小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

光明皇后

2014-02-05 | 万葉集

こうみょうこうごう
701~760
藤原安宿媛・光明皇后・藤皇后
皇后在位 729~749 皇太后在位749~760

◆藤原不比等の娘で母は県犬養橘宿禰三千代。武智麻呂・房前・宇合・麻呂・文武夫人宮子の異母妹にあたり、夫の首皇子(聖武天皇)は同い歳の甥でもあります。ややこしいですねえ。首皇子(のちの聖武天皇)との間に阿倍内親王と基親王が生まれました。
 子供の頃は安宿媛(あすかひめ)と呼ばれていたのでしょう。光り輝くほどに美しかったというところから740(天平12)年頃に光明子と呼ばれるようになったらしいのですが、真偽のほどはわかりません。
 不比等の娘に生まれたことで運命は決まっていたのでしょう。姉の宮子は不比等がまだ一介の役人でしかなかった頃に、地方豪族の娘との間に生まれたようですが、光明子は父と三千代の都合から文武天皇(草壁皇子の皇子)の妃にされてしまいました。
 姉の宮子は環境がごろりと変わって大変だったのかもしれませんが、聖武を生んでから具合が悪くなりました。我が子を抱くことはおろか、36年もの間、会おうともしなかったことは有名です。妃ですから、あらゆる名医による治療がなされたことでしょう。精神に異常があったのだろうと推察されています。この宮子の治療に成功したのが帰国した留学僧の玄で、36年ぶりに初めて我が子と対面したのです。

◆そんな聖武と光明子は同い年。十六歳で結婚します。何もまだわからないままお人形さんのように親たちに言われるままに入内したのでしょう。十八歳で、阿倍内親王を出産(後の孝謙・称徳天皇)しました。ですが、夫の聖武は父の文武も祖父の草壁も若くして亡くなっていますのであまりにも大切に育てられたせいか、魅力に乏しい人だったようで、母の宮子譲りの躁鬱の気もあって利発で行動力のある光明子は幸せではなかったのかもしれません。
◆二十歳の時に父の不比等が亡くなります。ですが、一説には父より母の三千代の方が権謀にたけていて裏の黒幕だっただろうと言われていますので、立場的な不安はなかったのかもしれません。
なにしろ、武智麻呂・房前・宇合・麻呂という兄たち四人がしっかりと、整備された律令にのっとって国を動かしていましたから盤石の体制に守られていました。天皇家出身でないと皇后にはなれないという慣わしも磐姫皇后の例を出して皇后という位置も用意しようと画策していました。
 二十四歳の時に聖武が即位しました。この頃になりますと、三千代が皇子を生みなさいを連発します。皇子を生まなければ、ようよう手に入れたこの地位を守ることが出来ないのです。
我が背子と二人見ませばいくばくか この降る雪の嬉しからまし

◆光明子はこのような歌を夫に贈っては心を添わせる努力をし二十七歳で念願の皇子を出産しました。もう、朝廷をあげての慶事ですぐさまその赤ん坊の基皇子が立体子とする儀式が執り行われました。ですが、この大切な皇子が一歳にも成らない内に亡くなってしまいます。
 この時、縋ったのが母の主治医のようになっていた玄です。いくらしっかりしていても我が子が衰えていくのを目の当たりにすれば取り乱して当然でしょう。玄坊は手を尽くし、秘薬なども惜しげなく使い、神仏への祈祷も日夜行いましたが甲斐がなかったのです。

