小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

番外 十市皇女

2014-02-13 | 万葉集


とおちのひめみこ
653?~ 678
大友皇子の正妃
葛野王の生母

◇この時代、権力に近い男性は何人もの妻を持っていました。それだけ、生活力もあったのでしょうか。それはともかくその結果、多くの子供が生まれますね。この十市皇女も天武天皇にとってはそんな子供の一人なのです。しかし、生まれた子供は母親の出どころによって生まれたときから運命が決められていました。母親が天皇家や蘇我氏の出身であれば高い地位が約束されていました。

◇さて、ヒロインの十市。彼女は額田王の娘であることと高市皇子の彼女への挽歌三首が萬葉集に載っていることで知る人には知られています。つまり、萬葉集がなかったらここまで知られることはなかったのかもしれません。いや、もう一つ、歴史上に名前が残る理由がありました。それは壬申の乱の敗者である大友皇子の后であり葛野王を生んでいることです。でも、それだけでは系図の片端に名前が残る程度のことでしょう。やはり、額田の娘であることが大きな意味を持っているのだと思います。それは、未だに神秘性を持ち続けている萬葉初期の美しき才能豊かな歌人としての額田王への憧憬が大きいからということに繋がるのでしょう。

◇十市皇女は天武天皇と額田王の美しい初恋物語の結晶として誕生しました。十市が生まれたのは孝徳天皇を難波の都に一人置き去りにして天智、天武、斉明、孝徳の后の間人までが一斉に飛鳥に引き上げた年でした。天智は父天武の兄であり皇太子でありながら実際に政治を執り行っていました。十市には伯父さんにあたりますね。間人皇女は天智の妹で天武の姉ですから伯母さんです。そして、斉明は天智きょうだいの母ですから十市にはおばあさまです。


◇十市皇女は、多分、誰からも愛され、大切にされて幼女時代を過ごしたことでしょうが、その幸せに翳りが見え始めたのは持統と大田という二人の姫が父の天武の後宮にやって来たときからです。天智の長女と次女で同じ母を持つ、名門蘇我氏出身のお二人です。叔父と姪の関係になりますが当時は同じ母親から生まれた関係以外は結婚が許されていました。
 二人の姫が天武の館にやってくると母の額田の姿が消えていました。十市は5歳でした。額田は宮廷歌人として天智の元に召されたのだと聞かされますが、十市の心には母に捨てられたという一点で大きく深い傷が残されました。そんな十市を天武はいとしく常に気にかけ、妃の一人である尼子娘に世話を頼みました。尼子は十市より一つ下の高市皇子を生んでいましたから二人を双子のように分け隔てなく大切にお育てしました。二人は本当に仲良しでした。十市は尼子が母であればよかったのにと思います。
 宮廷の催し物などの席で額田と遭遇することがありましたが、儀礼的な会釈をしてすれ違うだけです。宮廷歌人としての重責を担っている以上、生活感を纏ってはいけないと額田は考えていました。また、突き放すことが十市のためでもあると。でも、十市にはそんな親心が理解できる筈もなく嫌悪感を募らせ、出会っても無視するまでになっていったのです。

翌年、持統の弟の建皇子が八歳で亡くなりました。言葉がしゃべれないこの皇子はおばあさま(斉明天皇)が不憫さから誰よりも大切に思われていたのです。そのお嘆きは深く、すっかり元気をなくされて、とうとう、三年後に後を追うようにお亡くなりになってしまったのです。十市はあおの雲の向こうでおばあさまが建皇子と楽しそうにお話されているのではないかと高市と二人で西の空を見上げるのでした。皇子の死からおばあさまの死までの間にはもう一つ怖ろしい出来事がありました。《有間皇子の変》です。

◇有間は父の孝徳帝(斉明の弟)が難波で寂しく亡くなられてからは飛鳥のはずれでひっそりと暮らしておられました。先帝の由緒正しい一人息子ということで、次期天皇候補としては最右翼。やはり、もの静かな方ですが大友が武道にも優れた男性的な静かさとすれば、こちらは和歌に秀でたやさしい静かさをお持ちなのです。額田はその和歌の才能を愛で有間の館に出向いては和歌談義をしていたようです。
 やがて、この皇子さまの様子がおかしくなってゆきました。あらぬことを言われたり徘徊をされたり意味なく大声で笑われたりされます。人々は「置かれた立場の重圧感からお気が触れてしまわれたのでは」とか「これで、皇位継承者の資格はなくなった」などと囁き合いました。しかし、天智は。狂気を装うことによってこちらを油断させておき寝首を掻くのではないのかと考えます。でも、有間が狂気を装わなければ生きていけないところまで追い込んだのも天智だったのです。

背後には藤原鎌足が知恵を出しては進言しています。天智と鎌足は大化改新以来の密接な関係となっています。額田の姉の鏡姫皇子のご主人なので十市には義理の伯父さんに当たりますが、十市は鎌足があまり好きではありません。でも、去年、不比等ちゃんが生まれたときの喜びようは大変なもので
吾はもや安見児得たり皆人の得かてにすとふ安見児得たり
と謳いあげていると聞くとそんなに悪い人ではないのかしらんとも思うのです。
天智と鎌足がお膳立てをしたといわれている《有間皇子の変》にはこうした事情が背後にあったのです。

鎌足が自分の忠臣に「有間さまこそ次期天皇にふさわしい正当性のあるお方です」と吹き込ませて、夜毎の密議の場を持ちました。この忠臣が蘇我赤兄です。
おばあさまが湯治に行きたいと言われるので、一族はたくさんの輿を並べて紀の国に向かいました。その間に赤兄が有間を謀反の疑いありと捕らえてしまい、馬にくくりつけて紀の国まで連れてきました。馬の動きに揺れる細い有間の姿を見たとき、十市は横に立つ天武の袖をぎゅっと引っ張りました。父上ならなんとかお出来になるのではないか、父上しか伯父様に奏上できる方はいないのですよ。袖を引っ張ったのにはそんな思いが籠もっていました。天武は悲しげに首をかすかに横に振ると、十市を抱き上げて真っ黒な愛馬に跨って大きな音を立てて鞭を当てました。

◇形だけの詮議の席で有間は「天知る地知る赤兄知る」とだけ言われて、それが終わると、都に帰されることになりました。よかったと十市はほっとしました。ですが、そんなに甘いものではありませんでした。途中の藤代という場所で絞首刑にされてしまったのです。 そのときのお歌が
磐代の浜松が枝を引き結び ま幸くあらばまた還り見む
家にあれば筍に盛る飯を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る

の二首。有間さまはご自分のさだめをお見通しでお歌まで用意されていたのでしょうか、そう思うと涙が止まらず天智への憎しみが増幅する十市でした。同行しなかった額田もその知らせを聞くと三日も自室に閉じこもっていたようです。
 十市はその後も 時々「天知る地知る赤兄知る」と呟いては高市にたしなめられるのでした。

