現代今昔物語―自分流儀。伝承。贈ることば、子供たちへ。不変のストーリー

我が息子と娘へ伝承したいメッセージをというのがきっかけで、時代が違っても考えかたは不滅といった内容を新世代達へ残したい。

そもそも、

2014-09-24 | Weblog

神戸市長田区の事件は最悪の結果となった。情報が乏しい中、批判することはできないと思うが、捜索にあたり人目につかぬ所、人が行かない場所ということで、動員していた警察官の捜索があまり及んでいなかったということが、シンプルに不可思議に思うことだ。そもそも、そういう所を重点的にとはならないのだろうか? こんな場所にはという風な先入観でもあったのだろうか?

ホワイトカラーエグゼンプションと聞きなれない言葉だが、要するに会社の幹部の方々には残業代を支払いませんというだけのこと。ブラック企業とかで、残業代不払いが続くが、企業側が、そもそも、残業を当てにしていること自体がおかしいのであって、どうな質の労働であっても、時間外労働ならば、それに応じた対価の支払いは履行されるべき。自発的だとか、サービス。。。うんぬんで、曖昧にすべきではない。法廷での係争時には、企業側は唯一のよりどころとして、就業規則を盾に取って、対応してくるのだから、その姿勢自体が、企業は就業規則以上、以下でもだいことを如実に示しているのだから。高い納税率をかけられる国では、働けど働けど、実際の見入り金額は多くなくなるので、当然の帰結として、残業することがなくなり、いわゆる日本で言葉だけが飛び交うワークライフバランスが取れることになる。

ラジオでブラック企業と言われている社長がMCをしている番組があるが、先日ゲストが人生を語っている時の相槌が、「うん、うん」 の連発。まるで、会社の中で部下からの報告を聞いている感じで、非常に耳触りだった。正直、その方に品格を感じたが、種類は下品格だった。端的に言えば、品性のなさを感じさせられた。「一体、あなたは何様?」 という思いが生まれ、非常に不快だった。おそらく、これはおそらくだが、そのゲスト自身の方も、そうのように思いながらも公共放送で流れているため、そのまま語り続けられたのだと推測するが、これはあくまでも小生個人の推測ゆえ、本音のところはわからない。

最近は価値観が多様化、多数の意向を聴く、少数の意見も採用しないと、などなど。すべての周りの言葉を集めるのは悪くはないが、さらに発せられた見解に、ありとあらゆるコメントを加えていくのもいいけれど、結局は、一番初めに何がしたかったのかわからなくなってきてしまって、議論したこと自体だけに有意義うんぬんで締めてしまう。これじゃなんのために時間を使ったのかわからないし、なんの新しい一歩も踏み出さない。

「そもそも」 ということで考えた場合、すでにやるべきことがある程度、明確になっていて、あとづけで、ごちゃごちゃ言い合っても仕方ないじゃないのと思うことが多々ある気がするが、どうだろうか? たとえば、例としてふさわしいかどうか、あたりさわりが少ないところで、運動会の順番づけがどうのこうのとか、運動会はそういう機会だから、本当に順番づけが嫌なら、本人の気持ちを聞いたうえで不参加とすればいいと思う。人生、いくつも順番づけがあって、運動会だけじゃない。

もし、日本が現在のシリア空爆に出撃していたら、国の中がまとまるのかなと思ってしまう。まとまらないのを恐れるから、参加しないのだと思うけれど、決して武力行使を容認しているわけでない。しかしながら、丸く収めたいと思うだけでは、何も解決しないと思うし、はっきりと堂々と考えを述べることが大切と教えることは、この国では必要と思うが、いかがなものか?

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