チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

遺す言葉、その他の短篇(下)

2006年10月01日 23時29分24秒 | 読書
アイリーン・ガン『遺す言葉、その他の短篇』幹遙子訳(早川書房、06)
 <承前>

○月×日
「ニルヴァーナ・ハイ」(04)
 レズリー・ホワットとの合作。難解だけどこれはいいな。本集中でも1、2を争う面白さ。外的には「ごくせん」のような落ち零れ学園ドラマのフォーマットながら、そこに籠められたパフォーマンスはフリージャズのそれ、とでも言うか、まあアルバート・アイラーがマーチを演奏しているあの感じですな(あるいは明朗青春小説を書こうとしているディックみたいな?)。

 一読では当然何が何だか訳の分からない話で、二度読んだけど、まだ内的論理を捉まえられない。
 それでもすごく魅力的なのは(オレにはまだ捉えられないけど)内的な必然性が物語を駆動させているからに違いない。
 たぶん本篇の小説世界(の構成要素)はこのストーリーだけじゃないんだろう。きっと書かれざるエピソードがストーリーの背景に隠れているに違いない。そういう重層性は強く感じる。

 そういうぐじゃっとしたストーリーが、(フリージャズでもラストはテーマ演奏に戻って終わるように)最後、学園ドラマのフォーマットに還って、クラスのコミュニオン的カタルシスで幕が下りる。いやこのラストのシーンは目に浮かぶようにあざやかで、うまい。

○月×日
「緑の炎」(98)
 ガン、アンディ・ダンカン、パット・マーフィー、マイクル・スワンウィックの4名によるリレー小説。リレー小説らしくお遊びの要素が強く出ている。けれどもそこそこ面白かった。とりわけアシモフの性格設定がいかにもアシモフらしくて大笑いさせられた。
 しかしながら1篇の小説としてみれば、全体にだらんとしていて緊張感に欠ける。起承転結にメリハリがなく、この辺はリレー小説の宿命かも。

 またもや訳文――
 「平時には効率よく機能し、戦時においては効果的に機能する一隻の強力な船は人間社会の大きな成功といえた」(256p)
 こういう中学生の英作文じみた生硬な直訳が、どうしてもある一定の割合であらわれてくるんだよな。
 とはいえ、冒頭のギブスンでこれは一体どうなることやらと思った割には、読み終わってみればそんなに悪い訳ではなかった。むしろ結構うまいんじゃないかとも思われたのだ。それなのに、時折上記のような気持ち悪い訳を平気でするのがふしぎ。

 最初が最初だっただけに、普段よりも神経質に読んだ感なきにしもあらずで、その点は訳者に申し訳ない気持ちもあるのだが、そういうスタンスで読みすすんでいくうち、何故そこそこのスキルを持つ訳者がこんな訳文を平気で使うんだろう、という、訳者本人に対する興味がわいてきて、いつのまにか訳者の内心を忖度しつつ読んでいた。
 そうやって通読しているうちに、なんとなく訳者の性格が分かったような気がしてきた。いやもちろん勝手な妄想なんだけど、この訳者、集中力にばらつきがあるんではないかなあ。気持ちが乗っているときは申し分ない訳文なのだが、それが持続しない。時折集中力が途切れ、考えるのが面倒になって、脊髄反射的な訳語選択をしてしまう。そんな気がしたのだった。

 ということで一応読了。「ニルヴァーナ・ハイ」はまた後で読んでみるつもり。
 さて、読了した目で振り返ってみれば、ギブスンのいう「ビジネス」も、曖昧ながら何となくかたちが見えてきたような気がする。
 先日は「プロフェッショナル」の意味かと記したわけだが、それをさらに分解すれば、水準作をコンスタントに制作し、絶対に誌面に穴をあけない類の「プロフェッショナル(ビジネスライク)」という意味のほかに、たとえば「陶工」が窯から焼きあがった制作物を検分する段階で、どんどん割っていき、結局ひとつも残さなかった、という類の「プロフェッショナル(マックス・ウェーバーのいわゆる「ベルーフ」)」の意味があるのではないか。

 ギブスンの一文にあるとおり、著者はいろんな職業を経験し(それに付随していろんな場所に住み)それらを卒なくこなしてきたのだろう。一般の文士のイメージよりは社交的な職業人のイメージがそこにはある。
 そのことに対応するように、本書収録作品のジャンルも多岐に渡っており、出来上がった(収録された)作品自体も水準以上の品質を維持している。その意味では、一見前者の意味で「プロ」といえる。しかしながらこれら12篇が、実に30年のキャリアにおける「全作品」であることを知れば、ギブスンのいう「ビジネス」が、後者の意味での「プロフェッショナル(ベルーフ)」で(も)あることがおのずと知れようというものだ。

 こちらのサイトに「まーず、独特ですな」とあるが、いい得て妙ですな。
 一見多彩な「ビジネス」仕事ながら、その実「アイリーン・ガン」作品以外のなにものでもないという「独特さ」、「個性」が、すべての収録作から等しく、強く発散されている。これが大事なのであって(最近のハヤカワのニュースペオペは、どれが誰の作品なのかこんがらがる、という話だけれど)その意味で本書は「本物」であるといえる。
 

 (この項、了)
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