◇斉明天皇が亡くなられたので人々は今度は天智が即位されるだろうと思っていたのですが、やはり、皇太子のままで妹の間人前皇后を中皇命になさりました。百済を助けるための戦いが忙しくて即位どころではなかったのでしょうか。
 戦には莫大な費用と兵隊が入り用でした。多くの人が愛する人を失いましたし、費用の捻出のために高い税金も取り立てられていました。その戦いも唐の国に大敗しました。庶民の怒りは大きく宮殿のあちこちに放火されているのがその証でしょう。民や貴族たちはこの戦いに「兄上は何を考えておられるのだ。民が困窮しているというのによその国を助ける余裕などあろう筈もなし」と終始、反対の立場をとっていた天武への期待を膨らませていました。
 お二人の間に見えない亀裂が入り始めたのはこの頃でしょうか。

◇長く病床にあった間人が亡くなりました。でも、まだ天智は即位されません。敗戦の責任と間人の死の悲しみが大きかったからでしょうか。天智と間人は同じ両親の子供でありながら兄妹以上に愛し合っていたそうです。片方の親が違えば許される愛もこればかりは許されることではなかったので即位を延期していらしたのかもしれません。
十市はふと高市を思いました。いえ、私たちはそんなんではない…それに、お母様が違う…。

◇天武の子供たちが毎年生まれていました。正妃の大田は大泊皇女と大津皇子、妹の持統も草壁皇子を生んでいました。その大田が病で亡くなりました。大泊は五歳、大津はまだ三歳で母を亡くしたのです。
 十市は自分が母に捨てられたのも五歳の時だったこともあってこの姉弟のお世話をよくします。やさしく接してくださった大田さまへのお返しでもありました。
姉の大田が亡くなったので持統が正妃の座に座りました。持統は天武が十市を可愛がるのは額田への未練の証であると思っていたのでしょうか、十市を憎んでいるようで、大田の子供たちと仲良くすることも面白くないようでした。

◇二年後、小市岡上に立派な陵ができあがり斉明と間人の母娘が合葬されました。そして、それでけじめがついたのでしょうか、天智は即位を表明して遷都を敢行します。
 新しい都は飛鳥からは遠い近江で琵琶湖のほとりに宮殿も貴族たちの館も建てられました。天武の館からの琵琶湖の刻移りゆく風景がひときわ美しく眺められました。
 十市は飛鳥との別れは悲しかったのですが琵琶湖のほとりに新しい何かが待っていてくれるような気もしていました。今で言う首都移転に伴う建築ラッシュ。近江は飛鳥から越してきた人たちの環境作りの槌音が響いて活気を呈していました。人々はみな近江には行きたくなかったのですが、都が移るのであれば仕方ありません。

◇新しい何かという十市の予感は当たりました。でも、それは十市にとって嬉しいものではありませんでした。天智の長男の大友皇子と十市を結婚させようという水面下での動きが現実となってきたのです。大人たちの幾重もの思惑がありました。一番強いのはやはり天智と天武の連帯感を強めることです。大友は母親の出身が低いことが天皇になる為の大きな障害になっていましたが、その人となり、頭の良さに人望の厚さは王者にふさわしいものと多くの人から見られています。
 額田にしても、娘を託すのはそのポジションからも大友以外は考えられませんでした。子供を生まなかった倭姫皇后は大友を我が子のようの可愛がっていましたし、額田にも目をかけていたので非常に喜ばれておりました。

◇天武にこの話を打診された時、十市は「どなたのご意向でしょうか」と尋ねました。天智伯父様からのお話であればお断り出来ないことは承知しています。でも、もし、父が天智だと答えたら拒絶するつもりでした。伯父様の意向に従ってばかりいる父に不甲斐なさを感じていたからです。
「そなたの母が、それを望んでおる」
 …私を捨てたあの人がどうして、大事なところに出てこられるの…父の答えに十市はそう思ったのでしょうが「あの人がそれを決めたのでしたら…仰せに従います」と、そうお返事したのでした。
 天武は十市の自分を捨てて行った額田への憎しみを感じながら大友の人となりを精一杯に褒める事でしか対応できませんでした。

◇こうして、比良の山並みが美しい紅葉を見せ始めた佳き日に大友皇子と十市皇女の婚礼が執り行われたのです。
 宴もたけなわを過ぎた頃、額田はそうっと抜けだし湖畔に立ちました。今は、ただ十市に幸せになって欲しいと祈るばかり。これでいい筈。お姉さまも太鼓判を押してくださった。宴席には鎌足と並んだ鏡王女が満ち足りた顔で座っていました。大友様にはまだ、ほかに妃はいらっしゃらない。…その時、ポチャン!という音がしました。続いて何度も音がして湖面に幾つもの水紋が広がります。周囲を見渡すと蘆の中に少年が一人、石を湖に投げ込んでいました。紛れもなく、それは高市です。高市は泣いているのかもしれない。額田は胸を衝かれました。天武と引き裂かれた自分の若い日が思い出されます。
近づいて行こうとすると、もう一人の少年が駆け下りてきました。目を凝らして見るとそれは鏡王女の息子の不比等でした。額田は見守ります。二人の少年は際限なく石を投げ続けていました。空は一面の夕焼け。額田はそっと踵を返しました。

◇年が明けると天智の天皇即位式が執り行われ、倭姫王が皇后となり、天武は皇太弟となりました。この時代は皇太弟が次期天皇になることも少なくなく、それを約束されたようなものでもありました。この人事?に二人の仲を案じていた人々は胸を撫で下ろしました。政治を行う上で最強のコンビなのです。しかも、鎌足が二人の背後に控えています。
まことに順調な天智朝の滑り出しでした。

◇その五月の節句の日。宮廷をあげての狩猟が蒲生野で開催されました。蒲生野は近江に近い安土の丘陵地帯にあります。それぞれが官位の色の衣装を身につけ、それはそれは華やかな催しです。男たちは馬に乗って鹿を追い出し、女たちは薬草を摘むのです。鹿は捕らえて角だけを取って逃がします。角も薬草も乾燥して薬として使用したのです。
 お天気もよくここかしこで華やかな笑い声が溢れています。
 十市も久々に晴れやかな顔で異母妹や異母弟たちと挨拶を交わします。額田譲りにの美しさに加えて新妻の初々しさが匂い立つような十市は人々の目を引きます。十市は高市の母の尼子が少しお年を取られたと心を痛めたりもしていました。高市が馬上から手を振っています。いけませんわ、高市さま。お舅さまに見られたら大変ですって…そう思った時、めまいがしてその場にしゃがみこんでしまいました。どのくらいたったのでしょうか。気がつくと左右から手が差し伸べられています。見上げますと、高市と大友の心配そうな顔がありました。高市の手を掴みかけた十市の手が宙で止まり、ゆっくりと大友の手を握って立ち上がりました。高市は何事もなかったかのように立ち去ります。
 その後ろ姿を見送りながら「私は大友様の妃なのです。公の席で夫に恥をかかせることはできません」十市は心の中で呟きました。この様子を別々の場所から天武と額田が心配そうに眺めておりました。
そして、その後の宴であの歌が披露されたのです。
あかねさす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや 君が袖ふる
紫のにほへる妹をにくくあらば 人づま故に吾恋ひめやも
かっての恋人たちの大胆な相聞歌は人々を驚かせました。天智を盗み見る者さえあります。十市はただただ呆れて、歌の素材となったことを悔しく思いました。でも、それが自分への警鐘であることもしっかりと受け止めています。この時、十市のお腹には新しい命が宿っていたのです。

