。あくまでも憶測に過ぎぬが、そう考えると、放火により自分の肉親・家族を死に追いやってしまった二人の少年をかわいそうにも思う。
シュレッダー事件。幼い子が指を九本失ったなどと聞くと、こちらの心もシュレッダーで切り刻まれたように痛む。ニュースを見るたびに、「それはもういいから!」と耳を塞ぎたくなるほど辛い事件だ。筆者の周りには、「小さい子の手の届くところに、あんなものを置いておく親が悪い」という声が多い。筆者もまったく同意である。親として我が子を守ることへの想像力が欠けているといわざるをえない。
ただ、より正確に言えば、「親も悪い」と筆者は思う。「も」ということは、他にも責任を負うべき者たちがいるということだ。それは、言うまでもなく、シュレッダーの製造した企業である。一部報道によれば、子供が指を挟むといことを安全対策のうちに想定していなかったという。もしそれが本当であるならば、実に恐ろしいことである。何が恐ろしいのか。まず一つに、企業の無能さが恐ろしい。「キチガイに刃物」というが、そんな無能集団がシュレッダーという刃をもつ危惧を製造し、それで金儲けしていたことが恐ろしい。「無能に刃物」を持たせても作らせてもいけない。
二つ目に、子供を守り損ねえた親同様、企業の想像力の欠如が恐ろしい。もっとも、無能な人間に想像力を期待すること自体、猫にワンと鳴くことを要求するくらいばかげたことかもしれないが、せめて人並みのIQがあれば、子供がシュレッダーに近づく可能性を予見できないものだろか。ましてや日本の住宅事情、特に幼い子を持つ若い夫婦の住宅の一般的事情を考慮に入れれば、子供とシュレッダーとの距離を想定した安全対策など、脳ミソに汗をかくまでもなく、予見できたはずだ。それもできない人間集団・・・、そんな企業が存続しているとこと自体不愉快なことだ。
「想定していなかった」という企業側の説明を、それが報道通りだとしたら、筆者は疑っても見る。つまりウソを言っているのではないかと。つまり、想定はしていたが、コスト上の理由で子供対策の安全措置をあえて付けなかったのではないかと。
「想定していなかった」はウソで、子供を指を挟む可能性があることを認識しながら、「まさかそんなことは」という甘い想定に安住しようとしていたのではないかと疑ってもみる。もっとも、この「甘さ」は、今回のシュレッダー製造企業に限ったことではなく、日本社会に今も昔も蔓延している。米国にいて思うのは、日本人のあるいは日系企業の危機管理には、共通して「まさかそんなことはあるまい」とい甘さが存在する。こちらが、万が一を指摘しても、「まさかそんなことは」で一蹴されてしまうことが、これまで何度あったことか。「この国では、法的責任を追求されて、洒落にならないほど巻き上げられますよ」と言っても、「まさか」に甘え続ける。
さかのぼって、60数年前、日米開戦となれば数年を経ずして我が国の船舶数は壊滅的な状況に陥るとのシミュレーションに対して、「まさか」で開戦に踏み切った結果を、我々日本人はいまだ歴史の教訓として生き続ける。これは、おそらく日本列島の甘い生存環境によって醸成された民族的な疾患ではないかとすら思えてしまう。
加えて、日本企業(社会?)の人権意識の相対的未熟というものも、この事件の背景にあるのではないだろうか。米国に進出する日系製造業の中には、必要な製造機器が現地で調達できないため(使いなれなかったり、あるいは求められる性能を満たすだけの機器を作ることができる業者が米国内にないなどの理由で)、日本から輸入といかたちで持ち込む場合があるが、米国の安全基準に達せず、安全措置の付属を要求されることがしばしばである。消費者という「人」の安全への人権的配慮があれば、想像力を働かせるまでもなく、当然のこととして十分な安全措置が取られたはずだ。
愛媛今治での中1男子の自殺、新聞で遺書を読み、泣けてしまった。「いままで育ててくれてありがとう 母さん父さん」のくだりは辛すぎる・・・。「ありがとう」というくらいなら、何で死んだ!、と今更言ってももう遅い。親として、この子の両親に思いを馳せてみれば、これほどむごいことはあるまい。我が子も守ってやれなかったばかりか、その子に「ありがとう」の言葉を残されて先立たれてしまう、しかも自殺というかたちで・・。
我が子を失った親は、我が子は亡くなったあとも、その子の年を数えると言う。筆者の周りにも、我が子を失った人たちがいた。筆者の祖母は、終戦後二人の子供を立て続けに病で失い、気がふれんばかりに嘆き悲しんだという。母は筆者を産んでから二度の流産を経験している(ただ母はその悲しみを筆者の前ではみせることはなかった)。米国に着てからも、病死、事故死で子を失った親たちを見てきた。齢90を越える祖母を含め我が子に先立たれた親たちは、いまだ死んだ我が子の年を数えているのだろうか・・。
今治の場合、単に我が子に先立たれただけではなく、その原因が人生に絶望しての自殺である。この残酷な事実を両親は、これからずっと「重荷」として人生を送らねばならないとすれば、親としてこれ以上の過酷があるのだろうか。
学校でのいじめが原因とのことだが、我が子が同じ境遇に陥った時、親として我が子を守り切れるのだろか、と自問自答してみる。親子とはいえ別人格だ。子が何を思い考えているのか、察し切れるわけなどない。「親の心子知らず」というが、「子の心親知らず」でもある。子が心に死を決した時、それに気付ける自信がない。そうなる前に、いじめの事実に気付くことすらできないのではと不安になる。子供を四六時中親の目の届くところに置いておkなどということは不可能だ。学校に行ってしまえば、校内にいる間は100%不可能である。そこで我が子の身に何かが起こっているとして、それをどう知ることができよう。
かと言って、学校や教師も校内での生徒の人間関係や行動を完全に把握することなどできはしない。大人の目を盗んでいじめや悪さをするくらいの知恵を、子供は持っている。見て見ぬふりをする事なかれ教師がいないわけではないが、見ようとして見えぬ場合も残念ながらある。それでも学校や教師はメディアなどに叩かれる、場合によっては徹底的に(その一方、メディアを徹底的に追求する手段を我々は持たぬが)。
我が子を守ることの難しさ・・・、最後には我が子の安全無事を願うしかない、筆者もそんな無力にして無能な親の一人である。
今に始まった話ではないが、幼児虐待の数々、秋田の二児殺害、そして今週に入ってシュレッダー事件に愛媛今治での中1自殺等。
上にあげなかったなかにも気になるのが、奈良に始まり、今週もあった再婚家庭での子供の放火事件。奈良のケースでは、父子の関係が大きく取り沙汰されてきたが、筆者は、それよりも事件の背後にあるより大きな要因は継母の存在ではなかったのか、と事件当時もそして今も考えている。「なさぬ仲」によってつくりだされたものが一因ではなかったのかと。そして血肉分けた父親が子供たちを救ってやることができなかったからではないかと。あくまでも憶測に過ぎぬが、そう考えると、放火により自分の肉親・家族を死に追いやってしまった二人の少年をかわいそうにも思う。
シュレッダー事件。幼い子が指を九本失ったなどと聞くと、こちらの心もシュレッダーで切り刻まれたように痛む。ニュースを見るたびに、「それはもういいから!」と耳を塞ぎたくなるほど辛い事件だ。筆者の周りには、「小さい子の手の届くところに、あんなものを置いておく親が悪い」という声が多い。筆者もまったく同意である。親として我が子を守ることへの想像力が欠けているといわざるをえない。
ただ、より正確に言えば、「親も悪い」と筆者は思う。「も」ということは、他にも責任を負うべき者たちがいるということだ。それは、言うまでもなく、シュレッダーの製造した企業である。一部報道によれば、子供が指を挟むといことを安全対策のうちに想定していなかったという。もしそれが本当であるならば、実に恐ろしいことである。何が恐ろしいのか。まず一つに、企業の無能さが恐ろしい。「キチガイに刃物」というが、そんな無能集団がシュレッダーという刃をもつ危惧を製造し、それで金儲けしていたことが恐ろしい。「無能に刃物」を持たせても作らせてもいけない。
二つ目に、子供を守り損ねえた親同様、企業の想像力の欠如が恐ろしい。もっとも、無能な人間に想像力を期待すること自体、猫にワンと鳴くことを要求するくらいばかげたことかもしれないが、せめて人並みのIQがあれば、子供がシュレッダーに近づく可能性を予見できないものだろか。ましてや日本の住宅事情、特に幼い子を持つ若い夫婦の住宅の一般的事情を考慮に入れれば、子供とシュレッダーとの距離を想定した安全対策など、脳ミソに汗をかくまでもなく、予見できたはずだ。それもできない人間集団・・・、そんな企業が存続しているとこと自体不愉快なことだ。
