アイリーン・ガン『遺す言葉、その他の短篇』幹遙子訳(早川書房、06)
<承前>
○月×日
「コンピュータ・フレンドリー」(90)
これはサイバーパンクなのか? いえよく知りませんが。
むしろコードウェイナー・スミスの手触りを感じる。
とはいえ一種ハートウォーミングな話として読んでしまった。
「ソックス物語」(89)
奇妙な味風の小品。それ以上でも以下でもない。
「遺す言葉」(04)
アブラム・デヴィッドスンの晩年にインスパイアされた一種オマージュ作品らしいが、そんな知識は読む際には不要。これだけで自立した作品たりえている。
老作家が死に、地理的にも心的にも離れて暮らしていた娘が遺品整理に訪れる。すると本には夥しい書き込みがあり、室内のあらゆるものにはセロテープでメモが付された紙切れが貼り付けられていた。
冒頭で、死期を覚った老作家が「過去というわら束を櫛で梳くように細かく調べ直した」ことが記されているが、それに対応するのがこれらのメモなのだろう。
で、「それから30億回の鼓動を経た彼の心臓が」停止したとある。
30億回とは具体的にどれくらいの時間だろう。いちおう鼓動数と脈拍数は同じだと仮定する。
このHPによると「脈拍数は、正常成人で1分間に65~85です。しかし個人差もあり、とくに老人の場合は少なく、60くらいの人も多いのです」とあるので、老人ということで、仮に一分60回とすると、60×60×24×30=2592000≒260万回/月となり、30億÷260万≒1154月÷12月=96年となってしまう。 これはおかしい。この30億回は単なる比喩にすぎないのか。
いや、待てよ。
これは、この「30億回」はあるいは老作家の生涯時間を示しているのではないか。
そうだ。そうに違いない。そいえばよく見たら「それから」と「30億回云々」の間に読点があるではないか。
「それから、30億回の鼓動を経た彼の心臓の筋肉が疲れ果て(……)鼓動を止めた」
つまり、<それから、(彼の一生である)30億回の鼓動を経た(打った)心臓が止まった。
と読める。
ということで計算をやり直す。一生ということだから毎分60回というのは少なすぎる。
「正常成人で1分間に65~85」ということだから、
中間を取って75回とすれば30億÷(75×60×24×30)÷12=77歳。
80回ならば30億÷(80×60×24×30)÷12=72歳。
85回ならば30億÷(85×60×24×30)÷12=68歳、となる。
ちなみにアブラム・デヴィッドスンの享年は70歳だ。
大体合う。
それはさておき、「メモ」である。
たとえば冷蔵庫。冷蔵庫には「この大きな冷蔵庫! 何のためだ? わたしは老人で、料理もしないのに」というメモ紙。
そんな類のメモがいたるところに貼り付けられていて、娘はため息をつく。それらは死んで資産も愛情も何も遺さなかったはずの父親の存在感をありありと娘にもたらす。さらには蔵書に書き込まれた夥しいメモ。
整理し、売り払えるものは売り払い、引き取ってもらえるものは引き取ってもらおうと思っていた彼女は、次第に、これらはすべて手元においておくべきかもしれないと思い始める。整理に疲れ果てた彼女は、窓からするりと少年が忍び込んでくるのを見つけるのだが……。
死して肉体を消滅させてなお、その物理的なものではない何かを遺さずにはおかない(あるいはそう感じないではいられない)人間存在の不思議さが哀切に語られる。
○月×日
「遺す言葉」(承前)
昨夜来何度も読み返している。読めば読むほど面白い。
あの少年は何者か?
もちろん客観的には幻覚である。娘の、父親の遺品が何者かに持ち去られたのではないかという疑いを核に構成されたもの。他方内宇宙的には書物の化身であろう。
娘は「時間の物理学」の本を、(躊躇しつつ)どの「山」に「戻した」のだろう? おそらく「捨てる本」の山に、だ。
その、「捨てる山」が少年(少年時代の父親そっくりな)に実体化したのに違いない。
ではなぜ「捨てる山」に、彼女は「少年」を見たのか? 捨ててはいけないという「無意識」が見させたのだ。老作家の遺品はすべて捨てたり散逸させてはいけない。なぜならそれらの総体のなかにこそ「本の中に自分を分け与えていった」父親の「肉体なき」総体が宿っているのだから……。
だからこそ、捨てる山の化身は、捨てるという選択をした娘に襲い掛かる。
少年の死体が山に戻ったのは、娘の心の中で捨てる山が捨てる山ではなくなったからではないか。
娘は了解する。物理的時間は一方向にしか流れない。しかし「精神と心は(……)時間を超越する」
ところで、「機関誌」(112p)って何の機関紙? 季刊誌の変換ミス?