◇翌年、十市は玉のような男の子を生みました。葛野王です。天智も天武も大喜びです。天智は大友の後継者が出来たこと、天武はこれで十市の行く末が安定するだろうと思っていました。十市はどんな母だったのでしょうか。まだ十七歳の幼い母です。
 夫には心を開けなくても、いや、それだからこそ愛しい幼い命を育む幸せの中に没入していったのではないかと思います。大友はそんな妻を暖かく気長に見守っています。

◇秋になって鎌足が亡くなりました。天智と天武の調停役だった鎌足の死は人々に大きな不安を与えました。天智は亡くなる寸前の鎌足をわざわざお見舞いし、大臣の位と「藤原氏」の姓を贈りました。このときから中臣から藤原氏が誕生したのです。不比等は十二歳になっていました。不比等の成長を楽しみにしていた鎌足にとっては予定外の早すぎる死だったのかもしれません。五十六歳でした。

◇年があけたお正月に大友は太政大臣に任命されました。左右大臣の上の位置です。それは実質的な皇太子である皇太弟が司ってきたポジションです。つまり、大友は天武と同等の 立場になったわけです。天武は鎌足の死を待っていたかのようなこの人事で兄の本音を見た思いをしたことでしょう。このままでは大友に天皇の座を持っていかれてしまいます。耐えに耐え、大事な娘を差し出してまで天智との協力体制を守ってきたのはなんのためなのか。これでは面目丸つぶれです。

◇持統も、また父を許せませんでした。これまで父が言いがかりをつけて粛正してきた何人もの顔を思い浮かべたかもしれません。身の危険すら感じるのです。それ以前に額田の娘を皇后として崇めなければならないなんて、絶対に許すことはできないのであります。
 十市もまた父の胸の内を思って葛野を抱きしめながら涙ぐんでおりました。夫を責めても仕方ないことです。白皙なあの伯父に逆らうことは誰にもできない…大友様、どうしてあなたはそんなに賢くお生まれになったのですと恨んでみてもどうにもなりません。天智以外の誰もが改めて鎌足の存在の大きさを感じて詠嘆するのでした。

◇その夏あたりから天智の体調が崩れ始めました。これだけ理性的な人も寿命の限界を知らされてくると我が子へ権力継承に執着するものなんですね。天智の迷いを後押ししたのが有間皇子を策略に落とした蘇我赤兄です。心が弱くなってくれば美味しい言葉がなによりの薬になるのでしょうか。二人は大友の行く手を阻む天武の殺害を相談していたのかもしれません。大友の言動からそれを察知した十市は居ても立っても居られない思いでした。敷居の高い実家に葛野を見せる口実で何度か訪ねて行ったのかもしれません。また、どんな組織であっても必ず裏切り者は出る者ですから、天智の意向は天武側に筒抜けだったのかもしれません。

◇秋の半ば、天武は「今後のことで相談がある」と天智の病床に呼ばれました。天武の館に緊張が走りました。大友から聞かされた十市もあの伯父様のこと、ご無事でお帰りになれるのでしょうかと自室に閉じこもって神仏に祈りを捧げるばかりです。立場上、大友は父の枕頭に座していなければならず苦渋の表情を浮かべて天智の病室に向かいました。

◇病室の控えの間では何十人もの紫の袈裟を纏った高僧たちが読経しています。 病室は重々しく、ものものしい雰囲気に包まれていました。天武は刀を入り口に控えている男に渡しました。病室では人払いがされ大友も外に出されました。
 天武を見ると天智が手を伸ばします。「あとのことは頼む。わたしの寿命はもう残されていない」その手を包むように握って「何を言われます、兄上。皇后に皇位をお譲りなさいませ。大友皇子がお助けしましょう」と進言します。「いや、次はお前の番だ。この国を頼む」「わたくしは出家をいたし、兄上のご快癒を吉野の山で祈るつもりでご挨拶に参上いたしました」そう言って退出すると大友と額田が待っていました。天武は「十市を頼む!」と言うと急ぎ足で内裏の仏殿に向かいました。急がなければいつ刃が飛んでくるかもしれないのです。

◇十市も落ち着いていられません。ぐずる葛野を抱いて露台から湖をみていました。そこへ、大きな足音がして天武がやってきました。十市はびっくりしました。天武の頭は丸坊主で袈裟まで着ているのです。
「よいか、よく聞け。父は吉野で僧侶の修行をすることにした。案ずるな。そなたの夫は次の天皇。立派な男だ。よいな、どこまでも大友皇子についてゆくのだ。母の真似をして二人の男を愛してはならぬ」じっと目を見て言われました。そして、葛野の顔をのぞき込んで「いい子に育つのだぞ」そう言うと衣の裾を翻して風のように出て行かれたのです。
 十市はあまりのことに呆然としていましたが「わたくしも吉野にお供しとうございます。どうか、ご無事で」と葛野を抱きしめて嗚咽していました。

◇僧となった天武はその日の内に手元の武器を集めて朝廷に差しだし、翌日には近江を出て吉野に向かいました。同行者は数人の舎人と草薙を抱いた持統だけでした。大勢の妃や子供たちは館に残されました。みな不安な思いでいっぱいだったことでしょう。
 追撃の兵は現れませんでした。武器を持たない一行を討つのはまことに簡単なことでしょうに、天智の気力がそれだけ弱っていたのか、それとも、父の命を大友が実行しなかったのか定かではありません。ここも歴史の大きな分かれ目と言えましょう。
 天武の隠然たる勢力は予想以上に大きくなっていました。「虎に翼をつけて放ったようなものだ」と人々は成り行きを眺めていました。中には早々に飛鳥へと戻っていく人々もいます。
 病床の天智は大友と赤兄など重臣を集めて「心を合わせて大友皇子を守ろう!」と二度までも誓わせました。それは天智の力の限界を示すことでもあったのですが、死に行く身には後のことが心配でならなかったのです。
 十市はそうした動きを逐一を書いては、琵琶湖で捕れた鮒のお腹に詰めて吉野に送っていました。額田に見つかって強く叱責されてもやめませんでした。いつ、猜疑心の強い天智伯父の追っ手にやられるかもしれない父に無事であって欲しいとの一念でした。

◇天武が去った二ヶ月後、とうとう天智が波乱に満ちた四十六年の生涯に幕をおろしました。さあ、これからが大変です。朝廷では必ず天武が襲撃してくるものと迎え撃つ準備が進められました。
この時、大友の天皇即位が行われたかどうかは不明ですが、近江朝廷での最高司令官なのです。そして、朝廷に刃向かう物は朝敵です。賊軍は討伐しなければなりません。朝廷では天智の山陵を作るという名目で人夫を大勢集めて武器を持たせ、迎撃に備えます。
こんなことも十市は父に知らせていました。高市も情報を収集してはなんらかの形で伝えていたのでしょうが、総大将の妻である十市の方がなんといっても正確で情報量も多かったのです。しかも、大友は聞かれればなんでも答えてくれるのです。なぜ、敵方の大将の娘である妻に語ったのか、十市は夫の胸中を考える余裕はありませんでした。戦いに敗れたら父も高市も大津も弟たちは誰一人生き残ることができない。その思いでいっぱいだったのです。

それにしても、天武と大友は二人で話し合うということはなかったのでしょうか。いわゆるトップ会談。舅と婿の関係でもありますのに。大友が太政大臣にされたときからそれぞれの取り巻きが会わせないようにしていたのでしょうか。関わる大勢の人々の思惑のような物がお二人をそうした立場に押しやっていったのかもしれませんが。
 壬申の年の春がやってきました。大友は十市に葛野と共に美濃の庄でしばらく保養しておいでと勧めました。 十市は「お側においてくださいませ」と首を横に振ります。大友は無理強いをしません。 夫の心遣いに十市は戦いの鬨の声を聞いたような気がしました。
 果たして、春が過ぎて雨が続く真夜中、甲冑に身を固めた高市が十市の寝所に忍び込んできました。いよいよ天武が蜂起の手筈が整ったので吉野に馳せ参じると挨拶にきたのです。近江方に見つかれば大変なこと。その間隙を縫って会いに来たのは今生の別れを覚悟してのこと。
「父上は必ずお守りいたします。そして、決着がついたらお迎えにあがります。必ずや、お待ちください」「おのこであればわたくしもご一緒に馳せ参じることができましょうものを、この身が厭わしゅうございます。どうか、どうか父上をお守り下さい。そして皇子さまも…」高市はみなまで言わせず、ぎゅっと十市の両手を握りしめると入ってきた露台から飛び降りて姿を消しました。

◇ほどなく、宮殿内の大広間に集まるようにとの伝言が回ってきました。大友が招集をかけたのです。湖面が見渡せる大広間には天智と天武の妃たちが不安そうな顔をして座っていました。額田もいます。十市は母がどちらの立場でここにお座りなのだろうかと思いながら上座に向かいます。今や皇后という立場ですから上座に着くのは仕方ないことでした。
 天智側の席には姪娘、橘娘、常陸娘(赤兄の娘)、色夫古娘、黒媛娘、道君伊羅都売、伊賀采女宅子娘(大友の母)たちが天智の皇后倭姫王を囲むように座っています。
天武の妃たち、大江皇女、新田部皇女、五百重娘、尼子娘(高市の母)ほかに加えて十二歳の大伯皇女も固まって座っています。弟の大津は天武の陣地へと既に脱出していました。
 この女人の集団の中でも十市は孤独でした。どちらの席にも座る資格がありながら一人で座していなければならないのです。額田も複雑な立場ではありましたが、今は十市の母でいようとお側に座り「大友様のお妃であることをお忘れになりませんように」と囁きます。「わかっております。でも、わたくしがついていなくても大友様はお勝ちになります」十市はキラリとした瞳で額田を見返しました。額田もあの天武が負けるはずがないと思いながら黙ります。

◇そこへ、大友がそそくさと入ってきて、十市の横に座りました。「戦いの勝敗というものは予測がつかない。兵火はこの宮殿には及ぼさせない。今回の争乱にはここに居るすべての女人たちに類は及ばないであろう。ここで静かに兵火の鎮まるのを待って居て欲しい。数日の内に平和な日々がやってくる筈だ」それだけ言うと慌ただしく席を立って行かれました。数日の内?十市は動悸の高鳴りを覚えました。あの方は、我が背の君は何をなそうとされているのでしょう…。額田が十市を見つめています。その夜、十市はまんじりともせずに大友を待ちました。
 大友が戻ってきたのは夜更けでした。明日の出陣を控えての最後の軍議が長引いていたのでしょう。十市は支度してあったお酒を差し出しました。静寂の中、早起きの鳥の囀りが響いてきます。
「戦いたくない」大友がぽつりと言いました。「だが、戦わなければ先には進まない。わたしは負けるだろう。あの叔父上に勝てるわけはない」
 大友は世の中の混乱を終結させるために戦うことにしたのでした。「心配するな。そなたは叔父上の大切な娘。叔父上は寛大なお方だ。女人たちはお守り下さる。葛野のことは頼むぞ…こんな時代でなく生まれていれば、そなたとも共に暮らせたものを…それが心残りでならない…」十市は涙を堪えることが出来ませんでした。その時、十市は初めて大友の妃になれたのでした。
 夜が明けると、いよいよ出陣です。宮殿の女たちはみな大門の前で武具をつけ、馬に跨った男たちを見送ります。総大将の大友の凛々しい姿はひときわ立派で、それが十市にはいっそう切なく思われて、葛野に父親の姿を覚え込ませようとでもするように馬上の大友に近づいていきました。大友はしっかり幼い息子を抱き上げます。そして、出発の合図と共に出ていってしまいました。

◇宮殿の大門は固く閉ざされ大勢の屈強な兵士たちが守っています。大門の外からは合戦の雄叫びが聞こえてきます。風の向きによって近く遠く、時にはかき消されて…女たちはまんじりともせず各自、自分たちの部屋に閉じこもって思いに馳せ、祈るなどしていました。十市は葛野を連れて大友の母の伊賀宅子の部屋を訪ねます。思いがけずも今上天皇のご生母さまにまでなってしまったものの、その息子が今は戦場を駆けめぐっている。もし、負ければ息子も自分も謀反人として断罪されるのです。目下の所はあちらが謀反人ですが、負ければこちらが賊軍となります。いや、そんなことはどうでもいい。我が誇りであった 息子大友の無事をひたすら祈っていました。
 歴史の表には出ては来ないですが、こうした大きな悲しみと葛藤を抱えた女性たちがどれほどたくさん存在したことでしょう。その一人一人にドラマは存在しています。

