チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

職場、好きですか?

2013年08月14日 01時19分00秒 | 読書
眉村卓『職場、好きですか?』(双葉文庫 13)

 桜井節『そよぐかぜつむじ風――八ヶ岳南麓風景抄――』の感想で、眉村さんはこのような生活にはきっと耐えられないだろうな、と書きました。
 眉村さんの小説を読み続けていると、自然とおのずから、著者自身はこういう人なんじゃないかな、というすがたが、なんとなく浮かんでくるのです。でもそれって、きっと私だけの感覚ではないと思います。というのは眉村作品の特徴として、基底に著者自身の体験がしっかり根づいている、そういう作風ですから、すべての作品を通して或る一定の一貫性がある。それは著者について何の予備知識のない読者にもはっきりわかるものなのですね。
 近年の<私ファンタジー>は、その基層がかなり表面近くにあって一部は露床している、そんな部分を掘り返したものといえます。しかしそれ以前の作品も、基本的に全て、表面からの距離に深浅はあっても、基層には著者がひそんでいるのは同じなのです。

「F商事」の主人公がF社の入社試験に合格したのは、主人公が挫折を経験せずにきたエリートではなかったからです。
「ペーパーテストをくぐり抜け、なんでも思いどおりになっておとなになった人間は、障害にぶつかると、とたんに自信を喪失して、人格まで変わってしまう。最近、そんな人が多いからね。だからうちは、挫折して立ち直った者だけでやっていく」
 この言葉、まるで東電社員に当てつけたみたいですが、本書の初刊は1982年なのです(^^;

 一方、「立派な先輩」の主人公が尊敬してやまない、頑張り屋の先輩が、とつぜん会社をやすむ。心配した主人公が様子うかがいに訪れると、
「わたし、いいOLになろうと思って、会社のことばかりやってきたわ」「一日会社で働いて帰ってくると、あと、何もする元気がなくなるのよ」
 それを何とかやり過ごすために、先輩はある薬を常用していたのですが、ここでの肝は、会社からの、もっと広く他者からの期待に応えようとすることに疲れ果ててしまう一つの類型です。それは誠実ということでもあるのだが、意地悪く言えば、自己を高めたいという欲求と裏腹な内的エリート意識(負けてはいけない)でもある。著者は自分の中にある、そのような傾向の負の部面もしっかり見据えているのだと思います。

「必死の夏休み」の主人公が夏休みをとる。
「正直なところをいえば、彼は、自分が夏休みをとれなければ、それはそれでやむを得ないと考えていた。休んだら、それだけ仕事が遅れるからである。もしも停滞恐怖症というものがあるとしたら、彼はその典型なのかもしれなかった。/何もせずに時間を費やすことほど、彼にとって、こわいことはないのだ。少しでも時間のゆとりがあれば、何かをせずにいられない。」
 さて、この主人公の三日間の夏休みは……(^^;
 この主人公が、まんま著者ではないにせよ、このような傾向が著者にあるからこそ生まれた作品であるのは間違いありません。そんな著者が、八ヶ岳南麓で花鳥風月を友に、「惑星総長」よろしく(笑)、悠々自適の生活を送られるはずがありませんよね*(>おい)m(__)m
 それはさておき、ラストの、休み明けで出勤した主人公が同僚に向ける「ちらちらと馬鹿にしたような視線」こそ、上記「自己を高めたいという欲求と裏腹な内的エリート意識」の現れにほかなりません。

「無人の住居」はアイデアストーリーとして秀逸。小松左京「葎生の宿」とともに、アンソロジー「家」にはぜひ収録したい!

「内海さん」もまた、仕事取りつかれ人間。しかしこの内海さんの場合は、上記「停滞恐怖症」とは、ちと違うみたいですねえ。むしろ銀行員とか教員のパロディか。

「仕返し」は、転職可能だったからこそ出来た仕返し。しがみつくしかない者には想像するだけしか出来ませんね。

「青木くん」は、才能も、それを使い切る名伯楽がいなければ、ただの変人という話。

 ふう。疲れたので以下略。そういえばこういう形のショートショートって、著者以外には書いていませんね。星新一流のショートショートとは、端から形式が違うものです。星SSが唯一の形式ではないことを、もっと理論化一般化しなければいけないかも。と言ってもそれは私の任ではないので要望するばかりですが。
 全26篇の”オフィスショートショート集”で、スラスラと読めて、頷いたり、考えこんだり、と、楽しめました。面白かった(^^)。

*「都会っ子の私などは、そうした小さな世界でのしがらみや、自然が残っているための不便さなどには耐えられないという気がするけれども」「上田くん」

【お詫びと訂正】「必死の夏休み」で、
《それはさておき、ラストの、休み明けで出勤した主人公が同僚に向ける「ちらちらと馬鹿にしたような視線」こそ、上記「自己を高めたいという欲求と裏腹な内的エリート意識」の現れにほかなりません。》
 と書きました。完全に読み違えていました。原文は――
「出社した彼は、休暇のブランクを感じさせないスピードで、仕事を開始した。/女子社員たちは、もう全員出てきている。みんな、まだ仕事に身が入らず、お喋りしている。休みの間のことを、ヨーロッパがどうのこうの、ハワイがこうの、と、話し合っているのだ。そして、彼や係長やもうひとりの男子社員に、ちらちらと馬鹿にしたような視線を向けるのであった」(42p)
「ちらちらと馬鹿にしたような視線」は主人公が同僚に向けたものではなく、女子社員が主人公たち男子社員に向けたもので、全く反対でした。何でこんなミスをしたのか。いや理由は明らかで、私の中に「内的エリート意識」というものが予断としてあり、「ちらちらと馬鹿にしたような視線」が、それを証明する格好の記述である、ととびついてしまったわけです。お詫びして訂正します。ああ、これじゃあ麻生さんを哂えませんねえ・・


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