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「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

郡上八幡城

2007-12-15 00:00:07 | 城郭・城下町
(積翠城 郡城 岐阜県郡上市八幡町 県指定史跡)
 永禄二年(1559)それまで郡上郡を領していた東氏を攻め落とし、代わって東氏臣であった遠藤盛数によって標高354mの八幡山に築城されたのが八幡城である。また、盛数の娘に、山内一豊の妻となった千代がいるとされる。(近江坂田郡飯村、若宮友興娘説あり)
  
 盛数の子慶隆は、後に織田信長に属し、天正十六年(1588)豊臣秀吉によって加茂郡小原城(白川町)移封させられる。代わって安八郡曽根城(大垣市)より稲葉貞通が四万石で入城、貞通は城郭の拡大を行った。然し、貞通は「関ケ原」で西軍につき、先の遠藤慶隆、飛騨高山の金森可重ら東軍勢に攻められ、再び遠藤氏の居城となった。
     (東殿山)
 慶隆、慶利、常友、常春と続き、元禄五年(1693)当主常久は早世であったため改易となった。代わって常陸笠間井上正任が五万石で入った。
   
 元禄十年(1697)正任の子正岑(まさみね)のとき丹波亀山へ移封、出羽上山から金森頼時が入った。延享四年(1747)頼時の孫頼錦(よりかね)は幕府奏者番(礼式管理)となり経費が嵩んだことで年貢に付加され、いわゆる宝暦騒動といわれる郡上一揆が起き混乱、宝暦八年(1758)改易となった。
 代わって丹後宮津より青山幸道(よしみち)が四万八千石で入り、本丸を麓の旧二の丸に移し、山頂の旧本丸は桜の丸、松の丸となった。そして幸完(よしさだ)、幸孝、幸寛、幸礼(ゆきのり)、幸哉(ゆきしげ)、幸宣と続き廃藩となった。
  
 
 昭和8年(1933)天守台に木造四層五階の模擬天守と隅櫓が建造された。本丸(旧二の丸)には岸剣神社、悟竹院が建ち、山内一豊と千代の銅像がある。また、三の丸跡には安養寺が建っている。

(関連記事:郡上街道八幡 郡上街道の水辺 旧八幡町庁舎

コメント (4)    この記事についてブログを書く
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4 コメント

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きれいですね! (kokeobasan)
2007-12-15 14:01:19
お城の白壁に紅葉の紅葉が見事に映えますね。

いつも、読ませて頂いて歴史の重みを感じます。

不勉強で、わからないこと、知らない事だらけでお恥ずかしい限りです。
以前、私の師に、「自分の国の歴史を知らなすぎる」とお叱りを受けたことがあります。
反省しつつも、相変わらず不勉強なままの私です。
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kokeobasanさん♪ (kourei)
2007-12-15 18:57:52
秋は山の美しさを一層際立てますね。

無知な私も、こうやって勉強させていただいております。
私は現地でいろいろ聞かせていただいたことをメモして、聞き書き日記として保管しているのです。
外国へ行って日本の良さを知るという手もありますが、まず日本を知ってからと思い、私も各地を巡っています。
同じ日本でも、地域によって違いがあるんだな~とつくづく思います。

また、富山地方のこともお教えくださいませ。
返信する
こんばんは! (みっちゃん)
2007-12-15 21:14:45
koureiさんこんばんは!

 郡上八幡城へ、良いときに行きましたね。白壁に、真っ赤に紅葉したモミジが良く似合いますね。
  
 それにしても、色々と、ご存知ですね。その上勉強家ですね。私は、何もわかりませんので、いつもkoureiさんの、ブログを見て、楽しませていただいています。これからも、色々と楽しませてね。
返信する
みっちゃんさん (kourei)
2007-12-15 22:25:03
こんばんは

の時期もいいと聞いたのですが、ナカナカ行けなくて、この時期となりました。
でも、私はこの季節のほうが好きです

いえ、私は何も知りません。
行ってから初めて知ることばかりです
また、そちらのことをお教えくださいね

昨日で八十八ヵ所やってました。
今年中には、墓参がてら愛媛入りをしたいと思っています。
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