○月×日
「ライカンと岩」(91)
遠未来SF的な内容を民話のフォームに載せているんだが、それが実にしっくりと馴染んでいるのだった。
こういう話は大好き。実はオレもアイヌ民話(ウェペケレ)の世界観(世界設定)をダンセイニ風に料理できないかな、と思案しているのだが、こういう風に書けばいいんだな(^^; 訳文は民話的な雰囲気をうまく伝えている。この翻訳者はうまいのか下手なのか・・
「コンタクト」(81)
一読「夜の翼」というタイトルを思い出したのだが、内容を忘れ果てているので、何故思い出したのか定かではない。
ただ同様の感傷的な遠未来サイエンス・ファンタジーであることは確かで、たぶん「夜の翼」より出来はよい(内容は忘れているけど読後感は覚えているのだ)。
アメリカンSFのある傾向の典型的な秀作だろう。オレはこういう作品も大好きなのだ。
「スロポ日和」(78)
スロポという異星人は「ヘビ頭」と描写されているのに、なぜにイラストでは「ワニ頭」なのか。イラストレイターが勝手に想像でかいてはいかんよな。ヘビ頭では絵にならんと思ったのかな。(*)
内容は風刺SFで愉快愉快。われわれの社会が根源的にもつ隠微でありつつも産業構造に組み込まれた「経済を刺激する(……)遺伝情報の散布」の諸相が(その文化に外在的な)異星人を介することによってあからさまに嘲笑される。
風前の灯だった地球の運命が、かかる地球人類の特質によって当面危機を回避するのも皮肉でよい。
(*)初出のアメージング誌のイラストには登場もしない「おっぱいの大きな若い女の子」が描かれていたらしい。それをことさら取り上げて「気に入った」と書くのは反語的表現なのであって、やはり悔しかったんだろうと思うぞ。
○月×日
「春の悪夢」
なんとホラーである。ホラーであるからして描かれる対象は「超自然」現象である。超自然現象であるからして、因果論的解釈は不可能である。なぜなら超自然現象は小説世界を律するストーリーの流れ(時間的継起=因果関係)から独立的であり外在的であるからで(だから超自然現象なのだ)、したがって小説内世界は超自然現象とは断絶している。(*)
本篇でもラストの異様な結末は、小説世界内の因果律では説明できない。よって読者の[謎=解明]欲求(知の再編成の快感)は充たされない。ただ大脳旧皮質の本能的恐怖感が刺激されるばかり。というのはいかにも言いがかりに近いよな。だからホラーなんだって。
(*)所謂狂者を精神病理学的に「理解」しようとする態度は、その狂者と「私」の間は連続的であるという前提に立つものであり、SFと親和的であるといえる。一方、そういう迂遠な方法は効率的ではないとして、薬物を処方する立場は、すでにして当の狂者を「私」とは断絶した存在、「私」を含むこの世界の、世界内存在としての「私」とは別の存在(独立的・外在的)とみなすもので、狂者への共感的理解は最初から放棄されている。これは「ホラー」の小説作法と同断であるといえよう。これは言いがかりでもなんでもない。いいたいのは「だからホラーは詰まらない」ということ。
○月×日
「春の悪夢」(承前)
「遺す言葉」の<少年>は肯定しておいて、本篇の<ロッジの中の水死体>は認めないというのはどういうことか?
