ある方が言われた。膨大なデータが記憶できる→それらのデータから何か読み解くことができるか、分析という作業がはじまる→その結果として予測を策定してみる→現実は、予測通りにはいかないことを知る。
最近は、このようなことができるので、このようなことをしないと安心できないというか、弾き出された予測というものに一喜一憂してしまう。そもそも将来、未来が予測できているならば、そんなつまらないことはないでしょうと言われる。どうなるのか先が見えている人生など、死ぬその日までの道程が見えたとしたら、それで一巻の終わりとなるだけだ。
晴れと期待(予知)していたのに、雨となれば、倍以上、落ち込むことになるでしょうと言われる。それはデータ解析結果に依存しすぎるから起こるギャップの落差だ。毎日毎日が予測できない状況が生まれ、それに上手く対応、適応させていくことを、風流に人生を送るとなるのであって、風流という揺らぎが絶えず存在することが、至極自然なことなのだそうだ。計算しつくされた人生などなく、日々、揺らぐことが当たり前。その中で答えを導き出すこと、道を発見することの繰り返しが生きることだと説かれる。
運、不運もあったろう。予測・予知があろうと山頂へ出かけた人は出かけたはずだ。天命であったかもしれない。噴火の現場から、どういう道を探しだしたか。とどまる結論、危険承知で下山する選択。想像だにできない事態、岐路と人生。