◆この頃、藤原四兄弟にとって政権上、都合の悪い人がいました。長屋王です。
 この人は天武天皇の息子で人望厚かった高市皇子の息子です。妃は草壁の娘の吉備内親王で皇子もいます。臣下からの成り上がりでなく正当な皇位継承権を持つ上、正論を吐き、多くの人たちから信頼されている長屋王は藤原兄弟にとっては煙たい存在。持統の執念から草壁を天皇として父から息子への皇位を継承すると決めてはあるものの、肝心の基皇子が亡くなってしまったのですから慌てました。
 急いで光明子を皇后にしてしまわなければなりません。病弱な聖武に万一のことがあった場合に女帝にたてることができるからです。長屋王に政権への野心があったのかどうかはわかりませんが、藤原一族に政治を好きなようにされているという危機感を持っていました。きっと、光明子を皇后にすることも正論をもって反対するに違いない。不比等の子供たちにとっては恐怖と困惑の存在です。兄弟には後ろめたさとコンプレックスがあったのかもしれません。
 そこで、基皇子に毒を盛ったと言いがかりをつけて、先例に習い、謀反の疑いをかけて殺してしまおうとします。覚悟を決めた長屋王は一族と共に邸宅に籠もります。そして火を放って一族もろとも自害しました。
 やっと生まれた皇子は死に、長屋王一家までもがそのために殺されてしまった…傷心の光明子の気持ちなど考えられずに、その翌年には立妃の儀式が執り行われ、晴れて皇后となったのでした。
 話が前後しますが、この長屋王の変の二年後に玄坊が出現します。姑の宮子の長年の病が治ったことで光明子は玄を信頼するようになります。でも、それは恋愛関係ではなくてホームドクターのようなものだったのでしょう。むしろ、宮子との関係がそうしたものであったのが間違えて伝わってるようです。

◆玄はお坊さんですから仏の道を説きます。光明子は基皇子や長屋王の冥福を祈るためには貧しい人々に施しをすることだと教えられ、さっそくに皇后宮職を設置して慈善事業にとりかかりました。大臣たちが反対しても天皇の勅であればなんでも通るのです。無気力な聖武はなんでも光明子の言いなりでした。光明子は父の屋敷(法華寺)に施薬院を置き、自らの財によって薬草を集め、病者に施しました。貧窮者の救済にあたった悲田院もこの頃設置されたもののようです。生き甲斐をみつけたのでしょうね。いきいきとしていました。
 対する夫の方はといえば、やたらに遷都を繰り返していました。京都の加茂のあたりに恭仁京、近江の紫香楽宮、難波宮といった具合で、最後は平城京に遷都するのですが遷都には莫大な費用がかかります。夫は税金を大量に消費し、妻はボランティアに私費を投じると、考えれば奇妙な夫婦とも思えます。
 やがて、次の皇子の誕生を楽しみにしていた母の三千代が没し、その四年後に四人の兄たちが疱瘡にかかって次々と亡くなってしまいます。みな五十歳前後の働き盛りでした。人々は、これを長屋王の祟りだと噂しました。そんなこともあって光明子の信心はさらに深まっていきます。玄が持ち帰った五千余巻の経論の書写を発願し、また天皇に大仏建立を勧めたのも皇后だったのです。
 平城に還都し、天皇が東大寺造立に専念するようになると、次第に政治の面白さがわかってきた光明子は749年には夫を退位させ、娘の阿倍内親王を即位させます。孝謙天皇です。そして、自らは皇太后となり、皇后宮職を改め紫微中台を設置して、甥の大納言藤原仲麻呂(兄、武知麻呂の息子)に長官を兼ねさせ、ほぼ実権を掌握したのでした。藤原の血を守るために娘を天皇にして自分は自由に権力を駆使したということですね。
 752年には夫婦揃って東大寺の大仏開眼式に出席しました。

大船にしじ貫ぬきこの吾子を 唐国へ遣るいはへ神たち
この歌の詞書きには「春日にて神祭りせるほど、入唐大使藤原清河に賜ふ」とあります。大法会の時にでも作られたのでしょうか。


◆その4年後に聖武が崩御します。この時、光明子は天皇遺愛の品々を東大寺に献じましたが、これが正倉院の始まりであるとされています。そして、その四年後に自らも波乱に富んだ人生の幕を下ろしたのです。六十歳でした。今も光明子は夫の聖武と並んで佐保山東陵に静かに眠っています。
 興福寺五重塔や新薬師寺の造営を始め、仏教上の業績は数知れません。『元亨釈書』『延暦僧録』を始め伝記・逸話の類も多く、その美貌・慈悲・聡明・性的放縦などさまざまな逸話が伝えられています。なかでも、らい病の患者の膿を吸い取ったという逸話は有名でさまざまに語り繋がれてきています。もしかしたら、唐から帰国した留学僧の玄との出会いが光明子の人生を変えたのではなかろうかとも思えます。

朝霧の棚引く田居に鳴く雁を 留め得めやも我が屋戸の萩
吉野宮行幸の時の御歌です。





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