<少年>の出現は、「遺す言葉」の小説世界の内的論理からその出現を解釈できる。すなわち(たとえ外的に幻覚であったとしても)<少年>は歴とした小説世界内存在なのだ。
一方、本篇の<ロッジの中の水死体>は、その出現をストーリーから帰納できない。唯一考えられるのは主人公とその夫(?)の間の「危機」なのだが、本篇での描写のみでこのような超自然現象を出現させるというのはいささか唐突に過ぎる。それにはもっと切実な何かをもっと描写しなければならない。
「遺す言葉」では老作家の<奇行>の数々が描写し尽くされており、読者は切実さを充分に納得できる。
その差が、一方をNW-SFとし、他方をホラーにとどめる。
(つづく)
<承前>
○月×日
「コンピュータ・フレンドリー」(90)
これはサイバーパンクなのか? いえよく知りませんが。
むしろコードウェイナー・スミスの手触りを感じる。
とはいえ一種ハートウォーミングな話として読んでしまった。
「ソックス物語」(89)
奇妙な味風の小品。それ以上でも以下でもない。
「遺す言葉」(04)
アブラム・デヴィッドスンの晩年にインスパイアされた一種オマージュ作品らしいが、そんな知識は読む際には不要。これだけで自立した作品たりえている。
老作家が死に、地理的にも心的にも離れて暮らしていた娘が遺品整理に訪れる。すると本には夥しい書き込みがあり、室内のあらゆるものにはセロテープでメモが付された紙切れが貼り付けられていた。
冒頭で、死期を覚った老作家が「過去というわら束を櫛で梳くように細かく調べ直した」ことが記されているが、それに対応するのがこれらのメモなのだろう。
で、「それから30億回の鼓動を経た彼の心臓が」停止したとある。
30億回とは具体的にどれくらいの時間だろう。いちおう鼓動数と脈拍数は同じだと仮定する。
このHPによると「脈拍数は、正常成人で1分間に65~85です。しかし個人差もあり、とくに老人の場合は少なく、60くらいの人も多いのです」とあるので、老人ということで、仮に一分60回とすると、60×60×24×30=2592000≒260万回/月となり、30億÷260万≒1154月÷12月=96年となってしまう。 これはおかしい。この30億回は単なる比喩にすぎないのか。
いや、待てよ。
これは、この「30億回」はあるいは老作家の生涯時間を示しているのではないか。
そうだ。そうに違いない。そいえばよく見たら「それから」と「30億回云々」の間に読点があるではないか。
「それから、30億回の鼓動を経た彼の心臓の筋肉が疲れ果て(……)鼓動を止めた」
つまり、<それから、(彼の一生である)30億回の鼓動を経た(打った)心臓が止まった。
と読める。
ということで計算をやり直す。一生ということだから毎分60回というのは少なすぎる。
「正常成人で1分間に65~85」ということだから、
中間を取って75回とすれば30億÷(75×60×24×30)÷12=77歳。
80回ならば30億÷(80×60×24×30)÷12=72歳。
85回ならば30億÷(85×60×24×30)÷12=68歳、となる。
ちなみにアブラム・デヴィッドスンの享年は70歳だ。
大体合う。
それはさておき、「メモ」である。
たとえば冷蔵庫。冷蔵庫には「この大きな冷蔵庫! 何のためだ? わたしは老人で、料理もしないのに」というメモ紙。
そんな類のメモがいたるところに貼り付けられていて、娘はため息をつく。それらは死んで資産も愛情も何も遺さなかったはずの父親の存在感をありありと娘にもたらす。さらには蔵書に書き込まれた夥しいメモ。
整理し、売り払えるものは売り払い、引き取ってもらえるものは引き取ってもらおうと思っていた彼女は、次第に、これらはすべて手元においておくべきかもしれないと思い始める。整理に疲れ果てた彼女は、窓からするりと少年が忍び込んでくるのを見つけるのだが……。
死して肉体を消滅させてなお、その物理的なものではない何かを遺さずにはおかない(あるいはそう感じないではいられない)人間存在の不思議さが哀切に語られる。
○月×日
「遺す言葉」(承前)
昨夜来何度も読み返している。読めば読むほど面白い。
あの少年は何者か?
もちろん客観的には幻覚である。娘の、父親の遺品が何者かに持ち去られたのではないかという疑いを核に構成されたもの。他方内宇宙的には書物の化身であろう。
娘は「時間の物理学」の本を、(躊躇しつつ)どの「山」に「戻した」のだろう? おそらく「捨てる本」の山に、だ。
その、「捨てる山」が少年(少年時代の父親そっくりな)に実体化したのに違いない。
ではなぜ「捨てる山」に、彼女は「少年」を見たのか? 捨ててはいけないという「無意識」が見させたのだ。老作家の遺品はすべて捨てたり散逸させてはいけない。なぜならそれらの総体のなかにこそ「本の中に自分を分け与えていった」父親の「肉体なき」総体が宿っているのだから……。
だからこそ、捨てる山の化身は、捨てるという選択をした娘に襲い掛かる。
少年の死体が山に戻ったのは、娘の心の中で捨てる山が捨てる山ではなくなったからではないか。
娘は了解する。物理的時間は一方向にしか流れない。しかし「精神と心は(……)時間を超越する」
ところで、「機関誌」(112p)って何の機関紙? 季刊誌の変換ミス?
