チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

魚舟・獣舟

2009年03月13日 22時23分00秒 | 読書
上田早夕里『魚舟・獣舟』(光文社文庫09)

 読み終わってまず思ったのは、酷薄苛烈であるな、ということだった。それは専ら作中人物に対する印象で、彼らの錯綜する複雑きわまる心理と行為には、読者が感情移入することを拒絶するものがあるように思われる。
 これは著者の作風が、単に口当たりのよいもてなし型のエンターテインメント小説ではなく、「リアリティ」すなわち小説世界に他者や社会が導入された別種のエンターテインメント小説であるからで、作者がこれを明確に意識して執筆していることは明らかだろう。

 もてなし型の小説では他者が存在しないので葛藤も起こらず不愉快な出来事も起こりえない。あるいは起こっても最終的に予定された想定の範囲内に収まる。それゆえ読者は羊水の中のように安心感にみちて、あー面白かったと本を閉じることが出来る。
 本書にはそういう安心感は微塵もない。無防備に主人公に心を重ねていると、とんでもないしっぺ返しを食らう。

 「魚舟・獣舟」では、人懐こかった美緒の片割れが成長し獣舟として浜に戻ってくる。しかし本篇はもてなし型の小説ではないので、その手の読者が期待する「想定の結末」は見事に裏切られる。主人公も最初から美緒の願いを聞き届ける気がない。非常に手前勝手である。美緒が死ぬや「一生獣舟を激しく憎み、最後の一頭まで殺し続けるだろう」(33p)と決意するのだが、そもそもそれ以前は獣舟を憎んでいなかったのかい、と突っ込みたくなる。しかしまあそんなものです。

 「くさびらの道」の主人公も、妹に殉じようとする恋人の前で、妹と父母のなれの果てを踏み潰す。これまた読者の安易な想定を木っ端微塵に打ち砕く行動といえる。苛烈というほかない。

 「饗応」はショートショートのためか、ちょっと色合いが異なる。幻想(?)の温泉巡りの描写はなんともいえない癒しがあってほっとさせられるのだが、ラストでは再び「現実」が姿をあらわす。

 「真朱の街」は幻想小説。本集中では個人的にもっとも気に入った作品。これまでの作品とはプロットが逆向きで、つまらない、しかし本人にとれば譲れない(しかしまあそんなものです)一線に固執したために友人を死なせた男が、友人の遺児を連れて一種の遍路に出、「真朱の街」で寛解を果たす。ある意味想定の範囲内に収まる話で、してみると私はもてなし型エンターテインメントを好む読者なのかも(汗)。

 「ブルーグラス」は、田中光二を彷彿とさせる海洋青春SF。甘酸っぱくてよい。想定の範囲に収まる。

 「小鳥の墓」は、300枚弱のノヴェラ。「火星ダーク・バラード」(私の感想文)の重要な悪役であるジョエルがなぜ火星に流れ着いたのか、その顛末を綴った若き日のジョエルの物語である。本篇にも、主人公はもとより一筋縄ではいかない登場人物たちが活写されていて簡単な割り切り読解を許さない。主人公を、ある意味導く役割を担った勝原の心の闇。主人公の父母もそれぞれに内面を抱え込んでいるし、重要ではあるが端役であるダブルE区の管理官にしてからが複雑な性格を担わされていて、簡単に読み捨てる訳にはいかない。

 以上、簡単に見てきたわけだが、結局のところ本集の最大の特徴は「リアリティ」があるということだろう。最近の日本SF界(作者-出版社-読者)に於いては、いわばポストモダン的に(マンガ的にともいえる)リアリティを軽視する作風をもてはやす傾向があると感じているのだが(それが必ずしも駄目だとはいわないにせよ)、著者の作風にはそれらとは一線を画する、よい意味で古きを継承する、ある意味70年代SFの再現が強く感じられた。これはよい意味でいうのだけれども、当時の「角川文庫」に並んでいそうな作風だなと思いついた。

 70年代風といえば、平谷美樹の作風がまず念頭に浮かぶけれども、そういえば何となく似ているところがある。それはやはり反ポストモダンの姿勢なのではないだろうか。
 あまりトレースしていなかった作家だったので、思いがけない掘り出し物を得たような気分になった。
コメント
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