くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

これってどうなの? その2:「夜回り先生」のドタキャン

2006年08月29日 | Weblog
「夜回り先生」が講演会をドタキャン。

「夜回り先生」と言っても、ボケて徘徊する先生、ではなくご存知の水谷修先生(50)。

約8000人の聴衆を集めて、本会場以外の複数会場にモニター中継されることを知らされていなかったとして、宮崎市での講演を突如中止してしまったという。いったん登壇したものの、「私はうそつきが嫌いだ」と主催者を批判して下壇してしまったという。

これってありか?、と思うのは筆者だけであろうか? 水谷氏と主催者の側にどのような行き違いがあったかは知らない。

しかしながら、水谷氏と主催者のトラブルは聴衆には関係のないことで、少なくともこの点に関しては日本PTA全国協議会側の言い分に一理あるのではないか。水谷氏の講演を聞きたいと思い足を運んだ多くの聴衆の気持ちを慮れば、ドタキャンという選択にはならないはずだ。かりにモニターでは「生の声」が伝わらないとして、それだけの理由で、聴衆の労と気持ちを踏みにじった水谷氏の行為は大人げないのではない。相手の気持ちへの十分な理解があれば、あるいは自分の講演を聞きにきてくれた人々にいささかなりとも感謝の気持ちがあれば、不満足な条件の下でも、また主催者への怒りがあったとしても、講演を行おうという判断になったはずだ。

筆者には、脚光を浴びその発言が影響力を持つようになった水谷氏に、幾分の驕りなり増長があったのではないかと思う。聞いてもらうというスタンスが、いつしか聞かせる、聞かせてやっているに変わってしまったのではないのか。

子供の気持ちに触れそこに「いいんだよ」と共感する水谷氏が、聴衆の気持ちに思いを馳せることができないといのは実に奇異なことだ。それとも、子供の気持ちは理解できても、大人の気持ちは理解できないといことか。あえて辛らつな言い方をするならば、子供の気持ちへの理解にしても、それは氏自身の手前勝手な思い込みではないのか、と今回の一事を見て思えなくもない。氏は、「夜回り」しているうちに、全国を講演して「回って」いるうちに、いつしかマスコミの寵児となって「猿回し」をさせられ、それに気づかず自分の勝手な思い込みの世界で「空回り」に陥ってしまったのではないだろうか。

さりながら、水谷氏も、「先生」とは言いながら、完全無欠であろうはずはない。
辛らつな批判を浴びせた後で、今更かもしれないがが、

「いいんだよ、先生、誰でも過ちはあるから」

と慰めてあげたい。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする