小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

☆☆ 三十八番 右近 ☆☆

2014-09-21 | 百人一首
  うこん(生没年不詳)

忘らるる身をば思わずちかひてし 人の命の惜しくもあるかな

 この人は十世紀はじめの藤原南家の右近少将季縄(季綱とも)の娘です。そこから右近と呼ばれるようになりました。彼女自身の名前は文献に残っていないようです。但し、恋多き女性だったらしく『大和物語』の八十一段から八十五段まで右近の話として載っています。
 醍醐天皇の皇后穏子に仕える女房で、元良親王・藤原敦忠・同師輔・同師氏・同朝忠・源順らと交渉があったことが遺された歌から窺えます。中でも右近が一番愛したのが権中納言藤原敦忠。敦忠は容姿端麗、歌人としても管絃の道にもも秀でた公達でした。しかも、左大臣藤原時平の三男という御曹司でもあったのです。
万葉集の四十三番の《あひみてののとの心にくらぶれば 昔はものを思はざりけり》が敦忠の歌として選ばれています。あなたと会ってからのことを思うと昔は悩み事もなかったことよ。そんな意味でしょうか。右近にとって敦忠は初恋の人だったのかもしれません。
《忘れじとたのめし人はありと聞く  言ひし言の葉いづちいにけむ》
…私のことは忘れないと仰ったあの方は今も無事でいらっしゃると聞いておりますのに何の音沙汰もありません。あの約束は一体どこに行ってしまったのでしょう。という歌が『大和物語』八十一段に右近の歌として出ています。
 敦忠は大変に女性たちにもてたようです。やがて、次々と違う女性と恋に落ちてゆきます。右近もまた前述の公達と交際をするのですが敦忠が忘れられませんでした。しかし、和歌がいくら上手でも相手が左大臣の御曹司となれば一介の女房にしか過ぎない右近にはどうすることもできません。そこで詠いあげたのが万葉集三十八番の歌でしょう。
 「いつかは忘れられる身であることも考えもしないで愛を誓った私たち。なのに心変わりをしたあなたにはきっと神仏の罰が当たるでしょう。でも、罰が当たってあなたが死んでしまうなんて、厭!」そういう意味でありましょう。切ないですね。
 敦忠の父は菅原道真を陥れた人でした。その為に道真の祟りを受けて一族がみな早世したと伝えられています。敦忠もまた三十七歳の若さでこの世を去りました。それを聞いた右近は気味がいいと思ったのでしょうか。そんなことはありますまい。きっと何日も泣き明かしたに違いありません。
コメント
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