「想定していなかった」という企業側の説明を、それが報道通りだとしたら、筆者は疑っても見る。つまりウソを言っているのではないかと。つまり、想定はしていたが、コスト上の理由で子供対策の安全措置をあえて付けなかったのではないかと。
「想定していなかった」はウソで、子供を指を挟む可能性があることを認識しながら、「まさかそんなことは」という甘い想定に安住しようとしていたのではないかと疑ってもみる。もっとも、この「甘さ」は、今回のシュレッダー製造企業に限ったことではなく、日本社会に今も昔も蔓延している。米国にいて思うのは、日本人のあるいは日系企業の危機管理には、共通して「まさかそんなことはあるまい」とい甘さが存在する。こちらが、万が一を指摘しても、「まさかそんなことは」で一蹴されてしまうことが、これまで何度あったことか。「この国では、法的責任を追求されて、洒落にならないほど巻き上げられますよ」と言っても、「まさか」に甘え続ける。
さかのぼって、60数年前、日米開戦となれば数年を経ずして我が国の船舶数は壊滅的な状況に陥るとのシミュレーションに対して、「まさか」で開戦に踏み切った結果を、我々日本人はいまだ歴史の教訓として生き続ける。これは、おそらく日本列島の甘い生存環境によって醸成された民族的な疾患ではないかとすら思えてしまう。
加えて、日本企業(社会?)の人権意識の相対的未熟というものも、この事件の背景にあるのではないだろうか。米国に進出する日系製造業の中には、必要な製造機器が現地で調達できないため(使いなれなかったり、あるいは求められる性能を満たすだけの機器を作ることができる業者が米国内にないなどの理由で)、日本から輸入といかたちで持ち込む場合があるが、米国の安全基準に達せず、安全措置の付属を要求されることがしばしばである。消費者という「人」の安全への人権的配慮があれば、想像力を働かせるまでもなく、当然のこととして十分な安全措置が取られたはずだ。
愛媛今治での中1男子の自殺、新聞で遺書を読み、泣けてしまった。「いままで育ててくれてありがとう 母さん父さん」のくだりは辛すぎる・・・。「ありがとう」というくらいなら、何で死んだ!、と今更言ってももう遅い。親として、この子の両親に思いを馳せてみれば、これほどむごいことはあるまい。我が子も守ってやれなかったばかりか、その子に「ありがとう」の言葉を残されて先立たれてしまう、しかも自殺というかたちで・・。
我が子を失った親は、我が子は亡くなったあとも、その子の年を数えると言う。筆者の周りにも、我が子を失った人たちがいた。筆者の祖母は、終戦後二人の子供を立て続けに病で失い、気がふれんばかりに嘆き悲しんだという。母は筆者を産んでから二度の流産を経験している(ただ母はその悲しみを筆者の前ではみせることはなかった)。米国に着てからも、病死、事故死で子を失った親たちを見てきた。齢90を越える祖母を含め我が子に先立たれた親たちは、いまだ死んだ我が子の年を数えているのだろうか・・。
今治の場合、単に我が子に先立たれただけではなく、その原因が人生に絶望しての自殺である。この残酷な事実を両親は、これからずっと「重荷」として人生を送らねばならないとすれば、親としてこれ以上の過酷があるのだろうか。
学校でのいじめが原因とのことだが、我が子が同じ境遇に陥った時、親として我が子を守り切れるのだろか、と自問自答してみる。親子とはいえ別人格だ。子が何を思い考えているのか、察し切れるわけなどない。「親の心子知らず」というが、「子の心親知らず」でもある。子が心に死を決した時、それに気付ける自信がない。そうなる前に、いじめの事実に気付くことすらできないのではと不安になる。子供を四六時中親の目の届くところに置いておkなどということは不可能だ。学校に行ってしまえば、校内にいる間は100%不可能である。そこで我が子の身に何かが起こっているとして、それをどう知ることができよう。
かと言って、学校や教師も校内での生徒の人間関係や行動を完全に把握することなどできはしない。大人の目を盗んでいじめや悪さをするくらいの知恵を、子供は持っている。見て見ぬふりをする事なかれ教師がいないわけではないが、見ようとして見えぬ場合も残念ながらある。それでも学校や教師はメディアなどに叩かれる、場合によっては徹底的に(その一方、メディアを徹底的に追求する手段を我々は持たぬが)。
我が子を守ることの難しさ・・・、最後には我が子の安全無事を願うしかない、筆者もそんな無力にして無能な親の一人である。