くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

靖国考 その2: 靖国問題の解決策 (4)への補論

2006年08月24日 | Weblog
以前、靖国問題の解決策として、筆者は靖国神社を含めたあらゆる宗教ならびに無宗教をも想定した国家追悼施設の設定を提案した。

ところが、知人より、筆者の案では憲法89条違反になるのでないかとの指摘を受けた。すなわち、国家追悼施設と認定された既存の宗教施設(例えば靖国神社のような)以外の宗教施設の新たな建設、あるいは、既存の施設の維持や修復が必要のための経費が国家予算によって賄われることになった場合、憲法89条、すなわち公金・公的財産の支出・利用制限に抵触するのではないかということである。

この疑義に対する筆者の回答は、「抵触せず」である。

89条の問題を語る場合、平成9年の愛媛玉串訴訟に対する最高裁判決を見ねばなるまい。愛媛県による靖国神社(ならびに護国神社)への玉串料等の名目での公金支出に対して、最高裁は、高裁の合憲判決を退け、憲法20条3項とともに、89条違反との判断を下すとともに、次のように論じている。(以下http://page.freett.com/shikoku/
tamagushi.htmより引用・抜粋)

 (明治憲法下での信教の自由が置かれた状況に言及したうえで)信教の自由を確 実に実現するためには、単に信教の自由を無条件に保障するのみでは足りず、  国家といかなる宗教との結び付きも排除するため、政教分離規定を設ける必要性 が大であった。これらの点にかんがみると、憲法は、政教分離規定を設けるに当 り、国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性 を確保しようとしたものと解すべきでる。

これだけを読めば、筆者が主張するところの追悼施設構想は、国家と宗教の完全分離に矛盾をきたし、違憲、ということになろう。

ところが、同判決は、次のようにも論じている。

  しかしながら、「中略」、現実の国家制度として、国家と宗教との完全な分離 を実現することは、実際上不可能に近いものといわなければならない。さらま  た、政教分離原則を完全に貫こうとすれば、かえって社会生活の各方面に不合理 な事態を生ずることは免れない。政教分離規定の保障の対象となる国家と宗教と の分離にもおのずから一定の限界があることを免れず、政教分離原則が現実の国 家制度として具現化される場合には、それぞれの国の社会的・文化的諸条件に照 らし、国家は実際上宗教とある程度のかかわり合いを持たざるを得ないことを前 提とした上で、そのかかわり合いが、信教の自由の保障の確保という制度の根本 目的との関係で、いかなる場合にいかんる限度で許されないこととなるかが、問 題とならざるを得ないのである。

つまり、憲法が本来理想とするところを我が国社会にそのまま具現化することは、現実的に不可能だというのである。そうした認識のもと、最高裁は次のように政教分離のあり方を規定する。

 右のような見地から考えると、憲法の政教分離規定の基礎となり、その解釈の指 導原理となる政教分離原則は、国家が宗教的に中立であることを要求するもので はあるが、国家が宗教とのかかわり合いを持つことを全く許さないとするもので はなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、その かかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を越え るものと認められる場合にこれを許さないとするものであると解すべきである。

以上のように最高裁が規定するところの政教分離原則にそって言えば、国家による戦没者追悼が非宗教的なものである必要性は必ずしもない。同判決が愛媛県の行為を20条3項違反と判断したのは、県が特定の宗教団体の、その団体にとって重要な宗教上の祭祀にかかわりを持ったからである。

これに対して、筆者が主張するあらゆる宗教ならびに無宗教をも包括した国家による追悼のあり方は、すべての宗教を差別せず、且つ無宗教という信条をも排除しないという点で、憲法20条1項が保障する信教の自由を侵すものでもなければ、同条3項が禁ずるところの特定宗教の援助・助長や干渉、抑圧にはならないのである。

しかも、死者の追悼は、我が国においては、社会的・文化的に「相当とされる限度」の行為であるはずだ。愛媛県の公金支出が違憲の判決を受けたのは、それが20条3項違反、すなわち「相当とされる限度」を越えた行為への公金の支出であったからである。これに対して、筆者の案は、繰り返しになるが、あらゆる宗教及び無宗教をも想定した死者の追悼であるがゆえに、20条1項に抵触しないばかりか、特定宗教団体の援助ないし疎外行為でもないがゆえに同条3項にも抵触せず、しかも、それであるがゆえに、かりに公金の支出があったとしても、それは「相当とされる限度」の行為、すなわち戦没者追悼、のための、諸戦没者追悼施設の維持・管理のための支出、すなわち「相当とされる限度」の支出、となるのではにdろうか。もっとも、実際の公金支出に際しては、金額の分配や分配された公金の各追悼施設における使われ方など、十分な配慮を要する点はあるが)。

筆者の言い分に危うさがあるというのであれば、あえて、公金を支出しなければ良いのだ、と極論してみる。靖国をはじめとする既存の戦没者追悼施設ならびにそう認定されることを希望する既存の施設に対して国家認定を与えるのみで、そこに公金の支出を何が何でも付随させる必要はあるまい。

では既存の施設では戦没者なりその遺族の信心・無信心を満たせない場合はどうするのだ、との声が上がる可能性もあろうが、その場合は、彼らに用地だけ提供すれば良いのだ。用地の供与なら、箕面忠魂碑訴訟の例にあるように、問題ではないはずだ。狭い日本にそのような用地などないではないかという反論もあろうが、ないことなどありえないし、墓地、墓苑の類のような広い用地が必ず必要と言うわけでもあるまい。土地がなければ上に積み重ねればよいだけの話なのだ。

国民の多様な信条や信仰を信教の自由の下に尊重しつつ、追悼という、それ自体不可避に宗教性を帯びているといわざるを得ない行為を、国家が戦没者に向けて行う時、無宗教では国民感情との乖離が大き過ぎ、特定宗教形式でとなれば明らかに違憲となる。ということであれば、あらゆる宗教プラス無宗教というスタンスに対して等距離を保ちながらの国家としての追悼のあり方を模索する以外に方法はあるまい。そのためには、筆者の主張するところが良策と思うのだが・・。

追記: それにしても、この愛媛玉串料訴訟の判決文を読んでいると、高橋久子(元労働官僚にして女性初の最高裁判事)の冗長なだけで子供の屁理屈のような言い分には呆れるばかりで、それが子供の言い分ではないだけに不快感すら覚えるのは筆者だけか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする