現代今昔物語―自分流儀。伝承。贈ることば、子供たちへ。不変のストーリー

我が息子と娘へ伝承したいメッセージをというのがきっかけで、時代が違っても考えかたは不滅といった内容を新世代達へ残したい。

PB vs NB

2014-09-11 | Weblog

約30年前ぐらいは、大都市ではコンビニ出現で、いろいろと話をしていた。コンビニで売っているものは割高だし、スーパーで買うほうが経済的だ、緊急で必要なものが出来た時以外は利用しない、品数が限られているし、とかとか色々言っていたものだ。また、大都市ではまだ店舗を実際に目にするので、そういう会話も成り立つが、地方都市では店舗すらないのだから、コンビニ論議が逆に腹が立つといった思いもしたものだ。この市場についても、様変わりしたものだ。ケータイやスマホと同じように、周りになければ、不便きわまりないといった会話などを耳にすることもあるぐらいだ。コンビニがあって当然みたいなものがある。

最近のスーパーでは、PB(プライベートブランド)製品が、そこそこ幅を利かせている。こちらも、流行した時期(やはり30年前ぐらい)があり、安くて消費者目線となったものだが、結局のところ、品ぞろえが限定されるので、消えていった。ここにきて、ひとつの市民権を得た風なところもあうが、今後、どうなっていくやら。根本的なところから言えば、納品しているメーカーからすれば、あえてスーパーブランドなど作らず、自分のところの製品をそのまま売ってくれればいいのにという思いが基本にあるはずだ。

PB(プライベートブランド)という言葉も、日本での造語で、英語として通じないと理解している。当時、イギリスでは、Owner's Label (オーナーズ レイベル)と呼んでいた。言葉は変遷するので、現在も、このような呼称を使用しているのか定かではないが。その後、OEM (Original Equipment Manufacturing / Manufacturer) という言い方に日本でも変わってきているが。日本で、PBに対抗する言葉が、NB (Natinonal Brand) となっている。このNational Brand という言葉も、なんかわかるような、わからないような言葉だ。各メーカーの独自製品という意味では、そちらのほうが私企業のブランドということで、逆にプライベートブランドとつけるほうがいいような気もする。それに対して、はっきりとスーパーブランドとかショップブランドとか言うほうが、はっきりしてわかりやすいと思うが、一体だれが、PBという表現を始めたのだろうか? その意味合いは何だったのだろう?

いずれにせよ、時代とともに変遷していくことを、特にここにきてスピード感をもって感じさせられる。PCの操作方法と同じように、あまりこだわらずに、すっと流しておくほうが、フラストレーションが出ないかもしれない。PCと共に、自分がフリーズしてしまっていることに気がつかないと、前へ進めない。

是非はともかく、8月6日に広島へ原爆が投下され、その実態についてわからないというおともあったろうが、その時点では何もアクションせず、9日に長崎へ原爆が投下されてから、降伏を決断していく。福島の原発事故が起きて、どこか別の場所で、同様の事故が起きたと推定した場合に、今のような、「しばらくは起こらないだろう」前提のもとでの、避難経路についても他人任せの状態を放置するというような、甘い判断とはならない気がするが、どうだろうか? 1回目だけだと、真剣にならず、2回目が続くと、真剣になるみたいな、楽観的に「まあ、いいか」的に、考えているふしはないのだろうか? 今、再稼働しか選択肢がないみたいな空気感を作ろうとしているが、非常に単純に、もういちど同じ事故が起きても、同じことを主張できるのですね、と念押しををするという、シンプルな発想はできないものだろうか? 「ここの部分をもう少し固めなきゃ」という観点があるのなら、それを押さえてからでも遅くはないような気がするが。本田宗一郎は、ケンカを怖れるな、ケンカ、意見の衝突を避けるな、と言っていたらしい。事なかれ主義か、付和雷同主義か、当事者意識の欠如か、責任逃れか、面倒くさがりなのか、とことん、徹底的に議論することに予算を使うことには誰も文句は言わないと思うが、しょうもないことに浪費するぐらいなら、必要なことには無制限に金をつぎ込むぐらいでどうなのか? その結果、大きな収穫がくるように思う。