◇二日目の深夜。二人の武人が十市の部屋にやってきました。額田が目立たないように端の方に座しています。一人の武人が大友の自刃を伝えました。十市の体が揺れました。もう一人が「お妃様に於かれましてはくれぐれもご短慮のなきようとの父天武様からのおことづけでございます」と申します。
 父上が勝利者…そして、我が夫は自害…めまいしそうな体を額田が支えようとするその手を払って「父…天武様にお伝え下さいませ。わたくしの命は天のお裁きに任せております。天はわたくしを必ずや裁くでしょう。そのお裁きがあるまで大友の遺児、葛野の母としてのみに生きてまいりますと」申しました。武人は意味など考えないで二度小声で復唱すると退出していきました。
 十市は崩れそうな体を支えるように立ち上がり「このような時だけ母の顔をするのはおよしください。わたくしは葛野の良き母となります」言い捨てると部屋を出て行きました。この時、額田は初めて自分への固い憎悪の固まりが十市の生きる糧であったことを知りました。

◇一ヶ月経ちますと大友をそそのかした重臣八名が死刑となりました。赤兄は死罪を免れて流刑です。裁きはこれだけで終わり、その人数の少なさに人々は改めて天武の懐の深さに感じ入るのでした。
この戦乱で天武方の大将として大活躍した高市が迎えに来ましたが十市は会いません。今は、亡き大友への罪の重さで胸がいっぱいでした。それがある内はどんなに高市が慕わしくてもその胸に飛び込むことはできないのです。

◇閉じられたままの大門が開かれたのは十二月に入ってからでした。どんよりとした小雪の舞いしきる中を開かれた大門から次々と御車や輿が出ていきます。天武が天皇に即位するために飛鳥への遷都が決まったのです。懐かしい大和へ帰ることが出来る。女たちに少し元気が出ました。でも、十市の顔は曇ったままで葛野を大切そうに抱いて御車に乗りました。近江は四年あまりの短い都、十市にとっては結婚から夫の自害までの舞台でありました。飛鳥に戻れば大友の霊からの解放が待っているのでしょうか。
 きらびやかな御車や輿が次々と大門を出ていきます。額田は女人最後の輿の人になります。もう、朝廷でも母としてでも自分の役目は終わったのだと、万感の思いを込めて雪にけぶる宮殿を振り返るのでした。

◇戦後処理を済ませ、新しい宮殿、飛鳥浄御原宮が完成して天武は天皇に即位し持統が皇后に立ちました。新しい宮殿には十市と葛野母子のための立派な部屋が用意されていました。 額田は十市が新宮殿に落ち着くのを見届けると静かに姿を消しました。また、天智の大妃であった倭姫王は髪をおろして志賀の山寺の尼僧におなりでした。
 懐かしい飛鳥の山々は十市の心を癒してくれたのでしょうか。静かな日々が流れていきます。日々成長する葛野の姿が慰めとなっていたのでしょうか。しかし、十市は今や賊軍となった近江方の大将の妻であり葛野はその息子です。生かされていること自体が普通では考えられないことでありました。特に持統は額田母子への積年の憎悪や、葛野が正当な皇位継承権を持っていることからなんらかの処分を夫の天武がしないことを不満に思っていました。
 天武は自分たちの都合でこうした立場に追い込んでしまったことで胸を痛めていました。危険を冒しひそかに送ってくれた近江方の情報もどんなに有り難かったことか。好き合っているのであれば高市に再嫁させてもいいとまで思っていました。高市はまだやっと二十歳ですが、この度の争乱でのめざましい働きでどれほど助けられたかわかりません。草壁や大津がいるので皇太子にすることはできませんが、新体制を強化し天武体制を樹立するためには右腕となってもらわなければならない皇子なのです。まだ妃も持たぬ身であれば娶せることで二人が幸せになるのならこんな嬉しいことはないのです。

◇翌年、十市は父の名代として伊勢神宮への参詣に行きました。伊勢神宮は天武が蜂起した折に勝利を祈願した漁村の小さな神社でしたが、ご加護をくださったと立派な神社に改築して事あるごとに天皇家が参詣する神社となっていました。この時は高麗からの貢調物を献上するための参詣でした。気晴らしになればという天武の心遣いだったのでしょう。
 この時、立ち寄った神波多神社に参詣したとき
霰降りいたも風吹き寒き夜や旗野に今夜(こよひ)わがひとり寝む
十市は自らに禁じた歌を作っています。おそらく亡き夫が自害した山崎にお忍びで行ったときに作ったものではないかと思います。荒涼とした風景の中に大友の亡骸の幻を見たのでしょう。十市の中で日々、大友の面影が大きくなっていってました。夫を死に追いやった自分は幸せになってはいけないと思っていました。
 翌年は阿閇皇女(あへのひめみこ:後の元明天皇)とともに伊勢神宮に参拝します。この時、侍女の吹黄刀自が十市を慰めるために詠んだとされる歌が万葉集に収められています。
河のへの斎つ岩群に草むさず常にもがもな常処女にて
いつまでも清らかな乙女のようであってくださいと励ましているのでしょうね。

◇高市はついに十市にプロポーズしました。ですが「葛野の母として生きてまいります」と断られます。傷ついた高市に持統がここぞとばかり異母妹の但馬皇女を娶らせました。心が十市に向いている夫では面白くなかったことでしょう。
 断りはしたものの、やはり、十市は寂しかったのでしょうね。女心というものでしょう。望めば復縁もできるのですが、それには大友への罪悪感に阻まれます。見かねた天武は十市を斎王にすることにしました。神に仕えていれば心も安らぐであろうという親心からでした。
 斎王というのは天皇に代わって神に仕えるのが仕事です。慎んでお受けします。そう答えた十市の胸中に去来していたものは何だったのでしょうか。この部分でも諸説ありますが、神に仕えることを自ら選んだのではないかと想像しています。
 出発の朝は初夏を思わせる風が吹いていました。準備万端整ってあとは十市が出てくるのを待つばかりという段になって、十市の急死が伝えられました。あまりの突然のことで自殺説が有力ですが、真実のほどはわかりません。
 二十七歳の若さで歴史の波に翻弄されて亡くなった十市皇女。乗る筈だった御車がいつまでも主を待っておりました。

◇知らせを受けた高市皇子の衝撃、そして深い悲しみ。それは三首の歌として萬葉集に収められています。
三諸の神の神杉夢にだに 見むとすれどもいねぬ夜ぞ多き
三輪山の山辺まそゆふ短かふゆ  かくのみゆゑに長くと思ひき
山吹の立ちよそひたる 山清水  汲みに行かめど道の知らなく

 山吹の黄色い花と泉。黄泉の国の象徴です。高市は愛する人を黄泉の国までも追いかけて行きたいと悲痛な思いで叫んでいるのです。後生において十市皇女が山吹の常乙女と呼ばれるのもこの歌からでしょうか。

✿✿✿✿✿✿✿✿✿✿✿✿
 万葉歌人ではありませんが、番外として十市皇女を加えました。この方は目立たない存在ですが「壬申の乱」の小さな、けれども大きな要であったと思います。いつか、小説に書いてみたいほど好きなんです。わたしには妄想がいくらでも膨らんでいくお方なのです。
 




