現代今昔物語―自分流儀。伝承。贈ることば、子供たちへ。不変のストーリー

我が息子と娘へ伝承したいメッセージをというのがきっかけで、時代が違っても考えかたは不滅といった内容を新世代達へ残したい。

見栄を張る。

2014-09-17 | Weblog

地震があった。予知警報は出なかった。首都直下地震に繋がっているものかどうかの質問。可能性はなくはない。これから先、大地震の予兆か? それは全くわからないとのこと。想定外はだめなどとよく言われるが、現時点で、すでに何も想定できない状況だ。地震の超プロの言葉にして、正確な地震原因などわからない。世の中、そういうものだ。

朝日新聞問題。先の細胞問題と同じく、事実がなんだったのかが見えてこない。政府も官房長官談話についても見直す、見直さない、宙に放リ投げたままだ。よく中国、韓国で日章旗を振り回す輩が写し出されるが、果たして日本人自身による行動なのかの検証が報道されない。(自国によるやらせが、専らのうわさだが。)

一方で情報化が進むなか、わからないことだらけ。意図して隠しているのか。真実か、嘘か、噂か、憶測か。行方不明者の情報ですら、確実なのだろうか? 点と点がつながらない。

振り返れば、自分が10代後半から30代前半ぐらいまで、わからないことを素直に人にたずねられただろうか? 限られた少ない自分の独断だけの意見を吐いていなかっただろうか?まあ、そんな中でも、比較的わからないことをそのまま放っておくのが気持ち悪かったから、尋ねたほうだと思うが、それでも尚、自分大切で、見栄を張っていたように思う。独断と偏見かもしれないが、現在の20代を見ていると、なまじっかITがあるため、知ったかぶりが、自分の頃よりも多いのではと思ってしまう。わからないことが、わからないと感じる時もある。生身の人間から教えてもらうほうが、はるかに面白いのに、人からよりもPCから学ぼうなんてしていないだろうか? 自分はここが、これが、わからないですと、自分を1段階低く、落とす術を持っているのだろうか? かく言う自分も結構な突っ張り屋だったと思うが、全然、物事を判断するに、材料があまりにも少なかったことに今になって気づく。

見栄、意地、肩肘、全く張る必要なしだ。

気のせいかも知れぬが、欧州、南米アメリカ、中近東などの、様々な様子が紹介されるのを見るにつけ、「日本は自然豊か」と言われるわりには、逆に、「コンクリートジャングル」に加えて、「制約」・「しばり」の数々で、本当の意味で、「自然」 「自由」 とは縁遠いなあと、どこがどうのこうのとかじゃなくて、思ってしまう。大声で、「もっと自由に」 「もっとのびやかに」 「もっと自然に」 と叫んでしまいたい強い衝動にかられる。教育も、関わる者たち全員が、そもそもの発想、思考から、もっとのびのびと、物事を考えてみなければ、何も変わっていかないよ、と、伝えたいし、みんな教育者としてプロであるなら、世の中の空気や、この国の閉鎖性や、島国根性や、民族の歴史など、高いIQをもって学んできたのだろうから、1石どころか、100石でも、1000石でも、何百万という石ころでも、投じてみてよ。格好などつけなくていいから。見栄など張らなくていいから。世間体など考えなくていいから。