小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

★★ 九番 小野小町 ★★

2014-09-11 | 百人一首
 平安時代の歌人です。六歌仙、三十六歌仙の一人。絶世の美女でありながら謎の多い人です。
その美しさから「小町」が美人の代名詞となっています。「うちのおばあちゃんね、××小町って言われたくらい昔は美人だったんだって」「へえ、信じられない~」ってな具合です。
 出羽郡司小野良真の娘で小野篁の孫との説もありますが真偽のほどは不明で、実名も履歴も一切わからないことからたくさんの説話が生まれたようです。しかし、歌は上手で相聞歌なども残っていますから実在はしていた、なのに実像は見えてこないという想像力を掻きたてられる女人であります。
 歌集に残された歌を辿ってみますと、仁明朝(833~850)に仕えていた女官であろうと推察されます。『古今集』には阿部清行や小野貞樹、文屋康秀との贈答歌が載っています。また、『後撰集』には遍昭との贈答歌が見られます。

 では小町の歌はどう評価されているのでしょう。紀貫之は「あはれなるようにてつよからず、いはば、よき女のなやめるところあるに似たる」と書いています。趣きがあって控えめで、悩みを持った貴婦人のような風情がある、ということでしょう。時代に先立って華麗な技巧と大胆な着想に富んだ歌を多数生み出しています。また、女性の立場から恋を情熱的に詠いあげた点が大きな特徴だとされています。
 これは平安女流文学の原点だといえます。さらに漢詩の表現が多く取り入れられているところから、豊かな知識を持った教養のある女性であったとも推察されます。
かぎりなき思ひのままに夜もこむ夢ぢをさへに人はとがめじ

小町はたくさんの恋をします。しかし、いつの世も男というのは多情なもので小町もずいぶんと枕を涙で濡らしたようです。その一方で百夜通ってきた深草の少々には最後まで靡かなかった頑固さも持ち併せていたようです。絶世の美女もいつかは年を取ります。その落ち着いた頃に昔なじみの小野貞樹と結婚しました。

今はとてわが身しぐれにふりぬれば 言の葉さへにうつろひにけり…小野小町
今の私はすっかり年を取ってしまいましたもの、あなたの言葉も心もかわってしまったことでしょう。
人思ふこころ木の葉にあらばこそ 風のまにまに散りも乱れめ…小野貞樹
君を思う気持ちが木の葉のように軽いものだったらとっくに風に吹かれて飛んでいってしまってるよ。

小町はゆるやかでしっとりとした数年を持つことができたのでしょうか。やがて、夫がこの世を去ります。その後のことは不明です。しかし、小町伝説は日本中の至るところにあるといっても過言ではないくらいに存在しています。
『玉造小町壮衰書』という漢文の本も書かれました。
 在原業平との恋の話ですが、この本の中の小町は美人であることを鼻にかけた厭な女で、そのために晩年は落ちぶれて乞食になって死ぬという設定になっています。
なぜ小町伝説が全国に散らばっているかといえば、物語を語って全国を歩いていた巫女や比丘尼が小町の逸話を持って放浪していたからだと思われます。語り継がれていくうちに脚色が進んで原型が消えていきました。美女への敵愾心や反発もあったのかもしれません。
 この語り部、比丘尼が旅先で亡くなって埋葬されると「小野小町の話をしていたおばあさんのお墓」がいつしか「小野小町のお墓」と呼ばれるようになっていったのでしょう。もしかしたら、小町は世界中で一番たくさんのお墓を持っているのかもしれませんね。
お墓があれば歌碑も建ちます。それが人情でしょう。句碑の多いのが放浪の俳人山頭火で500基以上ありますが、小町の歌碑もそれに負けていないのではないでしょうか。山頭火といえば彼が好むんだ山口県の川棚温泉にもお二人の歌碑と句碑がありました。丹後の大宮町には小町の像もありました。
 どこかに旅をするときには頭の隅に小町の像や歌碑のことを入れておくと楽しみもふえるかもしれません。

九重の花の都に住みはせて はかなや我は三重にかくるる
この歌が小町の辞世の歌だと言われています。



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