くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

「国恥」河野洋平の破廉恥

2006年08月15日 | Weblog
死者に鞭打つをよしとせぬは、我が国の伝統精神のひとつといっても過言ではあるまい。墓を暴き遺骸を辱めるに躊躇せぬどこぞの隣国とは明らかに異なり、主観的には我が国の「美風」とすべきものであろう。

しかしながら、あまねくすべての日本人がこの精神文化を共有するわけではないことを、河野洋平衆議院議長が示してくれた。

15日、政府主催の全国戦没者追悼式において三権の長たる河野洋平氏は、追悼の辞で、「戦争を主導した当時の指導者たちの責任をあいまいにしてはならない」とのたまった。毎日新聞は、「第二次世界大戦に関与した日本の指導層の戦争責任を否定したり軽視したりする論調が高まっていることに不満を示したものとみられる」とする。

政府与党の重職を歴任し今三権の長のイスに座す河野氏が今更知らぬはずはあるまい。政府主催による追悼式は独立回復の年、すなわち昭和27年に、始まって以来、氏の指摘する戦争責任を有する戦時指導者たちも、そこでの追悼対象だといことを。式典の追悼対象たる「零位」に対して面と向かって「責任をあいまいにしてはいけない」と言ってはばからぬ氏の行為をして、死者に鞭打つの行為と呼ばずして何と呼ぼうや。いまだ筆者は追悼の対象を非難する追悼の辞なるものを知らぬだけに、抑えがたい怒りすらおぼえる。戦時指導者の責任を問うこと自体は氏の自由であるが、あの場においてそれを口にするは、破廉恥以外の何物でもあるまい。

こういう御仁であればこそ、同じく死者を辱めて恥とせぬどこぞの国にシッポを振ることをも惜しまず恥ともせぬのであろう。

毎日によれば、河野議長は更に、沈没時戦艦大和に乗り込んでいた将校に触れ、「新生日本の『目覚め』を信じ、さきがけとなることを願って犠牲を受け入れた若い有為な人材たちに思いをはせるとき、指導者たちの責任をあいまいにしてはならないと思う」と述べたという。国家の指導的立場にあるものの責任論としてはごもっともかもしれぬが、それをあの式典でいうべきではないはずだ。理由は既述のごとし。

河野氏は、「我が国の平和と繁栄は先輩世代の犠牲の上に築かれた」と語っている。この「犠牲の上の繁栄」という言葉、いささか感情論的なところもあり、戦後の我が国の平和と(少なくとも経済的な)繁栄の原因をすべからく先人の犠牲に求めることはできまい。それはさておき、その「犠牲」となった「先輩世代」も、よもや、氏のごとき破廉恥漢が、戦後の「平和と繁栄」の世に現れ、位人臣を極めるなどとはゆめゆめ思いもしなかったのではないだろうか。

かくのごとき人物に憲法が規定するところの国権の最高機関の長としての地位を与える今日の日本は、果たして戦没者が「目覚め」を期した日本であるのだろうか。
筆者は、死者の御霊を前にその死者に批判の言葉を向ける河野という人物を国の恥、「国恥」、とみなし、戦没者に対してこのような人物をのざばrせておく我が国の今日の無様をただ恥ずかしくそして申し訳なく思うのみである。

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