○月×日
「ライカンと岩」(91)
遠未来SF的な内容を民話のフォームに載せているんだが、それが実にしっくりと馴染んでいるのだった。
こういう話は大好き。実はオレもアイヌ民話(ウェペケレ)の世界観(世界設定)をダンセイニ風に料理できないかな、と思案しているのだが、こういう風に書けばいいんだな(^^; 訳文は民話的な雰囲気をうまく伝えている。この翻訳者はうまいのか下手なのか・・
「コンタクト」(81)
一読「夜の翼」というタイトルを思い出したのだが、内容を忘れ果てているので、何故思い出したのか定かではない。
ただ同様の感傷的な遠未来サイエンス・ファンタジーであることは確かで、たぶん「夜の翼」より出来はよい(内容は忘れているけど読後感は覚えているのだ)。
アメリカンSFのある傾向の典型的な秀作だろう。オレはこういう作品も大好きなのだ。
「スロポ日和」(78)
スロポという異星人は「ヘビ頭」と描写されているのに、なぜにイラストでは「ワニ頭」なのか。イラストレイターが勝手に想像でかいてはいかんよな。ヘビ頭では絵にならんと思ったのかな。(*)
内容は風刺SFで愉快愉快。われわれの社会が根源的にもつ隠微でありつつも産業構造に組み込まれた「経済を刺激する(……)遺伝情報の散布」の諸相が(その文化に外在的な)異星人を介することによってあからさまに嘲笑される。
風前の灯だった地球の運命が、かかる地球人類の特質によって当面危機を回避するのも皮肉でよい。
(*)初出のアメージング誌のイラストには登場もしない「おっぱいの大きな若い女の子」が描かれていたらしい。それをことさら取り上げて「気に入った」と書くのは反語的表現なのであって、やはり悔しかったんだろうと思うぞ。
○月×日
「春の悪夢」
なんとホラーである。ホラーであるからして描かれる対象は「超自然」現象である。超自然現象であるからして、因果論的解釈は不可能である。なぜなら超自然現象は小説世界を律するストーリーの流れ(時間的継起=因果関係)から独立的であり外在的であるからで(だから超自然現象なのだ)、したがって小説内世界は超自然現象とは断絶している。(*)
本篇でもラストの異様な結末は、小説世界内の因果律では説明できない。よって読者の[謎=解明]欲求(知の再編成の快感)は充たされない。ただ大脳旧皮質の本能的恐怖感が刺激されるばかり。というのはいかにも言いがかりに近いよな。だからホラーなんだって。
(*)所謂狂者を精神病理学的に「理解」しようとする態度は、その狂者と「私」の間は連続的であるという前提に立つものであり、SFと親和的であるといえる。一方、そういう迂遠な方法は効率的ではないとして、薬物を処方する立場は、すでにして当の狂者を「私」とは断絶した存在、「私」を含むこの世界の、世界内存在としての「私」とは別の存在(独立的・外在的)とみなすもので、狂者への共感的理解は最初から放棄されている。これは「ホラー」の小説作法と同断であるといえよう。これは言いがかりでもなんでもない。いいたいのは「だからホラーは詰まらない」ということ。
○月×日
「春の悪夢」(承前)
「遺す言葉」の<少年>は肯定しておいて、本篇の<ロッジの中の水死体>は認めないというのはどういうことか?
<少年>の出現は、「遺す言葉」の小説世界の内的論理からその出現を解釈できる。すなわち(たとえ外的に幻覚であったとしても)<少年>は歴とした小説世界内存在なのだ。
一方、本篇の<ロッジの中の水死体>は、その出現をストーリーから帰納できない。唯一考えられるのは主人公とその夫(?)の間の「危機」なのだが、本篇での描写のみでこのような超自然現象を出現させるというのはいささか唐突に過ぎる。それにはもっと切実な何かをもっと描写しなければならない。
「遺す言葉」では老作家の<奇行>の数々が描写し尽くされており、読者は切実さを充分に納得できる。
その差が、一方をNW-SFとし、他方をホラーにとどめる。
(つづく)
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