チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

銀の弦

2006年10月10日 23時54分20秒 | 読書
平谷美樹『銀の弦』(中央公論新社、06)

 「文系SF」とは、私の記憶が正しければ大森望が言い出しっぺの、まだ10年にもならない新しい用語・レッテルなのだが、SF界では完全に定着してしまって日常的に使用されている。
 が、而してその実体はというと客観的な定義はまだないようで、使用者の恣意に任されているといえよう。

 そういう「文系SF」であるが、私自身のイメージでは、「SF」と「幻想小説」の境界のこちら側(SF側)、もしくは、かかる二集合が重複部分を持つとするならば、重複部分(幻想SF)ではなく、あくまで重複部分よりSF側にマッピングされる作品群が想起される。

 もとよりレッテルはレッテルにすぎず、「文系SF」という言葉がなかった昔も、この地に居城を定めた作家は当然いたわけで、その典型が山田正紀であった。実際のところ1970年代から30年以上にわたって、山田SFはこの地に燦然と君臨し続けていたわけだが、その山田正紀から王位を簒奪したのが、他ならぬ本書の著者平谷美樹であった、という印象を私は持っている。

 そうして世紀も革まった21世紀の現在、平谷は「文系SF」の押しも押されぬ第一人者であるどころか、「文系SF」というサブジャンルは、いまや平谷美樹の独壇場と化しているといっても過言ではない(そういう実力者であるにもかかわらず、ネットを見渡してあまり読まれていない印象なのが、私にはとても残念な気がするのだが)。

 『ノルンの永い夢』(ハヤカワJコレクション)は、そういう平谷文系SFの、これまでのところの最高作といい得る秀作であったが、本篇「銀の弦」もまた、「ノルン……」に勝るとも劣らない「文系SF」の傑作である。いやひょっとしたら「ノルン……」を超えているかも。 

 「めくるめくイメージの奔流」というのは、「ノルン……」その他で遺憾なく発揮された平谷SFの代名詞ともいえる一大特徴なのだが、本篇においてはそれがさらに増幅されていて、読者のなかには、そのイメージの奔流についていけず悪酔いしてしまったものもいるのではないだろうか。

 私自身あやうく溺れそうになりかけたこと一再ならずで、とりわけ終盤8章、9章、終章の凄まじいまでのカットバックには一読ではとても随いていけず、この部分のみ再読しなければならなかったほど(それでも理解したとはとてもいえない)。
 それでも分からないのは分からないなりに、その強力な磁力に引き付けられ、目を離すこともできず読み耽ってしまった。

 この強烈な磁力の源泉は何であるか? それはずばり読者にクリアな映像を喚起できる著者独特の視覚的な文体の力だろう。この辺著者の画家としての資質が大きく寄与しているように思われる。

 映像的といえば、先日小川一水についてその筆法が「テレビドラマ的」と書いたが、本篇の著者はその意味では「映画的」なのかもしれない。
 そう気づいてみれば、確かに本篇に限らず平谷SFはどれも映画を観ているような趣きがあり、そう感じさせるのは各シーンが一種カメラアングル的にフレームがしっかり意識されているからではないだろうか。これもまた著者の画家としての資質に拠っているのだろう。

 さて本書であるが、内容は平行世界テーマであり、一種ドッペルゲンガーものでもある。実は私自身、昔創作の真似事をしていて、もとより比べるのもおこがましいのだけど、同じテーマで「ドッペルゲンガー交点」という作品を仕上げたことがあったので、その意味でもとても興味深く読んだ。

 内容を私なりに(かなり恣意的に)整理すると、この世界は殆ど無数の(但し有限の)平行世界のひとつ(弦宇宙)であり、原則としてひとつの世界の住人は他の平行世界の存在を感知できない。
 それは麻の葉模様のように隣り合う図形が互いにその一部(辺)を共有している場合、「視点」のマジックにより人間は、その二つの図形を同時に認識することはできない、という「比喩」で説明される。
 本書の扉の図がそれなのだが、むしろ表紙カバーの絵も、幾何学的なパターンの方がよかったのではないか(表紙絵も「めくるめく」感は表現されていますけど)。