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但馬皇女

2014-02-10 | 万葉集

たじまのひめみこ
?~708

◆天武天皇の皇女で母は氷上娘(中臣鎌足の女)です。高市皇子の元に嫁がされましたが、皇子の心は十市皇女のことでいっぱいです。同じ異母妹という立場でもあり、しかも年上の子供まである女のどこがいいんだろう…但馬としては面白くありません。悲しくも悔しくも思ったことでしょう。そんな憂い顔の新妻である但馬に同情して優しい言葉をかけてくれたのが、夫と同じ父を持つ異母兄である穂積皇子でした。急速に但馬の思いは穂積に傾いていきました。

今朝の朝明雁が音聞きつ春日山 もみちにけらし 我が心痛し
言繁き里に住まずは今朝鳴きし 雁にたぐひて行かましものを

「今朝、明け方に雁の声を聞いた。春日山はもう色づくころだろう…私の心がこんなにも痛むのはなぜなのだろうか」と穂積が謳えば、但馬はさらに激しく「口さがない里になんか住んでいないで、いっそのこと、今朝鳴いていた雁に混じって、どこかに飛んでいってしまいたい」と返歌をしてます。こんな二人の熱愛ぶりは宮廷中に知れ渡り噂の的になっていたのでしょうね。

ひとごとを繁み言痛みおのが世に いまだ渡らぬ 朝川渡る

◆密通がばれた時に但馬が作った歌です。あんまり人がうるさく言うものだから、生まれてからまだ一度も渡ったことのない夜明けの川を越えて私の方から逢いに行くのです、と開き直ってます。
夫の高市はどう思っていたのでしょう。気が楽だったのか、面子を潰されたと思っていたのか、無関心だったのか想像がつきません。ですが、持統は気を揉んでいました。前途ある穂積の身を心配していたのかもしれません。穂積の母は蘇我赤兄の娘でしたから実家がらみの身びいきがあったとも考えられます。

◆穂積は大津の崇福寺という大寺へ勅使として派遣されました。持統の引き離し作戦が実施されたのです。しばらく離れさせて頭を冷やせということでしょうか。こうなれば、燃えさかるのが恋という名の炎です。逢えない切なさとやるせなさが二人の心をより近づけます。
後れ居て恋ひつつあらずは追ひ及かむ道の隈廻に標結へ我が兄

 後に残されてしまったけれど、ひとりで恋い焦がれてなどいないでいっそのことあなたの後を追って行きましょう。私が迷わないように道の曲がり角に印をつけておいてくださいね、愛しいあなた。
いじらしく激しい思いが伝わってきます。

◆西暦702年に持統天皇が崩じ、穂積は飛鳥に戻ってきました。二人の恋はまだ続きます。天武の皇子ですから持統が亡くなったこともあってか、高市に次ぐ人材として右大臣に準じる地位まで昇ります。自分の妻の不倫相手であり、異母弟でもある穂積と政策の話をする高市。どんな雰囲気だったのでしょう。
 ですが、燃え尽きたのでしょうか、但馬は708年の夏に亡くなってしまいます。多分、病死なのでしょう。その死から半年後の冬に彼女のお墓を遙かに望んで悲しんで作られたという穂積の歌も萬葉集に載っています。

降る雪はあはにな降りそ 吉隠(よなばり)の猪飼の岡の寒くあらまくに

 雪よ、そんなに降らないでおくれ。あの人の眠る猪飼の岡が寒いだろうから…。
 亡くなってしまった恋人への思いがしみじみと伝わってきますね。

◆穂積はその五、六年後に、石川郎女の娘の大伴坂上郎女と結婚しますが二年後には亡くなってしまいます。大伴坂上郎女はまだ十代の若い妻でした。若いだけに人生のやり直しはできます。この後、華やかに歌人として史書のあちこちに名前を残すのです。
 一方、但馬皇女は幸せなマイホーム暮らしこそは手に入らなかったでしょうが、不倫とはいえ、素晴らしい恋を獲得しました。そして、そこから生まれた美しくせつない歌を残すことで永遠に語り継がれていくのです。
 恋一筋に生きてあの世に旅立っていた但馬皇女の生き様に羨望を覚えるのは私だけでしょうか。

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大伴坂上郎女

2014-02-07 | 万葉集

おおとものさかのうえのいらつめ
700?~750?

◆父は大伴安麻呂、母は石川内命婦です。坂上郎女之母石川内命婦と石川郎女が同人と解釈され…れます。異母弟が稲公で大伴旅人の異母妹に当たります。さらに家持の叔母でもありと歌に関しても名門ですね。さすがに、萬葉集の中で3番目(84首)に多い作品が載ってるだけのことはあります。まあ、編者の母代わりだったこともあるのかもしれませんが。
 十五歳で天武天皇の息子の穂積皇子に嫁ぎますが、十七歳くらいで未亡人になります。今城王を生んだとも言われていますが、あり得ないと説く学者もいます。穂積はかなり年上で、しかも死んだ恋人(但馬皇女)をずっと思っていた節がありましたので、あまり幸せな新婚生活ではなかったのでしょう。
 穂積に先立たれてから宮廷にとどまって命婦として仕えていました。この頃、後の聖武天皇とおつきあいがあったらしいのですが後宮に入るまでではなかったので、良いお友達だったのかもしれません。

足引の山にし居れば風流(みさを)無み 我がするわざを咎めたまふな
にほ鳥の潜づく池水心あらば 君に吾が恋ふる心示さね
よそに居て恋ひつつあらずば君が家の 池に住むとふ鴨にあらましを

◆聖武天皇へ献上品に添えた歌のようです。内容から想像するとかなり親しいように感じられますね。
 宮仕えをしている内にやがて恋人ができました。藤原麻呂です。麻呂は藤原不比等(鎌足の息子)の四男で藤原京家の祖です。母は鎌足の女で天武夫人だった五百重娘。異母兄に武智麻呂・房前・宇合、異父兄に新田部親王がいます。しかも、文武夫人の宮子と聖武皇后の光明子は異母姉妹にあたるという超大物!