 ところがその平行世界(弦宇宙)のひとつが、ある人物(各平行世界に存在する)において崩壊する。その影響が周辺の平行世界に波及して、平行世界同士が部分的に融合する現象が起こる。
 これらの弦宇宙にそれぞれ存在する同一人物(ドッペルゲンガー)p1,p2,p3……pnは、それぞれの世界では確固たる個人だが、実は弦宇宙が集まった束宇宙のレベルでは束宇宙のPのそれぞれ一面(辺)でもある。すなわちP(p1,p2,p3……pn)。
 (pnは比喩人格、Pは統合比喩人格と記述されている。)

 束宇宙の統合比喩人格たちは、上記の異変から、平行宇宙である弦宇宙が、交差することで辺を減らして行きつつあることに気づく。どうやらやがて世界はひとつに戻り、しかしてふたたび枝分かれしていくらしい! あたかも波動が重ね合わさると、打ち消しあってある一点に収束するように。
 このような思索を重ねていく過程で、統合人格たちは、自分たちをも「辺」とするような「超越者」がいるのではないかと思い至る……

 というように、本書の終盤では、小松左京もかくやの無限上昇(アセンション)が描写されて読者をめくるめくイメージの奔流に巻き込み、悪酔いさせる。何度も書くがここが凄いのだ。もっとも「果しなき流れの果に」が垂直方向に上昇していくのだとしたら、本篇では位置は変わらず、ただ(比喩的にいえば)「視点」のみが上昇していくという感じか。

 「果しなき……」の著者はアセンションで読者をケムに巻いたあと(置いてけぼりを食わせたあと)、あの名シーン「じいさんばあさんのエピソード」を配置することで無限上昇のベクトルを一転ミクロに下降させて、まさに寝技的に収束させ、それによって再び読者を引き戻したのだったが、本篇にも同様の対応関係が認められるのが興味深い。

 本篇の起承転転転転転転転……というめくるめくもめまぐるしい構成は、ある種の読者にとってはやはり置いてけぼりを食わされたという感じになりがちな筈だ。そこへ著者は、一転ミクロへ下降させるベクトルを導入する。

 すなわち「転転転転転転転……」と転がり続けていたのが、終章に至って遂に「弦世界の消滅は、拡散から収縮に向かうサイン」であり、最終的に束宇宙はひとつの弦宇宙に収斂することが明らかになるのだ。
 これはビッグバンがビッグクランチに反転し始点の特異点に収斂するイメージか、あるいは量子論的な可能な確率宇宙が観測されることでひとつに「確定」されてしまう感じを思い浮かべればいいのではないか。

 その結末がラストの「K統合群終末」であり、「じいさんばあさんのリユニオン」に対応するシーンなのだ。ただし「再会」とは逆で「別離」になっているところが著者の工夫だろう。
 どういうことかというと、このシーンではすでにカタクラの束宇宙は、すべての他の束宇宙とは断絶した単一の弦宇宙に「確定」してしまっているわけだ。従って(別の統合人格サヨコの比喩人格である)小夜子もこの宇宙には存在することはできない。それゆえこのシーンに小夜子はおらず、ただ「白い帽子」ばかりが象徴的に描写されているのだろう(それにしてもこのシーンの美しさはどうだ。著者の描写の技倆に感嘆するばかり)。

 さて、小夜子の白い帽子と認識されているからには、小夜子の存在自体は忘れられていないということになる。
 少し手前で、タカクラとマチダの間でその可能性が議論されており、マチダの見解は存在そのものが消されてしまうというものだった。タカクラはそんなことはないとの考えだったが、この見解の相違の背後には「大収縮」後の世界のあり方に対する見方の相違が横たわっているわけだ。
 マチダは大収縮すなわち確定後はその状態が持続すると考えたのに対し、カタクラは大収縮から再び拡散が始まると予想する。これはビッグクランチに対する脈動宇宙論の感じか。

 ラストの「K統合群終末」のシーンに私はそこはかとない明るさを感じたのだが、それは再び拡張が始まり、小夜子が戻ってくるという予感が風景に溶け込まされているからではないだろうか。
 いずれにしても(世界像の)難解さにもかかわらずこのリーダビリティは半端ではない。著者の精進を感じないではいられないと共に、わたし的には本篇は今年のベストワンかも。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 天涯の砦 | トップ | 空獏 »

コメントを投稿