蒸衾柔なこやが下に臥せれども 妹とし寝ねば肌し寒しも
来むと云ふも来ぬ時あるを来じと云ふを来むとは待たじ来じと云ふものを

 お二人の相聞歌です。蒸衾(むしぶすま)とはお布団のことです。いいですねえ。大伴坂上郎女の歌には恋を楽しむ余裕すら感じて羨ましい…。

◆しかし、何事にも終わりはあります。養老のはじめ(718頃)に始まった麻呂との恋は養老の終わり頃(721)に終焉を迎えたようです。720年に不比等が亡くなり、翌年には天正天皇もあの世へと旅立たれましたが、こういうこともなんらかの関係があったのかもしれません。その後、めでたく異母兄である大伴宿奈麻呂の妻となりまして、坂上大嬢(おおとものさかうえのおおいらつめ・後に従兄である家持の正妻になります)と二嬢(おおとものさかうえのおといらつめ・大伴駿河麻呂の妻となった?)を生みました。
 田村の里は今の法華寺付近ですが、この結婚で夫と同居していたかどうかは不明です。といいますのも旅人を追って大宰府に下向したり、佐保・春日里・竹田庄・跡見庄など、各所で歌を詠んでいることが万葉題詞から窺えるからです。当時にこれだけ各地を旅することができるのは、もしかしたら、夫の宿奈麻呂が早くに亡くなっていたのかもしれません。

◆いずれにしましても晩年になるにつけて益々輝いて生きた人のようです。一家の刀自(主婦)として、また大伴氏の巫女的存在として、また恐らくは家持の母代りとして等々。しかも、額田王以後最大の女性歌人であり、万葉集編纂にも関与したとの説が有力。しかも、全体でも家持・人麻呂に次ぐ第三位の歌の数を誇ります。相聞の多くは社交性・虚構性の強いものが多いとといわれてますが、実生活ではそうしたものを必要としない満たされたものであったことの証明のように思います。詠嘆する素材がない。従って、フィクションの中で謳いあげていく。つまり、それだけ才能があったということになるのでしょう。
 でも、萬葉集に史実を求める人たちにとっては、やっかいな歌人なのかもしれませんね。
 最後に、五首、お気に入りの歌を書いてみます。あなたは、どの歌がお好みでしょうか。

黒髪に白髪交じり老ゆるまで かかる恋には未だ逢はなくに
心ぐきものにぞありける春霞 たなびく時に恋の繁きは
岩根ふみ重なる山はなけれども 逢はぬ日数を恋ひやわたらむ
我が背子が着ける衣薄し佐保風は いたくな吹きそ家に至るまで
思はじと言ひてしものをはねず色の うつろひやすき我が心かも



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光明皇后

2014-02-05 | 万葉集

こうみょうこうごう
701~760
藤原安宿媛・光明皇后・藤皇后
皇后在位 729~749 皇太后在位749~760

◆藤原不比等の娘で母は県犬養橘宿禰三千代。武智麻呂・房前・宇合・麻呂・文武夫人宮子の異母妹にあたり、夫の首皇子(聖武天皇)は同い歳の甥でもあります。ややこしいですねえ。首皇子(のちの聖武天皇)との間に阿倍内親王と基親王が生まれました。
 子供の頃は安宿媛(あすかひめ)と呼ばれていたのでしょう。光り輝くほどに美しかったというところから740(天平12)年頃に光明子と呼ばれるようになったらしいのですが、真偽のほどはわかりません。
 不比等の娘に生まれたことで運命は決まっていたのでしょう。姉の宮子は不比等がまだ一介の役人でしかなかった頃に、地方豪族の娘との間に生まれたようですが、光明子は父と三千代の都合から文武天皇(草壁皇子の皇子)の妃にされてしまいました。
 姉の宮子は環境がごろりと変わって大変だったのかもしれませんが、聖武を生んでから具合が悪くなりました。我が子を抱くことはおろか、36年もの間、会おうともしなかったことは有名です。妃ですから、あらゆる名医による治療がなされたことでしょう。精神に異常があったのだろうと推察されています。この宮子の治療に成功したのが帰国した留学僧の玄で、36年ぶりに初めて我が子と対面したのです。

◆そんな聖武と光明子は同い年。十六歳で結婚します。何もまだわからないままお人形さんのように親たちに言われるままに入内したのでしょう。十八歳で、阿倍内親王を出産(後の孝謙・称徳天皇)しました。ですが、夫の聖武は父の文武も祖父の草壁も若くして亡くなっていますのであまりにも大切に育てられたせいか、魅力に乏しい人だったようで、母の宮子譲りの躁鬱の気もあって利発で行動力のある光明子は幸せではなかったのかもしれません。
◆二十歳の時に父の不比等が亡くなります。ですが、一説には父より母の三千代の方が権謀にたけていて裏の黒幕だっただろうと言われていますので、立場的な不安はなかったのかもしれません。
なにしろ、武智麻呂・房前・宇合・麻呂という兄たち四人がしっかりと、整備された律令にのっとって国を動かしていましたから盤石の体制に守られていました。天皇家出身でないと皇后にはなれないという慣わしも磐姫皇后の例を出して皇后という位置も用意しようと画策していました。
 二十四歳の時に聖武が即位しました。この頃になりますと、三千代が皇子を生みなさいを連発します。皇子を生まなければ、ようよう手に入れたこの地位を守ることが出来ないのです。
我が背子と二人見ませばいくばくか この降る雪の嬉しからまし

◆光明子はこのような歌を夫に贈っては心を添わせる努力をし二十七歳で念願の皇子を出産しました。もう、朝廷をあげての慶事ですぐさまその赤ん坊の基皇子が立体子とする儀式が執り行われました。ですが、この大切な皇子が一歳にも成らない内に亡くなってしまいます。
 この時、縋ったのが母の主治医のようになっていた玄です。いくらしっかりしていても我が子が衰えていくのを目の当たりにすれば取り乱して当然でしょう。玄坊は手を尽くし、秘薬なども惜しげなく使い、神仏への祈祷も日夜行いましたが甲斐がなかったのです。

◆この頃、藤原四兄弟にとって政権上、都合の悪い人がいました。長屋王です。
 この人は天武天皇の息子で人望厚かった高市皇子の息子です。妃は草壁の娘の吉備内親王で皇子もいます。臣下からの成り上がりでなく正当な皇位継承権を持つ上、正論を吐き、多くの人たちから信頼されている長屋王は藤原兄弟にとっては煙たい存在。持統の執念から草壁を天皇として父から息子への皇位を継承すると決めてはあるものの、肝心の基皇子が亡くなってしまったのですから慌てました。
 急いで光明子を皇后にしてしまわなければなりません。病弱な聖武に万一のことがあった場合に女帝にたてることができるからです。長屋王に政権への野心があったのかどうかはわかりませんが、藤原一族に政治を好きなようにされているという危機感を持っていました。きっと、光明子を皇后にすることも正論をもって反対するに違いない。不比等の子供たちにとっては恐怖と困惑の存在です。兄弟には後ろめたさとコンプレックスがあったのかもしれません。
 そこで、基皇子に毒を盛ったと言いがかりをつけて、先例に習い、謀反の疑いをかけて殺してしまおうとします。覚悟を決めた長屋王は一族と共に邸宅に籠もります。そして火を放って一族もろとも自害しました。
 やっと生まれた皇子は死に、長屋王一家までもがそのために殺されてしまった…傷心の光明子の気持ちなど考えられずに、その翌年には立妃の儀式が執り行われ、晴れて皇后となったのでした。
 話が前後しますが、この長屋王の変の二年後に玄坊が出現します。姑の宮子の長年の病が治ったことで光明子は玄を信頼するようになります。でも、それは恋愛関係ではなくてホームドクターのようなものだったのでしょう。むしろ、宮子との関係がそうしたものであったのが間違えて伝わってるようです。

◆玄はお坊さんですから仏の道を説きます。光明子は基皇子や長屋王の冥福を祈るためには貧しい人々に施しをすることだと教えられ、さっそくに皇后宮職を設置して慈善事業にとりかかりました。大臣たちが反対しても天皇の勅であればなんでも通るのです。無気力な聖武はなんでも光明子の言いなりでした。光明子は父の屋敷(法華寺)に施薬院を置き、自らの財によって薬草を集め、病者に施しました。貧窮者の救済にあたった悲田院もこの頃設置されたもののようです。生き甲斐をみつけたのでしょうね。いきいきとしていました。
 対する夫の方はといえば、やたらに遷都を繰り返していました。京都の加茂のあたりに恭仁京、近江の紫香楽宮、難波宮といった具合で、最後は平城京に遷都するのですが遷都には莫大な費用がかかります。夫は税金を大量に消費し、妻はボランティアに私費を投じると、考えれば奇妙な夫婦とも思えます。
 やがて、次の皇子の誕生を楽しみにしていた母の三千代が没し、その四年後に四人の兄たちが疱瘡にかかって次々と亡くなってしまいます。みな五十歳前後の働き盛りでした。人々は、これを長屋王の祟りだと噂しました。そんなこともあって光明子の信心はさらに深まっていきます。玄が持ち帰った五千余巻の経論の書写を発願し、また天皇に大仏建立を勧めたのも皇后だったのです。
 平城に還都し、天皇が東大寺造立に専念するようになると、次第に政治の面白さがわかってきた光明子は749年には夫を退位させ、娘の阿倍内親王を即位させます。孝謙天皇です。そして、自らは皇太后となり、皇后宮職を改め紫微中台を設置して、甥の大納言藤原仲麻呂(兄、武知麻呂の息子)に長官を兼ねさせ、ほぼ実権を掌握したのでした。藤原の血を守るために娘を天皇にして自分は自由に権力を駆使したということですね。
 752年には夫婦揃って東大寺の大仏開眼式に出席しました。

大船にしじ貫ぬきこの吾子を 唐国へ遣るいはへ神たち
この歌の詞書きには「春日にて神祭りせるほど、入唐大使藤原清河に賜ふ」とあります。大法会の時にでも作られたのでしょうか。


◆その4年後に聖武が崩御します。この時、光明子は天皇遺愛の品々を東大寺に献じましたが、これが正倉院の始まりであるとされています。そして、その四年後に自らも波乱に富んだ人生の幕を下ろしたのです。六十歳でした。今も光明子は夫の聖武と並んで佐保山東陵に静かに眠っています。
 興福寺五重塔や新薬師寺の造営を始め、仏教上の業績は数知れません。『元亨釈書』『延暦僧録』を始め伝記・逸話の類も多く、その美貌・慈悲・聡明・性的放縦などさまざまな逸話が伝えられています。なかでも、らい病の患者の膿を吸い取ったという逸話は有名でさまざまに語り繋がれてきています。もしかしたら、唐から帰国した留学僧の玄との出会いが光明子の人生を変えたのではなかろうかとも思えます。

朝霧の棚引く田居に鳴く雁を 留め得めやも我が屋戸の萩
吉野宮行幸の時の御歌です。





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石川郎女

2014-02-03 | 万葉集

いしかわのいらつめ
生没年未詳

◆石川という名前から蘇我氏の傍系の人だろうと推測されています。ですが、系譜や両親のことは不明なので、蘇我氏に連なるものの下の方の出であろうと思われます。しかも、同名の人が7名も萬葉集に見られまして研究者泣かせの人です。ここでは、一人の人物であると想定して進めていきます。いつの日にか定説がうまれるのでしょうか。
◆この郎女は若い頃から天武朝廷に仕え始めて大津皇子の侍女となりました。
 大津はご存知の通り天武朝の次期天皇にと期待されている若きホープです。若い二人は恋に落ちたのでしょう。相聞歌が残されています。
       
足引の山のしづくに妹待つと 吾が立ち濡れぬ山のしづくに
       
吾を待つと君が濡れけむ足引の山の しづくにならましものを

◆どうでしょう。息がぴったり合ってますね。ところが、これまた、母妃・持統の愛を独り占めしているもう一人の次期天皇候補の草壁皇子が二人の間に入ってきました。でも、大津一筋の石川郎女は草壁が歌を贈っても返歌もしません。草壁は過保護に育って腺病質な青年だったので頭能明晰で明るい大津には魅力の面では太刀打ちできなかったのでしょうが、石川郎女も欲のない素直な女性だったようです。もし、草壁皇子の子供でも生んでいれば人生も変わったと思うのは私だけでしょうか。けれど、数年後の大津の不幸の源をこの振られ事件にあると考える人も少なくないようです。
 彼女は非常に行動的でチャーミングな人だったのでしょうね。
       
梓弓引かばまにまに寄らめども 後の心を知りかてぬかも

 こんな誘いかけの歌を久米禅師という人に贈ったりしてます。

◆時が経ち、あの謀反事件が起こって大津は処刑されてしまいます。その時の石川郎女もさぞや悲しみ深く挽歌を作ったのでしょうが残されていません。
 お仕えしていた主人が亡くなったあと、何故か、持統の侍女になっています。立ち直りも早く、先の禅師への歌はこの頃のものかもしれません。それにしても、大津の恋人だった侍女を、しかも愛する息子を袖にした女をあの持統さまがご自分の元でお使いになるというのは何か裏があったのでしょうか。あるようにも思いますが深読みはやめておきます。
◆その後、どうやら石川郎女は結婚したらしいのですが、お相手はわかっていません。でも、彼女は再び歴史の中に登場します。人妻となった石川郎女に恋をしたのが大伴安麻呂という人です。この人は、なんと大伴旅人のお父さんなのです。旅人の子供が家持と家系は続きます。しかも、安麻呂は壬申の乱では天武側について活躍し、天武朝でも重臣でありましたし、後の文武天皇の治世では藤原不比等に次ぐ地位にあったといいますから大物だったのでしょうね。
 石川郎女にすれば玉の輿ということになりますが、草壁を振るくらいの女性ですからそういうことに目がくらむことはなかったと思われます。
       
神樹にも手は触るといふをうつたへに 人妻といへば触れぬものかも

◆この歌は安麻呂が作った歌です。結果的には、前の夫とどういう経緯が展開されたのかはわかりませんが、石川郎女は安麻呂と再婚しました。そして、大伴坂上郎女や大伴宿禰稲公を出産して幸せに暮らしたようです。
 夫が死去した後は大伴家の大刀自として一家を取り仕切りもし、具合が悪くなれば有馬温泉で療養もしました。その後のことはもう分かりませんが、きっと、子供たちに見守られて天寿を全うしたことでしょう。

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